獣たちの宴
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気がつけば真っ暗な闇の世界に私はいた。
どこだろう、ここは。と、陳腐な疑問。
……少なくともあの遺跡の内部ではない。古くてかび臭く、息が詰まりそうな石造りの壁はその一切が消え失せ、見当たらなくなっている。
その代わりにとでもいうように、少しでも手を伸ばせば濃い闇色の霧がすぐに指先を呑み込み見えなくなった。
あまりにも気味が悪すぎる空間に最大限警戒しつつ、手を引っ込め、辺りを見渡す。少し前にどこかへ消え去った魔物たちはともかく、カミュくんもマヤちゃんも――重症なはずのゴリアテさんすらいない。闇に紛れてしまっているのかもと思ったが、それ以前に生命の気配を感じなかった。
…代わりに、突如一人の輪郭が浮き上がる。実体がないはずの真っ白な鎧を身に纏った金髪の美丈夫が、ついぞ見たことのないほどの存在感をもって私を出迎えた。といっても彼は基本的に私を蛇蠍のごとく嫌っているため、歓迎といった様子では決してない。
そんなこの世の存在ではない男が眼前に【存在している】ことによってようやく気づく。…ここは超常的な異世界なのだと。
「初めて呼び出してみたが。存外に上手くいくものだな」
「…何ここ。ホメロスさまのしわざなの?っていうか、なんでこんな時にこんなことを?」
「待て、いっぺんに喋るな。少し説明をしてやろう。まずここは現世より隔絶されている。いわば時の流れに乗らぬ場所」
……多分、今冷静だったとしても、ホメロスさまが言ってる意味が全くわからなかったに違いない。
私が少々ここに長くいても、ゴリアテさんの容態には関係がないのだ、という風にひとまず解釈すれば良いのだろうか。
「…バカな雛鳥のためにもう少し噛み砕いてやるか。ここは魔物に殺され、亡者となった者共が永遠に彷徨う冥府の闇の一角だ」
闇が呼応するように蠢いた気がした。
そんな不気味な場所に連れて来られたということは、私は魔物に殺されたのか。
でもいつの間に?っていうか致命傷を負ったゴリアテさんはすでにここにいるの?と新たな疑問が次々と湧いてくる。
それは予想範囲内だったのだろう。
「頭の悪いお前は自分が死んだなどと勘違いをするだろうが、先んじて否定しておく。そうではない。オレが特殊な術――詳細は伏せることにする。今のお前に語ったところで、意味があるまい――それを以てここに召喚した、と言えば回答としては適切だろう」
私が言語化する前にホメロスさまは説明してしまう。次の回答は不謹慎にも少し楽しげなものだった。
「ああ。お前の愛しのゴリアテ殿はもう間もなくここの住人になるやも知れぬなぁ?好きになれぬ男だが、精々親切にしてやるとするか」
手が、出そうになった。
激情のまま振り上げた右手を、けれど左手で押さえつける。
……この人はとてつもないキレ者だ。
今、このタイミングであえて私にこんなことをしたのには、絶対に意味がある。
それを知るまでは殴ってはいけない。
その一心で、言った。感情を押し殺して低く、呟くように。
「…ゴリアテさんを助けられるんでしょう?あなたなら。ねえ、方法を教えてよ。ドルマみたいに」
真顔で首を振るその態度が妙に殊勝で、その様に腹が立って体中が真っ赤に燃えた。
「はあ!?できるんでしょ、優秀な……私と違って優秀なホメロスさまなら!スクルトもドルマドンもできるホメロスさまなら、ホイミくらい楽勝だよね!?」
怒りと焦りと悲しみが合さってできた濁流が、私をホメロスさまに掴みかかるという行動に押し流す。けれどどれだけ怒鳴りあげても、彼は眉一つ動かさない。
腕から力が抜け、頭も垂れてゆく私を変わらず無表情で見据えてくるのに、なぜかどこか悲しげだった。
