デフォルト名は「柚木八重(ゆずきやえ)」です。
悪魔の花嫁
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(やっぱり、学校の図書室より本の種類が多い……少し遠いけど来てよかった)
ほぼ毎日欠かさず図書室で勉強しているうちに、もう少し専門的な本を参考にしたくなってきた八重は、この辺りでは一番大きな図書館まで足を運んでいた。
生徒たちのざわめきが聞こえてくる学校の図書室とは違い、ページを捲る音や本を棚に戻す微かな物音だけが響く静かな空間で、案内板を頼りに背表紙のタイトルを一冊ずつ目で追っていく。
(あった、あの本……)
ようやく見つけた目的の本に八重が手を伸ばした瞬間、すぐ横から伸びてきた大きな手に指先が触れてしまった。
「⸺!……ご、ごめんなさい」
「いや、俺の方こそすまなかった」
八重が慌てて手を引っ込め頭を下げると、頭上から低く落ち着いた声が降ってくる。
そぉっと顔を上げた彼女の視界に飛び込んできたのは、硬派な雰囲気をまとった体格の良い青年だった。
「いえ、そんな…。あの、あそこの本はお兄さんが借りてください」
「……いいのか?」
八重の言葉に青年は、ほんの一瞬だけ目を見張る。
「……実は、似たような本を何冊かキープしちゃってるんです。だから、あちらはお兄さんにお譲りします」
「…そうか。なら遠慮なく借りさせてもらおう」
「はい、そうしてください。じゃあ私はこれで」
「あぁ、ありがとう」
本を手に取り礼儀正しく頭を下げる青年に、八重も頭を下げてその場を後にする。
トレーニングウェアを着込んでいても分かるくらい随分と鍛えられた身体つきや、どこか隙のない立ち振る舞いを見るに、あの青年はきっと何かしらのアスリートに違いない。
そんな人が選んだ本なら、きっと参考になるだろう。
八重は次に来たときに是非とも借りなければと、青年に譲った本のタイトルを手元のメモ帳に書き留めた。
***
「ちょっと待て」
蛭魔から「練習試合の手伝いに来い」と呼び出された八重が準備のために動き回っていると、突然背後からトン、と肩を叩かれ足を止めた。
「わゎっ、と……え、あれ、こないだの…?」
振り向くと、そこに立っていたのは以前図書館で本を譲ったあの青年だった。
白い制服に身を包み、背筋を正して立つ姿は図書館で会った時以上に大きく見える。
「突然すまない。背格好に見覚えがあって声を掛けたのだが、やはり君だったか」
「いえ……あの、お兄さんはどうしてこちらに?」
「? 俺は今日試合に出るためここにいる」
「え……? あ!ご、ごめんなさい!てっきり年上だとばかり……」
不思議そうに首を傾げた青年を見上げながら言葉の意味を考えた八重は、少し遅れてその意味に気が付いた。
落ち着いた雰囲気なので勝手に年上だと思い込んでしまっていたが、まさか高校生だったとは……。
よくよく見れば、彼はしっかりと学生服を着ているのだから、声をかけられた時点で気が付くべきであった。
八重は恥ずかしさで頬に熱が集まるのを感じつつ、申し訳ない気持ちで目いっぱいに頭を下げた。
「気にしなくていい。それより、君は泥門のマネージャーなのか?」
「えっと……メインは栄養士です。でも、時々マネージャー代わりにお手伝いもしてます」
「栄養士?」
その言葉に、青年の表情がわずかに変わった。
「……なるほど、だからあの本を借りようとしていたのか」
「はい。まだまだ勉強中ですけど、実は管理栄養士を目指してるんです。お兄さんは、あ、えっと……」
「…進清十郎だ。それと、君は1年だろう。俺も同じ1年だから敬語は必要ない」
「ぇ?……あ、ありがとう…じゃあ進くんだね。私は柚木八重です。あの、進くんも栄養学について勉強してるの?」
「当然だ。身体作りも選手として必要なことだからな」
「はぁ……やっぱりそういうものなんだ…って、試合前なのにごめんね」
真摯な眼差しでそう即答する進に、八重は思わず感嘆の溜め息を漏らしたが、ふと今は練習試合の前だということを思い出した。
「いや、引き止めたのは俺だ。こちらこそすまない」
「ううん、大丈夫。でも私、そろそろ行かないと……もしよかったら、今度選手目線での栄養学について教えてもらえたら嬉しいな。それじゃあ」
「あぁ、また」
せっかく現役のアメフト選手から栄養学の話を聞けそうなのに、生憎と八重にはまだ色々と仕事が残っている。
貴重な機会を逃すのは名残惜しいが、こればかりは仕方がない。
八重は進に軽く会釈をしてから、駆け足で泥門側のベンチへと戻っていった。
