デフォルト名は「柚木八重(ゆずきやえ)」です。
悪魔の花嫁
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エントランスで散々大騒ぎしたというのに、そのあとも更に玄関前でスペアキーを押しつける蛭魔と、懸命に固辞する八重でひと悶着起きてしまった。
結果として問答無用でスペアキーを押し付けられることになった八重は、機嫌良く鍵を開け部屋に入っていく蛭魔のあとに続きながら大きくため息を吐き出した。
「おじゃましまーす……はぁー、料理する前から既に疲れちゃった」
「ケケケ、八重チャンは体力ねえなぁ」
「体力というか精神力が削られたんだよ……あ、スリッパありがとう」
足元へさり気なく置かれたスリッパを履きながら、蛭魔くんもスリッパ使うんだ……と、八重は変なところで感心してしまった。
蛭魔は見た目の奇抜さや破天荒な言動のせいで、普段は目立ちにくいのだが、ふとした瞬間に見せる所作が妙に品のあるときがある。
それが生まれ育った環境によるものなのか、それとも後から身につけたものなのかは分からない。
蛭魔は自身の家族や家庭環境については触れてほしくはなさそうなので、八重はわざわざ聞こうとは思っていない。
だけど、蛭魔がいつも見せている姿とは少し違う、新しい一面を知れるのは純粋に嬉しかった。
「キッチンはこっちな」
「はーい……ってうわ、凄い…」
蛭魔に案内されてキッチンへ向かうと、ここはモデルルームですか?というくらいの豪華なキッチンに八重は一瞬足が止まってしまった。
しばし無言でくるりとキッチンの中を見回したあと、我に返った八重はテンション高くあちこちと見て回る。
「す、すごい綺麗!冷蔵庫が大きい!コンロが3つある!シンクと作業スペースが広〜い!」
「……おい、さっきまで疲れたって言ってたのはどこのどいつだ?」
「だって、こんな綺麗で広々したキッチンなかなか見ることないから……っていうか料理しててウッカリ汚しちゃったらどうしよう………」
呑気にはしゃいでいたが、八重はこれからここで大量の料理を作らなければいけないということに気が付いてしまった。
絶対に何かしらで汚す自信しかない。
こんなに綺麗なキッチンを汚すのは流石にちょっと抵抗あるなぁ…と急に緊張した面持ちになった八重を見て、蛭魔は呆れたように鼻で笑った。
「……どーせオメーしか使わねぇから実質ここはオメーのモンだ。好きに使えばいいだろーが」
「えぇ……こんな立派なキッチン、私一人しか使わないの勿体無い……この機会に蛭魔くんも使ってみようよ」
「ケッ、やなこった。オメーが俺の分まで使えば結果は同じだ。キリキリ働け」
「うーん、なるほど。その発想は無かったなぁ」
絶対に料理はしないという強い意志を感じる蛭魔の様子に苦笑いを浮かべながら、とりあえずスーパーで買った物をしまおうと八重は冷蔵庫を開けた。
「……………。 え、冷蔵庫こんなに大きいのにコーラしか入ってない……野菜室も冷凍室も空っぽ……」
もはや電気代の無駄なのではというくらい、殆ど使われていない様子の冷蔵庫。
スペースが余りまくっている庫内を目の当たりにした八重は、ぽかんとした顔で蛭魔を見ると彼は平然とした顔で見つめ返してきた。
「普段ほとんど使わねぇからな」
「えぇぇ……まぁでも、今日作った料理を沢山入れられると思えば、まぁまぁ、うん……いっか」
「ケケケケケ、そういうことだ。よろしく頼むぜ? 専属栄養士様」
「もー、その呼び方はやめてってば……」
意地悪く笑う蛭魔に八重がげんなりと肩を落としていると、チャッチャッと足音を鳴らしながら鼻息の荒いケルベロスがやってきた。
