獣たちの宴
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ファーリス王子の正体を暴くぞ!!
……なんて意気込んで敵地に乗り込んでみたのは良いけれど。
美人局って実際どう立ち回れば正解なのか、発想が貧弱な私の脳ではさっぱりわからなかった。
身近なお色気キャラ(ゴリアテさん含む)をモデリングしようとするが、いずれも他人に一切媚びるタイプではない。
「いやあ、すばらしいね。昼間の凛とした戦士の姿も良かったが。月を背負った今はますます美しい」
スタイリストことゴリアテさんによるメイクが終わったあと、宿屋に待機していたサマディーの兵士に連れられた私は、城の一階に位置するファーリス王子の自室に案内された。
道中、何らかのハプニングなりあるだろうか、と予想は張り巡らせていたが特にそんなこともなく、豪奢な城の豪華な彼の部屋に案内される。
ブルークリスタルをはじめとした高価な調度品の数々で彩られる、その隙間という隙間に本がみっちりと詰め込まれていて、王族の部屋というよりもまるで博物館か研究室のようだ。
アンティークにさして詳しいわけでもないが、置いてあるツボを一つ取っても歴史的価値を感じさせる。
つまり青い絵の具で描かれる装飾がとても細かった。完全に庶民というか貧乏人の発想。
いずれにしても住む世界が違うとはいえ総じて勉強好きで、真面目な男の子の性格が伺える。
そんなファーリス王子がはたして、見ず知らずの女を自室に連れ込むような軟派で愚かしい真似をするだろうか?
これが真っ当な疑問なのか、疑心暗鬼かもわからない。
とはいえ机を挟んだ向こう側、優し気な面立ちに、失礼ながら不似合なんじゃないかと思うほど妖艶な笑みを浮かべるファーリス王子は、今の所どこまでもごく普通の人間に見えた。
「…どうしたんだい?ボクの顔をそんなに見つめて」
「あ、いえ…」
「ふふ。キミはかわいいね、エルザ。…そのワインはキミのために用意したんだ。遠慮せず飲んでくれたまえよ」
勧められる、テーブルの上の赤いワイン。
繊細な玻璃の中でまるでルビーのように艶やかな液体がたゆとう。いかにも上等で、存在自体が甘い誘惑そのものだ。
「すみません、せっかくなのだけどお酒は苦手で」
…とはいえ何が入っているかわからないだけに、口をつけるわけにはいかなかった。
「そうか。残念ではあるが、無理強いもしないさ。すぐに代わりのものを持ってこさせよう」
言うが早いかファーリス王子は手元にあったベルを鳴らす。
素早く現れたメイドにノンアルコールを申し付けると、 こちらに向いて再びにっこり笑った。
「さて、キミに来てもらったのは他でもない…と言ってもキミも子どもではないんだ。ある程度察しがついてのことだと思うが」
「はい…」
なぜか神妙に返事をしてしまう。
する必要のない緊張ではあるが、それっぽい雰囲気は出さなければならなかったのでこれはかえって良かったのかも知れない。
「とはいえ、ボクは何もただ夜伽の相手としてキミを呼んだわけではなくてね」
ファーリス王子も緊張するのだろう。息を深く吸い込んだのがわかった。
「ボクと結婚してほしいんだ」
「は?」
聞き返す私を見て、予想通りだと言わんばかりの無邪気な破顔。
「…その反応も当然だ。一国の王子ともあろう者が、一目惚れなどと愚かしいと自分でも思うよ。けれども」
真剣な面持ちに一瞬で切り替わる。
「運命というヤツかな。ダメなんだ。キミのことが、昼間からずっと頭に焼き付いて…離れそうもない」
運命という言葉を使うならば。それは私にとってゴリアテさんのためにある言葉だ。
悪いがあなたではないと自分でも驚くほど乾いた心で思った。
「王子。私はあなたと言葉を交わすのは今日が初めてだけれど、聡明な人物だと聞いています。