「おーい、進! ここにいたのか。珍しいな、お前が女の子と話してるなんて」
慌ただしく走っていく彼女の後ろ姿を、進はただ直立したまま見送っていたが、そこへ遠くから駆け寄ってきた桜庭が肩を並べた。
「……彼女は泥門で栄養士をしているらしい」
「栄養士?……あぁ、なるほどね。進らしいや」
「? どういう意味だ」
「進が変な理由で女の子と話すわけないよなってこと」
どうやら進は桜庭の言っている意味が本気で分からないらしく、眉を寄せ不思議そうに首をかしげている。
その生真面目に苦笑しつつ、桜庭は彼の背中を押した。
「とにかく行こう。監督が探してた」
「そうか、分かった」
***
泥門と王城の練習試合から数日後、再び訪れた図書館で八重が借りていた本を返却しようとしていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「柚木」
「あ、進くん。こんにちは」
「今日は本の返却に来たのか?」
「うん、あとは新しい本を借りに。進くんも?」
「あぁ」
「そうなんだ。私はこの間、進くんが借りてた本を借りるつもりだよ」
あの本どうだった?と、八重が隣に並んだ進を見上げると、不思議そうに目を瞬かせた彼と目があった。
「? どうかした?」
「……いや、今までそういった意見を求められることがなかったので驚いただけだ」
「え?そうなの? でも確かに、同年代で栄養学を勉強してる人って少ないから、あんまり聞かれることってないかもね」
「…………そうだな」
進は少し黙り込んだあと、あの本を読むなら解剖生理学にまつわる本もあるといい、と呟いて八重を医学の分類へ案内すべく歩き出した。
「ところで、君は栄養士として普段どういったサポートをしているんだ?」
「……え?」
二人並んで目的の本棚へと向かい歩きながら、進が静かに尋ねてきた。
思いがけない質問に八重は少しだけ目を丸くしたが、しばし視線を宙に彷徨わせて考える。
「えっと……選手の体調や練習内容に合わせて、必要な栄養素を考えながら食事を作ったりとか……でも私はまだプロではないから、そこまで本格的ではないと思うよ」
「……食事も君が作るのか」
「うん。元々料理は好きだから、その流れで」
「なるほど……食事を作る際は、具体的にどのようなことを考えている?」
「うーん、そうだなぁ……試合の数日前からはエネルギーの充填を意識したメニューと、試合直前はパフォーマンスを落とさないように消化が良くてエネルギー効率の良いメニューを心掛けてるよ。それから試合が終わったら、吸収が早くて疲労回復作用があるものをすぐに渡せるように準備してるかな」
普段していることを思い出し、ひとつずつ指を折って答えていく八重の姿を見ながら、進は感心したように小さく息をつくと腕を組んで八重を見つめた。
「……話を聞く限り、プロとほぼ同等の仕事ぶりだ」
「え、本当?」
「あぁ」
進からの思わぬ言葉に、八重は一瞬息をのみ、弾かれたように彼の顔を見上げた
「そっかぁ……あんなに凄い試合をする進くんにそう言われると、ちょっと自信持っちゃうかも」
「謙遜する必要は無い。君はもっと自信を持つべきだ」
今まで八重が自分なりに勉強し実践してきたことを、現役の…それも最強と謳われてるらしい選手から認めてもらえるとは思いもしなかった。
進の力強い言葉を受けて、八重はじわじわと緩みそうになった口元にぎゅっと力を込める。
「うん……どうもありがとう。そうだ、私も進くんに色々聞きたいんだけどいいかな?」
「もちろんだ。俺でよければ分かる範囲で答えよう」
選手として身体づくりのために栄養学を学んでいる進と、将来のため、そして蛭魔をサポートするために栄養学を学んでいる八重。
立場は違っても、目指しているものはどこか似ている。
進に初めて会った時は威圧感に少し気後れしていた八重だが、栄養学という共通の話題ができたからか、今はむしろ話しやすいとさえ感じるようになっていた。
それから二人は図書館にあるロビーの片隅で、しばらくの間、栄養学についての意見交換に花を咲かせたのであった。
***
「……あれ?あそこにいるの柚木さんと進くんかな? 二人が一緒にいるなんて珍しいね」
泥門と王城の合同練習後、隣に立つ栗田の聞き捨てならない発言に思わず眉を寄せた蛭魔が顔を上げると、グラウンドの隅で親しげに言葉を交わしている八重と進の姿が目に入った。
「…………は?」
蛭魔の口から無意識に低い声が漏れ、一瞬でこめかみの血管がピキピキと音を立てそうなほどに浮き上がる。
(なんで、進が柚木と一緒にいやがる?)