「あ、ケルベロス〜!おはよう、会いたかったよ〜!」
「……まーた急にテンション上げやがったな」
「これは仕方ないの。ケルベロスに会うの久しぶりだし」
満面の笑顔で話しかけながらワシワシとケルベロスを撫で回している八重に、蛭魔は本日何回目かの呆れた表情を浮かべた。
「なに言ってやがる。オメーら昨日思いっきり会ってたじゃねーか」
「……それはそれ、これはこれだよ」
「へーへー左様でございますか。いーからさっさと仕事しろ」
「あ、そうだね。どんどん作らないと……」
八重はまたあとでね、とケルベロスに声をかけて頭の中でどういう手順で進めていくかしばし考えたあと、作業にとりかかることにした。
***
「……へぇ、なかなか手際いーじゃねぇか」
「ほんと? まぁ、伊達に毎日お料理していませんので」
まずは下準備から、とテキパキ動いて作業を進めていく姿を見て感心したように呟いた蛭魔に向かって、八重は得意気な顔をして軽く胸を張る。
そんな彼女の珍しい表情に、蛭魔は一瞬目を見開いてからニヤリと笑みを浮かべた。
「……ケケッ、大した自信だな。俺は向こうで作業してっから、なんかあったら声かけろ」
「うん、分かった」
ここで突っ立ってても時間の無駄だと判断したのだろう。
蛭魔は八重の足元で待機しているケルベロスに テメーもこっち来い、と声をかけてリビングへと向かっていった。
***
「……蛭魔くんって、こういう味付け平気かな?」
せっかく沢山の料理を作るのだからと、今まで蛭魔に食べさせたことのないメニューも作っていた八重は少しだけ心配になってしまい手を止めた。
意外となんでも食べてくれるので大丈夫な気もするが、なんとなく不安になった八重は本人に直接聞いてみようとリビングを覗き込んだ。
やはりキッチンが広いだけあって、リビングも広い。
大きな液晶テレビの前にはローテーブルがあり、アメフト関係の資料と思われる数々が雑然と並べられているが、散らかっているという印象はなかった。
使われた形跡が無かったキッチンとは違い、リビングはどことなく蛭魔の生活感を感じるせいなのか、八重はなぜか少しドキドキして落ち着かない。
とりあえずソファに座っている蛭魔に声をかけようと近付いた八重だったが、直前で彼の手元が止まっていることに気が付き咄嗟に足を止める。
なんと、蛭魔は無防備にもパソコンを開いたまま、ソファに身体を預けて眠りに落ちているではないか。
「………寝てる…?」
思わず小さく声に出してしまい慌てて口を押さえた八重だったが、蛭魔が起きる気配はない。
彼の足元には先程まで元気に尻尾を振っていたケルベロスも身体を丸めて気持ちよさそうに眠っている。
微笑ましい寝姿を見せる彼らに八重はつい好奇心が抑えきれず、パソコンの中身を見ないように気を付けながら蛭魔の正面までコッソリと移動して彼の様子を観察することにした。
「…………………」
こんな事を言ったら本気で嫌がられてしまいそうだが、泥門の悪魔と呼ばれている蛭魔でも寝ている時は少し幼く見える。
八重はなんだかんだ彼も普通の男の子なんだな、と少し感慨深い気持ちになってしまった。
そういえば、八重との待ち合わせより前に用事があったと言っていたので、実はかなり早起きをしていたのかもしれない。
よく眠っているようだし、味見程度のことで起こすのは申し訳ないなと思い直した八重は、大きな音を立てないようにしてキッチンに戻り作業を再開することにした。
***
「ふぅ、だいたいこんなもんかな……」
冷蔵室や冷凍室に詰められた容器を眺めて満足そうに頷いた八重が時計を見ると、すっかりお昼の時刻だ。