「己の無力だろう。オレのせいにするな」
ホメロスさまは私の手を振り払うと、三歩ほど歩き距離を取る。乱れた絹のような柔らかな前髪をすっと手ぐしで整えてから、口を改めて開いた。
「…それにそもそもだ。オレ…否オレたちには無理なのだよ、エルザ。ホイミを扱うことすらな。
さて、ここからは講義の時間だ。お前はなぜ、己が回復呪文を使えぬか。考えたことはあるか?」
ない、と思っただけで答えてはないのだけど、勝手に彼はどこか忌々しげに続けた。
「いいか。魔力にも種類があり、非常にはっきりとした得手不得手がある。わかりやすく例を出そう。魔法使いは攻撃魔法に長けるが治癒は苦手だ。一方僧侶はその逆。
なぜならば、攻撃魔法が得意な者が魔法使いとなり、回復魔法しかできぬ者は僧侶になる他ないためだ。生まれ持っての魔力の向きは、そう簡単には変えられないからな。
ちなみに、旅芸人や盗賊などは比較的何でもできる傾向にあるが、強大な魔力は扱えぬ。資質が足りず魔力の方向性すら定まらぬため、そのような中途半端なことになる。
…さて、エルザ。魔法戦士たるお前の得意な呪文は何だったかな?」
「ほじょ…」
「…そうだ。或いはオレのように、攻撃が得意なタイプも稀にだが存在する。だが…回復呪文を得意とする者は、クレイモランの文献を含めてすら知見がない。
いずれにせよ、このように魔力の向きからは何人たりとも逃れられぬ」
ホメロスさまはあざけ笑うかと思いきやそんなこともなかった。ごく真剣にひたすら、淡々と事実を述べているのだけはわかった。
…そこをなんとかしてよと泣きつこうにも、彼の言うことはそもそも正しいのだ。
私の魔力は、回復呪文を唱えるようにはできていない。それは皮肉にも魔力そのものを扱うことに長けた魔法戦士の本能により、理屈を並べずともわかることだ。
もちろん同じ魔法戦士であるホメロスさまもその特徴は共通する。彼の場合はもしかしたら魔法使いにもなれたのではないかというような強烈な攻撃性を持った類の魔力だということは見て取れる。しかしながら回復に関しては、イメージ通りというのも難だけど、実はからっきし。
私に関して言えば更に極端だ。
実は魔法戦士でも【祝福の杖】という両手杖の特技があれば、回復役ができる抜け道がなくもないのだが、どういうわけかそんなものですら使えた試しがない。
攻撃も補助もとにかく中途半端、そのくせ魔力だけはやたら多い。仮に攻守に活かすことさえできていれば賢者になれていたのかもしれないけれど……現実は理不尽甚だしい。
不思議になるほどに都合が悪すぎる体質で、出来損ないと言われるのも残念ながら当然だった。
……一方でそういう分析が、感覚的に得意なのも、私がただ【魔法が使えるだけの戦士】に留まらなかった無二の理由である。
いずれにしても、私たちには逆立ちしたってホイミを唱えることはできない。そういう己の高い分析能力が、絶望的な現実をこれ以上なくつきつけてきた。
「じゃあ、…もう何もできないの?」
じわりとあふれ出した涙はすぐにぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の雫と化す。
己の無力さをひたすらに噛みしめるしかない。
「私は…ゴリアテさんが苦しんで、死んでしまうのを、…ただ見ていることしかできないの?」
泣いていては何も成せないと言うが、そうでなくたってどうしようもない。だからせめて泣かせてほしい……。
ホメロスさまの言うことが本当ならばここは冥府の世界で、現世の時間の流れとは時の流れ方が違う。このまま元の世界に帰ってゴリアテさんの死に直面するくらいなら、いっそのことここに留まってしまいたいとさえ思った。