あなたにはこんなどこの馬の骨と知れない女なんかより、もっと相応しい女性がいるはずです」
けれども一応今回の任務は美人局というやつだ。だから恋人がいる、ということは気取られてはならない。
ましてやこれ限りと思われた一夜に結婚とかいう重い単語を持ち出してくるような男が相手だ。
…どう考えても今においてだけは都合が悪すぎる設定としか思えなかった。恐らく考えたくもないことだけれど、元彼などと嘘をついていたとしても。
「謙遜しないでくれ。確かにボクらは身分が違う。これはどうすることもできない事実だ。
…だが、それを理由に諦められない」
教養はないが、ゴリアテさんとの約束を果たすためならば頭はそれなりに回った。
彼を裏切らず、かつファーリス王子の正体に迫るためあえて一度身を引く。
目の前の玉の輿に飛びつくような下品な女ではいけない。
生まれを気にする哀れで思わず追いかけたくなるような女を演じるのだ。
私は身分違いの恋などした、と言う意味ではあける種この人の先輩になる。
みんな経験済だ。手に入らないほど伸ばしたくなる欲求なんてものなんて。
「…初めてなんだ、こんな気持ちは」
思わず、といったところだろう。
ファーリス王子は胸を押さえる。燭台の火に照らされた顔は赤いが、恐らく蝋燭が原因ではないのだろう。
どことなくせつない表情と声音はどこまでも人間のもので、彼を現在進行形で疑っていること自体が、なんだか申し訳なくなってくる。
「こちらに、来てくれないか」
懇願に近い掠れた声。今日会ったばかりの女にそこまで入れこむ理由が私には理解できなかった。
ごめんなさい、ゴリアテさん。やましい気持ちはないんです。本当に。
心の中でドン引きと謝罪を同時にしてから、ファーリス王子に従う。
ゴリアテさんにナチュラルメイクと称しつつもたっぷり塗られたファンデーションで、心も隠しながら。
…そのお陰だろうか。
「ああ、ずっとこうしたかった」
ファーリス王子におもむろに抱きしめられても、動揺することはなかった。
華奢に見えて意外と筋肉質な彼の腕の中で目を細める。
「私も…本当はそうなのかも知れません」
ゴリアテさん以外の男に口説かれ拒否反応でも出るかと思ったらそうでもなくて、ただ乾いたまでに冷静に現状を分析する自分に、多少の驚きを覚える。
「嬉しいよ…ああ、とても。とてもだ」
「はい。なんだか、不思議な気持ちです」
ゴリアテさんへの罪悪感を考えなければ、私もぜひこうしたかった。やましい気持ちは当然ない。
代わりに感じたこともないような不快感に襲われることになった。
とにかく、魔法戦士と呼ばれる者たちは、私に限らず魔力に関する嗅覚が全般的にかなり鋭い。
その精度は恐らく賢者と争うレベルの高さだと自称すらできるが、何分嗅覚は嗅覚。
対象は近ければ近い方が良いに決まっている。
バレないように慎重に魔力のにおいを覚え、咀嚼。
「…最初はカタチだけでもいい。そのうちボクを好きになってくれるなら、それでいい」
雰囲気に酔ったフリをして目を閉じる。
本当は背中に手でも回すべきなのかとも思うのだが、それはさすがに嫌すぎた。
「ファーリス王子…」
ゆっくりと目を開く。
結論を告げる。言語化の難しい根拠の鍵を持って、今度は口を開く。
「せっかくですが、お断りします」
私は強力な魔法こそ扱えないが、高速詠唱なら得意だ。とはいうものの、メラという初級呪文に対してその小器用さは必要ではない。
短い詠唱をこなし飛び出た小さな火の玉が、ファーリス王子の形をした何かの服を、黒く焼き焦がす。
「な、何を!ボクは王子…!」
素早く飛びのいてから慌てて手で叩き、消火に勤しむそいつを睨みつける。
その正体はわからないが、少なくともファーリス王子――彼が人間ではない以上、遠慮はいらなかった。
「獣臭」
「…何?」
「獣臭いのよ、あんた。私が、何よりも誰よりもゴリアテさんを愛するこの私が!