食材に余裕があったので、ちゃっかり自分たちとケルベロスのお昼ご飯を作った八重は蛭魔に声をかけるために、もう一度リビングに向かった。
「……蛭魔くん、蛭魔くん」
寝ているのか考え事をしているのか分かりかねる蛭魔に恐る恐る声をかけ、そっと肩に触れる。
何度目かの声かけでようやく気が付いて薄く目を開いた彼は、眩しそうな表情を浮かべてゆっくりと八重を見上げてきた。
「…………………」
「お昼ご飯作ったんだけど、食べれそう? もう少し寝る?」
「……………食う」
「分かった。じゃあすぐ準備するから、テーブル来てね」
「…おー………」
まだちゃんと覚醒できていないのか、蛭魔はまぶたを半分閉じたような状態で気怠げに身体を起こそうとしている。
八重は既に起きて尻尾を振りまくっているケルベロスを撫でながら、実は寝起きが良くないんだなと零れそうになる笑いを頑張って噛み殺した。
***
「あ、ケルベロス!ケルベロスのご飯はあっち!これはだめ!」
華麗に椅子へ飛び乗り、テーブルに身体を乗り出しておかずを狙うケルベロスを八重が叱ると、ケルベロスは渋々といった様子で椅子から飛び降りた。
不服そうに唸り声をあげながら自分の餌皿の方にチャッチャッという足音と共に向かって行くケルベロスに、八重は腰に手を当てながら大きく息を吐き出した。
「まったくもう、油断も隙もなく可愛いんだから!」
「おい、日本語おかしーぞ」
「あ、蛭魔くん。ちゃんと起きれたんだね、おはよう」
「……ガキ扱いすんじゃねぇよ」
「してないしてない」
言葉は荒っぽいが、苦笑いを浮かべてテーブルに座る彼の顔を見る限り、言うほど気にしてないのだろう。
八重はクスクスと笑いながらいただきます、といつものように手を合わせて食べ始めると、蛭魔もまたいつものようにそれに合わせて食べ始めた。
「料理はもうほとんど出来て冷蔵庫に入れてあるから、あとは片付けだけだよ。あ、容器にそれぞれ付箋が貼ってあるから、食べる時に確認してね」
「……俺が寝ちまってる間にそこまでやったのか」
「うん。作業スペースが広いおかげで同時進行に色々できたし、思ったより早く終わっちゃった」
「……そうか。じゃあ次も楽勝ってことだな」
「うん。なんとなくコツは掴んだから、次はもっと上手くやれると思う」
「ケケッ、言うじゃねーか。じゃあさっさと片付けて次行くぞ」
「……………………え?」
おかずを口に運ぼうとしていた八重の手が止まる。
“次”というのは『また来週』の“次”だと八重は思っていたのだが、今の蛭魔の言い方はまるで『今日この後の』“次”に聞こえた。
言葉の意味が理解できず首を傾げて蛭魔の方を見ると、彼は今日一番と言っていいくらいの悪い笑みをニンマリと浮かべている。
「聞こえなかったか? 次だ次、俺ん家はここだけじゃねーぞ」
「え!? こ、ここだけじゃない!?どゆこと!?」
「ここよか狭ぇが、もう1つ家があんだよ」
「そ、そんなの聞いてない……」
「今はじめて言ったからな、ケケケッ」
ひどい後出しに八重は思わず頭を抱えそうになったが、ふとスーパーで買い物をしている時に蛭魔が『時間ねーんだからさっさと行くぞ』と言っていたのを思い出した。
「あ。……ねぇ、もしかしてスーパーで時間がないって言ってたの、そういうこと?」
「おー。さすが八重チャン、冴えてるじゃねーか」
「……その時点で言ってくれたらいいのに」
「あそこで言ってもつまんねぇだろ」
「いや、つまるつまらないの問題じゃないよ……」
八重は肩を落として溜め息をつくと、ほんの少し好奇心を覗かせた目をしながら蛭魔の方へ顔を向けた。