よぎった邪な考えが、実際に膝をつかせる。
ぱしゃんと水音がした。どうやらここは、地面一帯が血のように真っ赤な水溜りになっているらしい。そこに涙が落ちて次々に波紋を作ったが、色が薄まる気配はなかった。
「もうやだ…。もうやだよぅ、こんなの…!まだ、ゴリアテさんと仲直りだってできてないのに!」
いよいよ子どものように声を上げて泣き叫びそうになる私に、不意に手が差し伸べられる。
泣き腫らして若干見え辛くなった視界の先には、いつもいがみあっている剣の幽霊がいた。
彼は嘲るでもなく真顔というわけでもなく、真剣で、しかし誠実に微笑んでいる。
「聞け、エルザ。オレは何も、ただ単純にお前に絶望を与えに呼んだわけではない。…なあ、エルザ?お前を呼んだのは、希望を与えるためだ」
ざわり、と何か寒気のようなものが走る。ホメロスさまに希望、という似合わないワードにも気持ち悪さを感じたが、そんなことではさすがに涙までは引っ込まない。
もっと何かおぞましい、忌避するべき気配――否、あまりにも禍々しい魔力を彼の内側から感じたからだ。
「言っただろう、オレならばお前を救ってやれると。…オレと契約せよ。肉体はすでに滅びたとはいえ、一度は化生に窶した身。
人の理など無視した力を…、オレならば与えてやれる」
薄く微笑むホメロスさまの姿が、闇と一体化するように変貌していく。
元々白かった肌は青白いとまで呼ばれるまでに不健康な薄紫色に。透き通るように美しかった鳶色の瞳は、毒々しい赤色に転じ、爬虫類のように冷ややかで、どこかぎょろぎょろしていた。
それから美形にしか似合わないであろう、嫌味なくらい真っ白だった鎧は。
どこか邪悪な貴族めいた、巨大なカラーが特徴的なドス黒い意匠を施した装束にかわる。
「ホメロスさま……それは」
死神のようだ、という形容を呑み込む。
かつてのプラチナソードの代わりに手にした巨大な鎌といい、まるでそうなのだ。
そんな彼の提案に頷いたが最後、私はきっと破滅する。そう直感せずにはいられないくらい、禍々しくも魅力的な提案を彼は叩きつけてくる。
「何、契約と言っても些細なことだよ、エルザ殿。その時が来たらば、オレを助ける。なれば、ゴリアテ嬢の命は保障しよう」
甘い誘惑のような言葉だ。
まるで悪魔のような――否、悪魔そのものだ。
本来ならば拒絶しなければならない。
そこまでではなくても、頷いてはならない。たとえ、それがゴリアテさんを見捨てる最低最悪の結末になり果てたとしても。本能がビリビリと、そんなまずいレベルの危険信号を送ってくる。
ダメだ、ダメだ。絶対にダメなのだと、頭ではどこまでも理解している。
けれど。
「…乗った。だから、ホメロスさま。ゴリアテさんを助ける力を、私にちょうだい」
手は震えるが、それでも差し出す。
迷うまでもない。そうまでしなければいけない理由もまた頑として存在した。
ゴリアテさんをまだ、シルビアさんと呼んでいた時からずっと心に決めていたことだ。
いざという時は、なんとしても、どんなことがあっても愛する彼を守る。
それこそどんな手を使っても、だ。たとえこのように悪魔に魂を売ることになったって、悔いはない。
強烈なエゴという自覚すらある。しかし自分も自分以外もどうでもよくなるくらいに、ゴリアテさんは私のすべてなのだ。
「相わかった。今後とも、精々仲良くしようではないか」
にやりとしたり顔で笑うホメロスさまの心うちでは、すでに私の想像も及ばぬような策が張り巡らされているのだろう。…私はその駒として利用される。
それでも構わない、悔いはない。
それに、だ。
利用されるとわかっているなら身構えることもできる。彼の思い通りにならないように立ち回ることだってきっと不可能ではない。
だから、大丈夫。