何もないのにあんたなんかに抱き締められると思う?」
ある程度目標として定まっていたとはいえ。そしてそれを達成するための手段としてとはいえ。
罪悪感とあの二年は洗ってない犬みたいな臭いに包まれていたときは正直吐き気がした。
距離をとった今になっても、まだ胸がムカムカする。
デルカダールのスラムで幼少期を過ごしていた私にとって、人間の体臭は嫌になるほど嗅ぎなれたものだ。
何せ風呂に入る人間というものがあそこでは極端に少ない。毎日となると恐らく皆無だろう。
そんなわけであそこは腐臭も含め常に悪臭で満たされていたわけだが、その記憶を紐解いて確信する。
あんな臭いがする人間などかつて見たことがない。外見上の身なりが清潔ならば、なおさらだ。
「…それにね、魔力のにおい」
燭台があるとはいえ夜の部屋は暗い。
それでもファーリス王子もどきの目がかっと見開かれたのがわかった。
「昼間も妙だと思ったけど今確信した。あんた強い魔力を垂れ流しすぎなのよ」
ぐっとそいつの息が詰まる。
「サマディーが魔法に疎い国だからって油断した?残念でした。腕の良い魔法戦士が来たのよ。二人もね!」
「その一人はキミってことかい」
「ご名答。あんたは悪い魔法使い?私は魔物だと思うけど?…どっちにしても茶番はもう終わりだよ」
強気に煽るが、内心肝が冷える思いだ。
何せ武器がない。使えるのは半端な体術とイマイチ貧弱な魔法のみだ。
それであの馬鹿力に勝つのはいささか無理に近い。昼間は剣を持って勝てなかったのだ。
だから逃げなければならない。
この作戦ののち落ち合う予定にしているゴリアテさんの部屋に行き、ホメロス様と三人でアレをどうするか考えなければならない。
…そもそも穏便に済ませれば良かったのではないかと若干後悔したが、それすなわちアレに抱かれるという意味に限りなく近いので、そもそも選択肢に入らなかったのだということを思い出した。
とにかく。
「魔法戦士か…。道理でキミは魅力的なわけだ、エルザ」
敵もバカではないらしい。というかバカは私だが。
ファーリス王子もどきは化けの皮が剥がれたことを承知の上でなお笑ってみせた。
ひどく邪悪に。
「けれど、ボクがファーリス王子でないことがわかったところでどう証明する気だい?
キミは鼻がずいぶんと利くようだが――そうでない者を納得させる根拠としては残念ながら弱そうだ」
まるでホメロスさまのような物言いを始めた敵の指摘は、的を射ていた。
言葉に詰まる。苦し紛れに、
「私の仲間が方法を知っている」
とうそぶいたところで説得力にはなり得ない。
「エルザ」
どうしたものかと考えあぐねる私をよそに、ファーリス王子もどきは両の腕を広げる。
ふわりと状況に不似合いなほどの優しい笑みを浮かべて。
「おいで。ボクの正体などどうでも良いじゃないか。今なら許してあげよう。キミの考えていることは手に取るようにわかるよ。
どうせキミはボクに勝てない、…だから逃げるしかないと思っている。しかしだ」
邪悪に言い切る。
「夜は人数が少ないとはいえ、この城の兵士たちがいる。
みなボクの手足のように動く。逃げ切れるものじゃあないよ」
これだけあからさまな偽者に気づかないサマディーの兵士たちに場違いにも目眩がする思いだった。
とはいえ恐らく外見はそっくりだし、となると声もだ。きっと致し方ないのだろう。
私やホメロスさまが特殊なのだ。
「…私ね、デルカダールから逃げ切ったことあるよ。だから今回も楽勝だと思わない?」
自分の黒歴史をハッタリも兼ねて武勇伝にすり替える。
「それは」
会話を続ける気なんてもはや無い。そう言わんばかりにギラを唱える。もちろん敵に撃ったところで威力は知れている。…ゆえに自分に。
詠唱ではなく発動の瞬間に目を閉じたのは、こうすることで強い光が発生するから。要するにこれは、目くらましの用途で用いている。
暗闇に視界を慣らされていたファーリス王子もどきが呻いた瞬間、踵を返し脱兎。