「……ねぇ、もう1つのお家って、ここから近いの?」
「お、切り替えたな。ケケケッ」
「だって、お家が2つあるって正直気になるもん」
想定外の事実に驚きはしたが、こんな経験は滅多にできることではない。
祖母には念のため遅くなるかもしれないと伝えているし、こういう時は素直に楽しんでしまった方がいいのだと開き直るべきだ。
八重は今後のために小さく気合を入れて、手に持ったままだったおかずをぱくりと口に運んだ。
***
昼食を食べ終わり、八重が食器などをシンクに置いていると蛭魔も使い終わった調理器具などを持って隣にやってきた。
「あ、蛭魔くんありがとう。座ってくれててもいいのに」
わざわざ手伝いに来てくれたのか、と八重が目を見張って蛭魔を見ると、彼は無言で下を向いて足元にある扉を引っ張った。
え、と思わず声を上げた八重が足元へ視線を向けると、そこにはプラスチックの壁面に囲まれた空間に、回転ノズルやスチールのラックが無機質に収まっている。
「ここ食洗機な。軽く流して突っ込んどきゃいい」
「えぇぇ……ねぇ本当に、なんでこんな良いキッチン使わないの蛭魔くん……」
広くて、綺麗で、オマケにこんな大容量の食洗機があるのに今までほとんど使ってこなかったなんて、あまりにも勿体無さすぎる。
蛭魔は悔しそうに呻き拳を握る八重を見て、楽しそうに笑い声をあげた。
「ケケケケケッ!だからオメーが俺の分まで使いこなせっつってんだろ。……次行くとこもな」
「え、次もこんな凄いキッチンなの?……なんか私そろそろ知恵熱出ちゃいそう……」
「おーおー。そりゃ大変だ、これで頭冷やしとけ」
そう言うと、蛭魔はいまだに渋い顔をしている八重のおでこにコーラの缶をコツンと当てて渡してきた。
「!……はーい」
蛭魔は本当に傍若無人でめちゃくちゃな事ばかり突き付けてくるが、そんな彼の傍で過ごすのは案外楽しい。
八重は受け取ったコーラでおでこを冷やすフリをしながら、小さく笑みを浮かべたのだった。
結果として問答無用でスペアキーを押し付けられることになった八重は、機嫌良く鍵を開け部屋に入っていく蛭魔のあとに続きながら大きくため息を吐き出した。
「おじゃましまーす……はぁー、料理する前から既に疲れちゃった」
「ケケケ、八重チャンは体力ねえなぁ」
「体力というか精神力が削られたんだよ……あ、スリッパありがとう」
足元へさり気なく置かれたスリッパを履きながら、蛭魔くんもスリッパ使うんだ……と、八重は変なところで感心してしまった。
蛭魔は見た目の奇抜さや破天荒な言動のせいで、普段は目立ちにくいのだが、ふとした瞬間に見せる所作が妙に品のあるときがある。
それが生まれ育った環境によるものなのか、それとも後から身につけたものなのかは分からない。
蛭魔は自身の家族や家庭環境については触れてほしくはなさそうなので、八重はわざわざ聞こうとは思っていない。
だけど、蛭魔がいつも見せている姿とは少し違う、新しい一面を知れるのは純粋に嬉しかった。
「キッチンはこっちな」
「はーい……ってうわ、凄い…」
蛭魔に案内されてキッチンへ向かうと、ここはモデルルームですか?というくらいの豪華なキッチンに八重は一瞬足が止まってしまった。
しばし無言でくるりとキッチンの中を見回したあと、我に返った八重はテンション高くあちこちと見て回る。
「す、すごい綺麗!冷蔵庫が大きい!コンロが3つある!シンクと作業スペースが広〜い!」
「……おい、さっきまで疲れたって言ってたのはどこのどいつだ?」
「だって、こんな綺麗で広々したキッチンなかなか見ることないから……っていうか料理しててウッカリ汚しちゃったらどうしよう………」