私には、大好きなゴリアテさんがこれからも変わらず、側にいてくれるのだ。
どこだろう、ここは。と、陳腐な疑問。
……少なくともあの遺跡の内部ではない。古くてかび臭く、息が詰まりそうな石造りの壁はその一切が消え失せ、見当たらなくなっている。
その代わりにとでもいうように、少しでも手を伸ばせば濃い闇色の霧がすぐに指先を呑み込み見えなくなった。
あまりにも気味が悪すぎる空間に最大限警戒しつつ、手を引っ込め、辺りを見渡す。少し前にどこかへ消え去った魔物たちはともかく、カミュくんもマヤちゃんも――重症なはずのゴリアテさんすらいない。闇に紛れてしまっているのかもと思ったが、それ以前に生命の気配を感じなかった。
…代わりに、突如一人の輪郭が浮き上がる。実体がないはずの真っ白な鎧を身に纏った金髪の美丈夫が、ついぞ見たことのないほどの存在感をもって私を出迎えた。といっても彼は基本的に私を蛇蠍のごとく嫌っているため、歓迎といった様子では決してない。
そんなこの世の存在ではない男が眼前に【存在している】ことによってようやく気づく。…ここは超常的な異世界なのだと。
「初めて呼び出してみたが。存外に上手くいくものだな」
「…何ここ。ホメロスさまのしわざなの?っていうか、なんでこんな時にこんなことを?」
「待て、いっぺんに喋るな。少し説明をしてやろう。まずここは現世より隔絶されている。いわば時の流れに乗らぬ場所」
……多分、今冷静だったとしても、ホメロスさまが言ってる意味が全くわからなかったに違いない。
私が少々ここに長くいても、ゴリアテさんの容態には関係がないのだ、という風にひとまず解釈すれば良いのだろうか。
「…バカな雛鳥のためにもう少し噛み砕いてやるか。ここは魔物に殺され、亡者となった者共が永遠に彷徨う冥府の闇の一角だ」
闇が呼応するように蠢いた気がした。
そんな不気味な場所に連れて来られたということは、私は魔物に殺されたのか。
でもいつの間に?っていうか致命傷を負ったゴリアテさんはすでにここにいるの?と新たな疑問が次々と湧いてくる。
それは予想範囲内だったのだろう。
「頭の悪いお前は自分が死んだなどと勘違いをするだろうが、先んじて否定しておく。そうではない。オレが特殊な術――詳細は伏せることにする。今のお前に語ったところで、意味があるまい――それを以てここに召喚した、と言えば回答としては適切だろう」
私が言語化する前にホメロスさまは説明してしまう。次の回答は不謹慎にも少し楽しげなものだった。
「ああ。お前の愛しのゴリアテ殿はもう間もなくここの住人になるやも知れぬなぁ?好きになれぬ男だが、精々親切にしてやるとするか」
手が、出そうになった。
激情のまま振り上げた右手を、けれど左手で押さえつける。
……この人はとてつもないキレ者だ。
今、このタイミングであえて私にこんなことをしたのには、絶対に意味がある。
それを知るまでは殴ってはいけない。
その一心で、言った。感情を押し殺して低く、呟くように。
「…ゴリアテさんを助けられるんでしょう?あなたなら。ねえ、方法を教えてよ。ドルマみたいに」
真顔で首を振るその態度が妙に殊勝で、その様に腹が立って体中が真っ赤に燃えた。
「はあ!?できるんでしょ、優秀な……私と違って優秀なホメロスさまなら!スクルトもドルマドンもできるホメロスさまなら、ホイミくらい楽勝だよね!?」
怒りと焦りと悲しみが合さってできた濁流が、私をホメロスさまに掴みかかるという行動に押し流す。けれどどれだけ怒鳴りあげても、彼は眉一つ動かさない。
腕から力が抜け、頭も垂れてゆく私を変わらず無表情で見据えてくるのに、なぜかどこか悲しげだった。
「己の無力だろう。オレのせいにするな」