ギラのせいで皮膚の表面がひりひり痛むけれど、今ばかりは気にしてはいられなかった。
「クソ、諦めはしないよ!!エルザ!!」
怒鳴るような呼びかけに応える気など、もうありはしない。今はひたすら出口を目指して走るだけだ。
油断はならない。むしろこれからが本番なのだけど――胸中に飛来したのは差し当たってゴリアテさんとの約束を守れた奇妙な安心感だった。
……なんて意気込んで敵地に乗り込んでみたのは良いけれど。
美人局って実際どう立ち回れば正解なのか、発想が貧弱な私の脳ではさっぱりわからなかった。
身近なお色気キャラ(ゴリアテさん含む)をモデリングしようとするが、いずれも他人に一切媚びるタイプではない。
「いやあ、すばらしいね。昼間の凛とした戦士の姿も良かったが。月を背負った今はますます美しい」
スタイリストことゴリアテさんによるメイクが終わったあと、宿屋に待機していたサマディーの兵士に連れられた私は、城の一階に位置するファーリス王子の自室に案内された。
道中、何らかのハプニングなりあるだろうか、と予想は張り巡らせていたが特にそんなこともなく、豪奢な城の豪華な彼の部屋に案内される。
ブルークリスタルをはじめとした高価な調度品の数々で彩られる、その隙間という隙間に本がみっちりと詰め込まれていて、王族の部屋というよりもまるで博物館か研究室のようだ。
アンティークにさして詳しいわけでもないが、置いてあるツボを一つ取っても歴史的価値を感じさせる。
つまり青い絵の具で描かれる装飾がとても細かった。完全に庶民というか貧乏人の発想。
いずれにしても住む世界が違うとはいえ総じて勉強好きで、真面目な男の子の性格が伺える。
そんなファーリス王子がはたして、見ず知らずの女を自室に連れ込むような軟派で愚かしい真似をするだろうか?
これが真っ当な疑問なのか、疑心暗鬼かもわからない。
とはいえ机を挟んだ向こう側、優し気な面立ちに、失礼ながら不似合なんじゃないかと思うほど妖艶な笑みを浮かべるファーリス王子は、今の所どこまでもごく普通の人間に見えた。
「…どうしたんだい?ボクの顔をそんなに見つめて」
「あ、いえ…」
「ふふ。キミはかわいいね、エルザ。…そのワインはキミのために用意したんだ。遠慮せず飲んでくれたまえよ」
勧められる、テーブルの上の赤いワイン。
繊細な玻璃の中でまるでルビーのように艶やかな液体がたゆとう。いかにも上等で、存在自体が甘い誘惑そのものだ。
「すみません、せっかくなのだけどお酒は苦手で」
…とはいえ何が入っているかわからないだけに、口をつけるわけにはいかなかった。
「そうか。残念ではあるが、無理強いもしないさ。すぐに代わりのものを持ってこさせよう」
言うが早いかファーリス王子は手元にあったベルを鳴らす。
素早く現れたメイドにノンアルコールを申し付けると、 こちらに向いて再びにっこり笑った。
「さて、キミに来てもらったのは他でもない…と言ってもキミも子どもではないんだ。ある程度察しがついてのことだと思うが」
「はい…」
なぜか神妙に返事をしてしまう。
する必要のない緊張ではあるが、それっぽい雰囲気は出さなければならなかったのでこれはかえって良かったのかも知れない。
「とはいえ、ボクは何もただ夜伽の相手としてキミを呼んだわけではなくてね」
ファーリス王子も緊張するのだろう。息を深く吸い込んだのがわかった。
「ボクと結婚してほしいんだ」
「は?」
聞き返す私を見て、予想通りだと言わんばかりの無邪気な破顔。
「…その反応も当然だ。一国の王子ともあろう者が、一目惚れなどと愚かしいと自分でも思うよ。けれども」
真剣な面持ちに一瞬で切り替わる。
「運命というヤツかな。ダメなんだ。キミのことが、昼間からずっと頭に焼き付いて…離れそうもない」
運命という言葉を使うならば。それは私にとってゴリアテさんのためにある言葉だ。
悪いがあなたではないと自分でも驚くほど乾いた心で思った。