呑気にはしゃいでいたが、八重はこれからここで大量の料理を作らなければいけないということに気が付いてしまった。
絶対に何かしらで汚す自信しかない。
こんなに綺麗なキッチンを汚すのは流石にちょっと抵抗あるなぁ…と急に緊張した面持ちになった八重を見て、蛭魔は呆れたように鼻で笑った。
「……どーせオメーしか使わねぇから実質ここはオメーのモンだ。好きに使えばいいだろーが」
「えぇ……こんな立派なキッチン、私一人しか使わないの勿体無い……この機会に蛭魔くんも使ってみようよ」
「ケッ、やなこった。オメーが俺の分まで使えば結果は同じだ。キリキリ働け」
「うーん、なるほど。その発想は無かったなぁ」
絶対に料理はしないという強い意志を感じる蛭魔の様子に苦笑いを浮かべながら、とりあえずスーパーで買った物をしまおうと八重は冷蔵庫を開けた。
「……………。 え、冷蔵庫こんなに大きいのにコーラしか入ってない……野菜室も冷凍室も空っぽ……」
もはや電気代の無駄なのではというくらい、殆ど使われていない様子の冷蔵庫。
スペースが余りまくっている庫内を目の当たりにした八重は、ぽかんとした顔で蛭魔を見ると彼は平然とした顔で見つめ返してきた。
「普段ほとんど使わねぇからな」
「えぇぇ……まぁでも、今日作った料理を沢山入れられると思えば、まぁまぁ、うん……いっか」
「ケケケケケ、そういうことだ。よろしく頼むぜ? 専属栄養士様」
「もー、その呼び方はやめてってば……」
意地悪く笑う蛭魔に八重がげんなりと肩を落としていると、チャッチャッと足音を鳴らしながら鼻息の荒いケルベロスがやってきた。
「あ、ケルベロス〜!おはよう、会いたかったよ〜!」
「……まーた急にテンション上げやがったな」
「これは仕方ないの。ケルベロスに会うの久しぶりだし」
満面の笑顔で話しかけながらワシワシとケルベロスを撫で回している八重に、蛭魔は本日何回目かの呆れた表情を浮かべた。
「なに言ってやがる。オメーら昨日思いっきり会ってたじゃねーか」
「……それはそれ、これはこれだよ」
「へーへー左様でございますか。いーからさっさと仕事しろ」
「あ、そうだね。どんどん作らないと……」
八重はまたあとでね、とケルベロスに声をかけて頭の中でどういう手順で進めていくかしばし考えたあと、作業にとりかかることにした。
***
「……へぇ、なかなか手際いーじゃねぇか」
「ほんと? まぁ、伊達に毎日お料理していませんので」
まずは下準備から、とテキパキ動いて作業を進めていく姿を見て感心したように呟いた蛭魔に向かって、八重は得意気な顔をして軽く胸を張る。
そんな彼女の珍しい表情に、蛭魔は一瞬目を見開いてからニヤリと笑みを浮かべた。
「……ケケッ、大した自信だな。俺は向こうで作業してっから、なんかあったら声かけろ」
「うん、分かった」
ここで突っ立ってても時間の無駄だと判断したのだろう。
蛭魔は八重の足元で待機しているケルベロスに テメーもこっち来い、と声をかけてリビングへと向かっていった。
***
「……蛭魔くんって、こういう味付け平気かな?」
せっかく沢山の料理を作るのだからと、今まで蛭魔に食べさせたことのないメニューも作っていた八重は少しだけ心配になってしまい手を止めた。
意外となんでも食べてくれるので大丈夫な気もするが、なんとなく不安になった八重は本人に直接聞いてみようとリビングを覗き込んだ。
やはりキッチンが広いだけあって、リビングも広い。
大きな液晶テレビの前にはローテーブルがあり、アメフト関係の資料と思われる数々が雑然と並べられているが、散らかっているという印象はなかった。