並び立つ二人の距離はさほど近くないが、ずいぶんと打ち解けた雰囲気で互いに頷き合う様子は、どう見ても昨日今日で知り合ったばかりの関係ではなさそうだ。
王城とは練習や試合で何度か一緒になることはあった。
しかし、既に王城の最強選手として頭角を現している進清十郎が、ただの手伝いとして来ているだけの柚木に関わるタイミングなんて、そうそうあるとは思えない。
一体どんな会話をしているのか、八重は目を輝かせながら身振り手振りを交えて熱心に話をしている。
そんな彼女の姿を見ている進の口元が、わずかに緩んだのを目にした瞬間⸺、蛭魔の中に強い不快感が込み上げてきた。
「⸺ッ、………………」
「ん? ヒル魔、どこ行くの?」
衝動に突き動かされた蛭魔は栗田の呼び掛けにも答えず大股で二人の方へと向かうと、強引にその間に体を割り込ませた。
「あれ? 蛭魔くん?」
「……よぉ、進。俺の専属栄養士に、なんの用だ」
「……蛭魔か。柚木とは栄養学について話していた。なにか問題があったか?」
一体どうしたのかと不思議そうに首を傾げている八重を背に隠しながら、蛭魔は口元にだけ笑みを浮かべて威嚇混じりの低い声で進を睨みつける。
明らかに敵意を滲ませている様子の蛭魔に対し、彼は動じることなく平然と見つめ返した。
「……問題しかねぇよ。オイ柚木、こんな所でサボってんじゃねぇ。さっさと戻るぞ」
「…ぅわ、ちょ、蛭魔くん!?……あ、進くんごめんね。それじゃっ」
「あぁ、また⸺「またもクソもあるか!気安くコイツに話しかけんじゃねぇ!」
「……???」
何事もないかのように八重へ挨拶をしようとする進にカッとなり、思わず声を荒げた蛭魔は、戸惑う彼女の腕を引っ張りながら荒々しい足音を立ててその場を後にする。
その後ろ姿を不思議そうに見送る進の横に、いつの間にか桜庭がそっと忍び寄っていた。
「……あの子、ちょっと前に進と喋ってた子だよな? 大丈夫なのか?」
「桜庭か。……どうやら蛭魔は、俺が柚木と栄養学について話すのが気に食わないらしい」
しばし彼らが去っていった方向を見つめながら、顎に手を当て黙り込んでいた進は、ふと何かに気が付いたように顔を上げた。
「……彼女は栄養士として優秀だ。もしかすると、蛭魔は引き抜きを警戒していたのか」
「え? あ〜…………そうなるか……」
「? 桜庭、どうした」
「いや………うん、なんでもない」
(これは……ちょっと俺の手には負えないな)
蛭魔と深い関わりがあるわけじゃない桜庭でも、先程目の当たりにした彼の態度には色々と察するものがあったというのに……当事者の一人でもある進は、まるで気が付いていないらしい。
これは流石の蛭魔も苦労しそうだなと、桜庭は遠い目をして苦笑いを浮かべた。
***
一方、戸惑う八重の手首を掴んだまま、ベンチ裏まで引きずるようにして連れてきた蛭魔は不機嫌さを隠そうともせず彼女を見下ろし、ぐっと距離を詰めた。
「……進と、なに話してやがった」
「え? 筋肥大に効く栄養素の話とか、疲労回復にいいメニューの情報交換だよ」
「……それだけか?」
「??? ⸺あ!デビルバッツや蛭魔くんの情報を話したりなんてしてないよ!……そっか、あんな強い人から栄養学の話が聞けてテンション上がってたし、そんな風にも見えるよね……ごめんなさい」
いきなり蛭魔から問い詰められ、きょとんとした顔で首を傾げていた八重だったが、突然ハッとした表情を浮かべたあと眉を下げてしょんぼりと肩を落とした。
「でも、前に蛭魔くんの情報は絶対守るって約束はちゃんと覚えてるし破るつもりなんて無いから、そこは安心してほしいな……」
「………………」
「……あの、蛭魔くん?」
困ったような目をして恐る恐る蛭魔の表情を伺ってくる八重に、蛭魔はぐるりと宙に目線を泳がせたあと大きなため息をついて片手で顔を覆った。
「……本当に、栄養学の話しかしてねーんだな?」
「え? うん、流石に私はトレーニングの事までは分からないし……あ、でも今後のために聞いておけば良かったかな……ポジションは違うけど、練習の参考になるかもしれないもんね」
どうやら、彼女は本気でアメフト部のために進と話をしていたらしい。