ホメロスさまは私の手を振り払うと、三歩ほど歩き距離を取る。乱れた絹のような柔らかな前髪をすっと手ぐしで整えてから、口を改めて開いた。
「…それにそもそもだ。オレ…否オレたちには無理なのだよ、エルザ。ホイミを扱うことすらな。
さて、ここからは講義の時間だ。お前はなぜ、己が回復呪文を使えぬか。考えたことはあるか?」
ない、と思っただけで答えてはないのだけど、勝手に彼はどこか忌々しげに続けた。
「いいか。魔力にも種類があり、非常にはっきりとした得手不得手がある。わかりやすく例を出そう。魔法使いは攻撃魔法に長けるが治癒は苦手だ。一方僧侶はその逆。
なぜならば、攻撃魔法が得意な者が魔法使いとなり、回復魔法しかできぬ者は僧侶になる他ないためだ。生まれ持っての魔力の向きは、そう簡単には変えられないからな。
ちなみに、旅芸人や盗賊などは比較的何でもできる傾向にあるが、強大な魔力は扱えぬ。資質が足りず魔力の方向性すら定まらぬため、そのような中途半端なことになる。
…さて、エルザ。魔法戦士たるお前の得意な呪文は何だったかな?」
「ほじょ…」
「…そうだ。或いはオレのように、攻撃が得意なタイプも稀にだが存在する。だが…回復呪文を得意とする者は、クレイモランの文献を含めてすら知見がない。
いずれにせよ、このように魔力の向きからは何人たりとも逃れられぬ」
ホメロスさまはあざけ笑うかと思いきやそんなこともなかった。ごく真剣にひたすら、淡々と事実を述べているのだけはわかった。
…そこをなんとかしてよと泣きつこうにも、彼の言うことはそもそも正しいのだ。
私の魔力は、回復呪文を唱えるようにはできていない。それは皮肉にも魔力そのものを扱うことに長けた魔法戦士の本能により、理屈を並べずともわかることだ。
もちろん同じ魔法戦士であるホメロスさまもその特徴は共通する。彼の場合はもしかしたら魔法使いにもなれたのではないかというような強烈な攻撃性を持った類の魔力だということは見て取れる。しかしながら回復に関しては、イメージ通りというのも難だけど、実はからっきし。
私に関して言えば更に極端だ。
実は魔法戦士でも【祝福の杖】という両手杖の特技があれば、回復役ができる抜け道がなくもないのだが、どういうわけかそんなものですら使えた試しがない。
攻撃も補助もとにかく中途半端、そのくせ魔力だけはやたら多い。仮に攻守に活かすことさえできていれば賢者になれていたのかもしれないけれど……現実は理不尽甚だしい。
不思議になるほどに都合が悪すぎる体質で、出来損ないと言われるのも残念ながら当然だった。
……一方でそういう分析が、感覚的に得意なのも、私がただ【魔法が使えるだけの戦士】に留まらなかった無二の理由である。
いずれにしても、私たちには逆立ちしたってホイミを唱えることはできない。そういう己の高い分析能力が、絶望的な現実をこれ以上なくつきつけてきた。
「じゃあ、…もう何もできないの?」
じわりとあふれ出した涙はすぐにぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の雫と化す。
己の無力さをひたすらに噛みしめるしかない。
「私は…ゴリアテさんが苦しんで、死んでしまうのを、…ただ見ていることしかできないの?」
泣いていては何も成せないと言うが、そうでなくたってどうしようもない。だからせめて泣かせてほしい……。
ホメロスさまの言うことが本当ならばここは冥府の世界で、現世の時間の流れとは時の流れ方が違う。このまま元の世界に帰ってゴリアテさんの死に直面するくらいなら、いっそのことここに留まってしまいたいとさえ思った。
よぎった邪な考えが、実際に膝をつかせる。