使われた形跡が無かったキッチンとは違い、リビングはどことなく蛭魔の生活感を感じるせいなのか、八重はなぜか少しドキドキして落ち着かない。
とりあえずソファに座っている蛭魔に声をかけようと近付いた八重だったが、直前で彼の手元が止まっていることに気が付き咄嗟に足を止める。
なんと、蛭魔は無防備にもパソコンを開いたまま、ソファに身体を預けて眠りに落ちているではないか。
「………寝てる…?」
思わず小さく声に出してしまい慌てて口を押さえた八重だったが、蛭魔が起きる気配はない。
彼の足元には先程まで元気に尻尾を振っていたケルベロスも身体を丸めて気持ちよさそうに眠っている。
微笑ましい寝姿を見せる彼らに八重はつい好奇心が抑えきれず、パソコンの中身を見ないように気を付けながら蛭魔の正面までコッソリと移動して彼の様子を観察することにした。
「…………………」
こんな事を言ったら本気で嫌がられてしまいそうだが、泥門の悪魔と呼ばれている蛭魔でも寝ている時は少し幼く見える。
八重はなんだかんだ彼も普通の男の子なんだな、と少し感慨深い気持ちになってしまった。
そういえば、八重との待ち合わせより前に用事があったと言っていたので、実はかなり早起きをしていたのかもしれない。
よく眠っているようだし、味見程度のことで起こすのは申し訳ないなと思い直した八重は、大きな音を立てないようにしてキッチンに戻り作業を再開することにした。
***
「ふぅ、だいたいこんなもんかな……」
冷蔵室や冷凍室に詰められた容器を眺めて満足そうに頷いた八重が時計を見ると、すっかりお昼の時刻だ。
食材に余裕があったので、ちゃっかり自分たちとケルベロスのお昼ご飯を作った八重は蛭魔に声をかけるために、もう一度リビングに向かった。
「……蛭魔くん、蛭魔くん」
寝ているのか考え事をしているのか分かりかねる蛭魔に恐る恐る声をかけ、そっと肩に触れる。
何度目かの声かけでようやく気が付いて薄く目を開いた彼は、眩しそうな表情を浮かべてゆっくりと八重を見上げてきた。
「…………………」
「お昼ご飯作ったんだけど、食べれそう? もう少し寝る?」
「……………食う」
「分かった。じゃあすぐ準備するから、テーブル来てね」
「…おー………」
まだちゃんと覚醒できていないのか、蛭魔はまぶたを半分閉じたような状態で気怠げに身体を起こそうとしている。
八重は既に起きて尻尾を振りまくっているケルベロスを撫でながら、実は寝起きが良くないんだなと零れそうになる笑いを頑張って噛み殺した。
***
「あ、ケルベロス!ケルベロスのご飯はあっち!これはだめ!」
華麗に椅子へ飛び乗り、テーブルに身体を乗り出しておかずを狙うケルベロスを八重が叱ると、ケルベロスは渋々といった様子で椅子から飛び降りた。
不服そうに唸り声をあげながら自分の餌皿の方にチャッチャッという足音と共に向かって行くケルベロスに、八重は腰に手を当てながら大きく息を吐き出した。
「まったくもう、油断も隙もなく可愛いんだから!」
「おい、日本語おかしーぞ」
「あ、蛭魔くん。ちゃんと起きれたんだね、おはよう」
「……ガキ扱いすんじゃねぇよ」
「してないしてない」
言葉は荒っぽいが、苦笑いを浮かべてテーブルに座る彼の顔を見る限り、言うほど気にしてないのだろう。
八重はクスクスと笑いながらいただきます、といつものように手を合わせて食べ始めると、蛭魔もまたいつものようにそれに合わせて食べ始めた。
「料理はもうほとんど出来て冷蔵庫に入れてあるから、あとは片付けだけだよ。あ、容器にそれぞれ付箋が貼ってあるから、食べる時に確認してね」