「……………………」
「蛭魔くん? どうしたの?」
「ハァー……もういい、とっとと帰るぞ」
どこまでも呑気な八重の態度に、蛭魔はすっかり毒気を抜かれてしまった。
この想定の斜め上をいく彼女の思考に付き合っていると、変なことで苛ついているこちらがバカらしくなってくる。
蛭魔は先程までの不機嫌さを霧散させ、もう一度ため息をつくと、くるりと背を向けて歩き出した。
そんな蛭魔の後ろ姿を小走りで追いかけた八重は、横に並ぶと心配そうな表情を浮かべて彼の顔を覗き込む。
「蛭魔くん、もしかして疲れてる?」
「……まぁな、どっかのアホの相手でどっと疲れたぜ」
「……どっかのアホって、もしや私のこと…?」
「ケケケ、どーだかな」
すっかりいつもの調子で八重を揶揄うような笑みを浮かべた蛭魔に、八重は納得がいかない様子で眉をひそめたが、やがて彼につられるように笑みを浮かべたのだった。
ほぼ毎日欠かさず図書室で勉強しているうちに、もう少し専門的な本を参考にしたくなってきた八重は、この辺りでは一番大きな図書館まで足を運んでいた。
生徒たちのざわめきが聞こえてくる学校の図書室とは違い、ページを捲る音や本を棚に戻す微かな物音だけが響く静かな空間で、案内板を頼りに背表紙のタイトルを一冊ずつ目で追っていく。
(あった、あの本……)
ようやく見つけた目的の本に八重が手を伸ばした瞬間、すぐ横から伸びてきた大きな手に指先が触れてしまった。
「⸺!……ご、ごめんなさい」
「いや、俺の方こそすまなかった」
八重が慌てて手を引っ込め頭を下げると、頭上から低く落ち着いた声が降ってくる。
そぉっと顔を上げた彼女の視界に飛び込んできたのは、硬派な雰囲気をまとった体格の良い青年だった。
「いえ、そんな…。あの、あそこの本はお兄さんが借りてください」
「……いいのか?」
八重の言葉に青年は、ほんの一瞬だけ目を見張る。
「……実は、似たような本を何冊かキープしちゃってるんです。だから、あちらはお兄さんにお譲りします」
「…そうか。なら遠慮なく借りさせてもらおう」
「はい、そうしてください。じゃあ私はこれで」
「あぁ、ありがとう」
本を手に取り礼儀正しく頭を下げる青年に、八重も頭を下げてその場を後にする。
トレーニングウェアを着込んでいても分かるくらい随分と鍛えられた身体つきや、どこか隙のない立ち振る舞いを見るに、あの青年はきっと何かしらのアスリートに違いない。
そんな人が選んだ本なら、きっと参考になるだろう。
八重は次に来たときに是非とも借りなければと、青年に譲った本のタイトルを手元のメモ帳に書き留めた。
***
「ちょっと待て」
蛭魔から「練習試合の手伝いに来い」と呼び出された八重が準備のために動き回っていると、突然背後からトン、と肩を叩かれ足を止めた。
「わゎっ、と……え、あれ、こないだの…?」
振り向くと、そこに立っていたのは以前図書館で本を譲ったあの青年だった。
白い制服に身を包み、背筋を正して立つ姿は図書館で会った時以上に大きく見える。
「突然すまない。背格好に見覚えがあって声を掛けたのだが、やはり君だったか」
「いえ……あの、お兄さんはどうしてこちらに?」
「? 俺は今日試合に出るためここにいる」
「え……? あ!ご、ごめんなさい!てっきり年上だとばかり……」
不思議そうに首を傾げた青年を見上げながら言葉の意味を考えた八重は、少し遅れてその意味に気が付いた。
落ち着いた雰囲気なので勝手に年上だと思い込んでしまっていたが、まさか高校生だったとは……。
よくよく見れば、彼はしっかりと学生服を着ているのだから、声をかけられた時点で気が付くべきであった。
八重は恥ずかしさで頬に熱が集まるのを感じつつ、申し訳ない気持ちで目いっぱいに頭を下げた。
「気にしなくていい。それより、君は泥門のマネージャーなのか?」
「えっと……メインは栄養士です。でも、時々マネージャー代わりにお手伝いもしてます」
「栄養士?」
その言葉に、青年の表情がわずかに変わった。
「……なるほど、だからあの本を借りようとしていたのか」
「はい。まだまだ勉強中ですけど、実は管理栄養士を目指してるんです。お兄さんは、あ、えっと……」