「王子。私はあなたと言葉を交わすのは今日が初めてだけれど、聡明な人物だと聞いています。
あなたにはこんなどこの馬の骨と知れない女なんかより、もっと相応しい女性がいるはずです」
けれども一応今回の任務は美人局というやつだ。だから恋人がいる、ということは気取られてはならない。
ましてやこれ限りと思われた一夜に結婚とかいう重い単語を持ち出してくるような男が相手だ。
…どう考えても今においてだけは都合が悪すぎる設定としか思えなかった。恐らく考えたくもないことだけれど、元彼などと嘘をついていたとしても。
「謙遜しないでくれ。確かにボクらは身分が違う。これはどうすることもできない事実だ。
…だが、それを理由に諦められない」
教養はないが、ゴリアテさんとの約束を果たすためならば頭はそれなりに回った。
彼を裏切らず、かつファーリス王子の正体に迫るためあえて一度身を引く。
目の前の玉の輿に飛びつくような下品な女ではいけない。
生まれを気にする哀れで思わず追いかけたくなるような女を演じるのだ。
私は身分違いの恋などした、と言う意味ではあける種この人の先輩になる。
みんな経験済だ。手に入らないほど伸ばしたくなる欲求なんてものなんて。
「…初めてなんだ、こんな気持ちは」
思わず、といったところだろう。
ファーリス王子は胸を押さえる。燭台の火に照らされた顔は赤いが、恐らく蝋燭が原因ではないのだろう。
どことなくせつない表情と声音はどこまでも人間のもので、彼を現在進行形で疑っていること自体が、なんだか申し訳なくなってくる。
「こちらに、来てくれないか」
懇願に近い掠れた声。今日会ったばかりの女にそこまで入れこむ理由が私には理解できなかった。
ごめんなさい、ゴリアテさん。やましい気持ちはないんです。本当に。
心の中でドン引きと謝罪を同時にしてから、ファーリス王子に従う。
ゴリアテさんにナチュラルメイクと称しつつもたっぷり塗られたファンデーションで、心も隠しながら。
…そのお陰だろうか。
「ああ、ずっとこうしたかった」
ファーリス王子におもむろに抱きしめられても、動揺することはなかった。
華奢に見えて意外と筋肉質な彼の腕の中で目を細める。
「私も…本当はそうなのかも知れません」
ゴリアテさん以外の男に口説かれ拒否反応でも出るかと思ったらそうでもなくて、ただ乾いたまでに冷静に現状を分析する自分に、多少の驚きを覚える。
「嬉しいよ…ああ、とても。とてもだ」
「はい。なんだか、不思議な気持ちです」
ゴリアテさんへの罪悪感を考えなければ、私もぜひこうしたかった。やましい気持ちは当然ない。
代わりに感じたこともないような不快感に襲われることになった。
とにかく、魔法戦士と呼ばれる者たちは、私に限らず魔力に関する嗅覚が全般的にかなり鋭い。
その精度は恐らく賢者と争うレベルの高さだと自称すらできるが、何分嗅覚は嗅覚。
対象は近ければ近い方が良いに決まっている。
バレないように慎重に魔力のにおいを覚え、咀嚼。
「…最初はカタチだけでもいい。そのうちボクを好きになってくれるなら、それでいい」
雰囲気に酔ったフリをして目を閉じる。
本当は背中に手でも回すべきなのかとも思うのだが、それはさすがに嫌すぎた。
「ファーリス王子…」
ゆっくりと目を開く。
結論を告げる。言語化の難しい根拠の鍵を持って、今度は口を開く。
「せっかくですが、お断りします」
私は強力な魔法こそ扱えないが、高速詠唱なら得意だ。とはいうものの、メラという初級呪文に対してその小器用さは必要ではない。
短い詠唱をこなし飛び出た小さな火の玉が、ファーリス王子の形をした何かの服を、黒く焼き焦がす。
「な、何を!ボクは王子…!」
素早く飛びのいてから慌てて手で叩き、消火に勤しむそいつを睨みつける。
その正体はわからないが、少なくともファーリス王子――彼が人間ではない以上、遠慮はいらなかった。
「獣臭」
「…何?」
「獣臭いのよ、あんた。私が、何よりも誰よりもゴリアテさんを愛するこの私が!