「……俺が寝ちまってる間にそこまでやったのか」
「うん。作業スペースが広いおかげで同時進行に色々できたし、思ったより早く終わっちゃった」
「……そうか。じゃあ次も楽勝ってことだな」
「うん。なんとなくコツは掴んだから、次はもっと上手くやれると思う」
「ケケッ、言うじゃねーか。じゃあさっさと片付けて次行くぞ」
「……………………え?」
おかずを口に運ぼうとしていた八重の手が止まる。
“次”というのは『また来週』の“次”だと八重は思っていたのだが、今の蛭魔の言い方はまるで『今日この後の』“次”に聞こえた。
言葉の意味が理解できず首を傾げて蛭魔の方を見ると、彼は今日一番と言っていいくらいの悪い笑みをニンマリと浮かべている。
「聞こえなかったか? 次だ次、俺ん家はここだけじゃねーぞ」
「え!? こ、ここだけじゃない!?どゆこと!?」
「ここよか狭ぇが、もう1つ家があんだよ」
「そ、そんなの聞いてない……」
「今はじめて言ったからな、ケケケッ」
ひどい後出しに八重は思わず頭を抱えそうになったが、ふとスーパーで買い物をしている時に蛭魔が『時間ねーんだからさっさと行くぞ』と言っていたのを思い出した。
「あ。……ねぇ、もしかしてスーパーで時間がないって言ってたの、そういうこと?」
「おー。さすが八重チャン、冴えてるじゃねーか」
「……その時点で言ってくれたらいいのに」
「あそこで言ってもつまんねぇだろ」
「いや、つまるつまらないの問題じゃないよ……」
八重は肩を落として溜め息をつくと、ほんの少し好奇心を覗かせた目をしながら蛭魔の方へ顔を向けた。
「……ねぇ、もう1つのお家って、ここから近いの?」
「お、切り替えたな。ケケケッ」
「だって、お家が2つあるって正直気になるもん」
想定外の事実に驚きはしたが、こんな経験は滅多にできることではない。
祖母には念のため遅くなるかもしれないと伝えているし、こういう時は素直に楽しんでしまった方がいいのだと開き直るべきだ。
八重は今後のために小さく気合を入れて、手に持ったままだったおかずをぱくりと口に運んだ。
***
昼食を食べ終わり、八重が食器などをシンクに置いていると蛭魔も使い終わった調理器具などを持って隣にやってきた。
「あ、蛭魔くんありがとう。座ってくれててもいいのに」
わざわざ手伝いに来てくれたのか、と八重が目を見張って蛭魔を見ると、彼は無言で下を向いて足元にある扉を引っ張った。
え、と思わず声を上げた八重が足元へ視線を向けると、そこにはプラスチックの壁面に囲まれた空間に、回転ノズルやスチールのラックが無機質に収まっている。
「ここ食洗機な。軽く流して突っ込んどきゃいい」
「えぇぇ……ねぇ本当に、なんでこんな良いキッチン使わないの蛭魔くん……」
広くて、綺麗で、オマケにこんな大容量の食洗機があるのに今までほとんど使ってこなかったなんて、あまりにも勿体無さすぎる。
蛭魔は悔しそうに呻き拳を握る八重を見て、楽しそうに笑い声をあげた。
「ケケケケケッ!だからオメーが俺の分まで使いこなせっつってんだろ。……次行くとこもな」
「え、次もこんな凄いキッチンなの?……なんか私そろそろ知恵熱出ちゃいそう……」
「おーおー。そりゃ大変だ、これで頭冷やしとけ」
そう言うと、蛭魔はいまだに渋い顔をしている八重のおでこにコーラの缶をコツンと当てて渡してきた。
「!……はーい」
蛭魔は本当に傍若無人でめちゃくちゃな事ばかり突き付けてくるが、そんな彼の傍で過ごすのは案外楽しい。
八重は受け取ったコーラでおでこを冷やすフリをしながら、小さく笑みを浮かべたのだった。