ぱしゃんと水音がした。どうやらここは、地面一帯が血のように真っ赤な水溜りになっているらしい。そこに涙が落ちて次々に波紋を作ったが、色が薄まる気配はなかった。
「もうやだ…。もうやだよぅ、こんなの…!まだ、ゴリアテさんと仲直りだってできてないのに!」
いよいよ子どものように声を上げて泣き叫びそうになる私に、不意に手が差し伸べられる。
泣き腫らして若干見え辛くなった視界の先には、いつもいがみあっている剣の幽霊がいた。
彼は嘲るでもなく真顔というわけでもなく、真剣で、しかし誠実に微笑んでいる。
「聞け、エルザ。オレは何も、ただ単純にお前に絶望を与えに呼んだわけではない。…なあ、エルザ?お前を呼んだのは、希望を与えるためだ」
ざわり、と何か寒気のようなものが走る。ホメロスさまに希望、という似合わないワードにも気持ち悪さを感じたが、そんなことではさすがに涙までは引っ込まない。
もっと何かおぞましい、忌避するべき気配――否、あまりにも禍々しい魔力を彼の内側から感じたからだ。
「言っただろう、オレならばお前を救ってやれると。…オレと契約せよ。肉体はすでに滅びたとはいえ、一度は化生に窶した身。
人の理など無視した力を…、オレならば与えてやれる」
薄く微笑むホメロスさまの姿が、闇と一体化するように変貌していく。
元々白かった肌は青白いとまで呼ばれるまでに不健康な薄紫色に。透き通るように美しかった鳶色の瞳は、毒々しい赤色に転じ、爬虫類のように冷ややかで、どこかぎょろぎょろしていた。
それから美形にしか似合わないであろう、嫌味なくらい真っ白だった鎧は。
どこか邪悪な貴族めいた、巨大なカラーが特徴的なドス黒い意匠を施した装束にかわる。
「ホメロスさま……それは」
死神のようだ、という形容を呑み込む。
かつてのプラチナソードの代わりに手にした巨大な鎌といい、まるでそうなのだ。
そんな彼の提案に頷いたが最後、私はきっと破滅する。そう直感せずにはいられないくらい、禍々しくも魅力的な提案を彼は叩きつけてくる。
「何、契約と言っても些細なことだよ、エルザ殿。その時が来たらば、オレを助ける。なれば、ゴリアテ嬢の命は保障しよう」
甘い誘惑のような言葉だ。
まるで悪魔のような――否、悪魔そのものだ。
本来ならば拒絶しなければならない。
そこまでではなくても、頷いてはならない。たとえ、それがゴリアテさんを見捨てる最低最悪の結末になり果てたとしても。本能がビリビリと、そんなまずいレベルの危険信号を送ってくる。
ダメだ、ダメだ。絶対にダメなのだと、頭ではどこまでも理解している。
けれど。
「…乗った。だから、ホメロスさま。ゴリアテさんを助ける力を、私にちょうだい」
手は震えるが、それでも差し出す。
迷うまでもない。そうまでしなければいけない理由もまた頑として存在した。
ゴリアテさんをまだ、シルビアさんと呼んでいた時からずっと心に決めていたことだ。
いざという時は、なんとしても、どんなことがあっても愛する彼を守る。
それこそどんな手を使っても、だ。たとえこのように悪魔に魂を売ることになったって、悔いはない。
強烈なエゴという自覚すらある。しかし自分も自分以外もどうでもよくなるくらいに、ゴリアテさんは私のすべてなのだ。
「相わかった。今後とも、精々仲良くしようではないか」
にやりとしたり顔で笑うホメロスさまの心うちでは、すでに私の想像も及ばぬような策が張り巡らされているのだろう。…私はその駒として利用される。
それでも構わない、悔いはない。
それに、だ。
利用されるとわかっているなら身構えることもできる。彼の思い通りにならないように立ち回ることだってきっと不可能ではない。
だから、大丈夫。
私には、大好きなゴリアテさんがこれからも変わらず、側にいてくれるのだ。