何もないのにあんたなんかに抱き締められると思う?」
ある程度目標として定まっていたとはいえ。そしてそれを達成するための手段としてとはいえ。
罪悪感とあの二年は洗ってない犬みたいな臭いに包まれていたときは正直吐き気がした。
距離をとった今になっても、まだ胸がムカムカする。
デルカダールのスラムで幼少期を過ごしていた私にとって、人間の体臭は嫌になるほど嗅ぎなれたものだ。
何せ風呂に入る人間というものがあそこでは極端に少ない。毎日となると恐らく皆無だろう。
そんなわけであそこは腐臭も含め常に悪臭で満たされていたわけだが、その記憶を紐解いて確信する。
あんな臭いがする人間などかつて見たことがない。外見上の身なりが清潔ならば、なおさらだ。
「…それにね、魔力のにおい」
燭台があるとはいえ夜の部屋は暗い。
それでもファーリス王子もどきの目がかっと見開かれたのがわかった。
「昼間も妙だと思ったけど今確信した。あんた強い魔力を垂れ流しすぎなのよ」
ぐっとそいつの息が詰まる。
「サマディーが魔法に疎い国だからって油断した?残念でした。腕の良い魔法戦士が来たのよ。二人もね!」
「その一人はキミってことかい」
「ご名答。あんたは悪い魔法使い?私は魔物だと思うけど?…どっちにしても茶番はもう終わりだよ」
強気に煽るが、内心肝が冷える思いだ。
何せ武器がない。使えるのは半端な体術とイマイチ貧弱な魔法のみだ。
それであの馬鹿力に勝つのはいささか無理に近い。昼間は剣を持って勝てなかったのだ。
だから逃げなければならない。
この作戦ののち落ち合う予定にしているゴリアテさんの部屋に行き、ホメロス様と三人でアレをどうするか考えなければならない。
…そもそも穏便に済ませれば良かったのではないかと若干後悔したが、それすなわちアレに抱かれるという意味に限りなく近いので、そもそも選択肢に入らなかったのだということを思い出した。
とにかく。
「魔法戦士か…。道理でキミは魅力的なわけだ、エルザ」
敵もバカではないらしい。というかバカは私だが。
ファーリス王子もどきは化けの皮が剥がれたことを承知の上でなお笑ってみせた。
ひどく邪悪に。
「けれど、ボクがファーリス王子でないことがわかったところでどう証明する気だい?
キミは鼻がずいぶんと利くようだが――そうでない者を納得させる根拠としては残念ながら弱そうだ」
まるでホメロスさまのような物言いを始めた敵の指摘は、的を射ていた。
言葉に詰まる。苦し紛れに、
「私の仲間が方法を知っている」
とうそぶいたところで説得力にはなり得ない。
「エルザ」
どうしたものかと考えあぐねる私をよそに、ファーリス王子もどきは両の腕を広げる。
ふわりと状況に不似合いなほどの優しい笑みを浮かべて。
「おいで。ボクの正体などどうでも良いじゃないか。今なら許してあげよう。キミの考えていることは手に取るようにわかるよ。
どうせキミはボクに勝てない、…だから逃げるしかないと思っている。しかしだ」
邪悪に言い切る。
「夜は人数が少ないとはいえ、この城の兵士たちがいる。
みなボクの手足のように動く。逃げ切れるものじゃあないよ」
これだけあからさまな偽者に気づかないサマディーの兵士たちに場違いにも目眩がする思いだった。
とはいえ恐らく外見はそっくりだし、となると声もだ。きっと致し方ないのだろう。
私やホメロスさまが特殊なのだ。
「…私ね、デルカダールから逃げ切ったことあるよ。だから今回も楽勝だと思わない?」
自分の黒歴史をハッタリも兼ねて武勇伝にすり替える。
「それは」
会話を続ける気なんてもはや無い。そう言わんばかりにギラを唱える。もちろん敵に撃ったところで威力は知れている。…ゆえに自分に。
詠唱ではなく発動の瞬間に目を閉じたのは、こうすることで強い光が発生するから。要するにこれは、目くらましの用途で用いている。
暗闇に視界を慣らされていたファーリス王子もどきが呻いた瞬間、踵を返し脱兎。
ギラのせいで皮膚の表面がひりひり痛むけれど、今ばかりは気にしてはいられなかった。
「クソ、諦めはしないよ!!エルザ!!」
怒鳴るような呼びかけに応える気など、もうありはしない。今はひたすら出口を目指して走るだけだ。
油断はならない。むしろこれからが本番なのだけど――胸中に飛来したのは差し当たってゴリアテさんとの約束を守れた奇妙な安心感だった。