「…進清十郎だ。それと、君は1年だろう。俺も同じ1年だから敬語は必要ない」
「ぇ?……あ、ありがとう…じゃあ進くんだね。私は柚木八重です。あの、進くんも栄養学について勉強してるの?」
「当然だ。身体作りも選手として必要なことだからな」
「はぁ……やっぱりそういうものなんだ…って、試合前なのにごめんね」
真摯な眼差しでそう即答する進に、八重は思わず感嘆の溜め息を漏らしたが、ふと今は練習試合の前だということを思い出した。
「いや、引き止めたのは俺だ。こちらこそすまない」
「ううん、大丈夫。でも私、そろそろ行かないと……もしよかったら、今度選手目線での栄養学について教えてもらえたら嬉しいな。それじゃあ」
「あぁ、また」
せっかく現役のアメフト選手から栄養学の話を聞けそうなのに、生憎と八重にはまだ色々と仕事が残っている。
貴重な機会を逃すのは名残惜しいが、こればかりは仕方がない。
八重は進に軽く会釈をしてから、駆け足で泥門側のベンチへと戻っていった。
「おーい、進! ここにいたのか。珍しいな、お前が女の子と話してるなんて」
慌ただしく走っていく彼女の後ろ姿を、進はただ直立したまま見送っていたが、そこへ遠くから駆け寄ってきた桜庭が肩を並べた。
「……彼女は泥門で栄養士をしているらしい」
「栄養士?……あぁ、なるほどね。進らしいや」
「? どういう意味だ」
「進が変な理由で女の子と話すわけないよなってこと」
どうやら進は桜庭の言っている意味が本気で分からないらしく、眉を寄せ不思議そうに首をかしげている。
その生真面目に苦笑しつつ、桜庭は彼の背中を押した。
「とにかく行こう。監督が探してた」
「そうか、分かった」
***
泥門と王城の練習試合から数日後、再び訪れた図書館で八重が借りていた本を返却しようとしていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「柚木」
「あ、進くん。こんにちは」
「今日は本の返却に来たのか?」
「うん、あとは新しい本を借りに。進くんも?」
「あぁ」
「そうなんだ。私はこの間、進くんが借りてた本を借りるつもりだよ」
あの本どうだった?と、八重が隣に並んだ進を見上げると、不思議そうに目を瞬かせた彼と目があった。
「? どうかした?」
「……いや、今までそういった意見を求められることがなかったので驚いただけだ」
「え?そうなの? でも確かに、同年代で栄養学を勉強してる人って少ないから、あんまり聞かれることってないかもね」
「…………そうだな」
進は少し黙り込んだあと、あの本を読むなら解剖生理学にまつわる本もあるといい、と呟いて八重を医学の分類へ案内すべく歩き出した。
「ところで、君は栄養士として普段どういったサポートをしているんだ?」
「……え?」
二人並んで目的の本棚へと向かい歩きながら、進が静かに尋ねてきた。
思いがけない質問に八重は少しだけ目を丸くしたが、しばし視線を宙に彷徨わせて考える。
「えっと……選手の体調や練習内容に合わせて、必要な栄養素を考えながら食事を作ったりとか……でも私はまだプロではないから、そこまで本格的ではないと思うよ」
「……食事も君が作るのか」
「うん。元々料理は好きだから、その流れで」
「なるほど……食事を作る際は、具体的にどのようなことを考えている?」
「うーん、そうだなぁ……試合の数日前からはエネルギーの充填を意識したメニューと、試合直前はパフォーマンスを落とさないように消化が良くてエネルギー効率の良いメニューを心掛けてるよ。それから試合が終わったら、吸収が早くて疲労回復作用があるものをすぐに渡せるように準備してるかな」
普段していることを思い出し、ひとつずつ指を折って答えていく八重の姿を見ながら、進は感心したように小さく息をつくと腕を組んで八重を見つめた。
「……話を聞く限り、プロとほぼ同等の仕事ぶりだ」
「え、本当?」
「あぁ」
進からの思わぬ言葉に、八重は一瞬息をのみ、弾かれたように彼の顔を見上げた
「そっかぁ……あんなに凄い試合をする進くんにそう言われると、ちょっと自信持っちゃうかも」
「謙遜する必要は無い。君はもっと自信を持つべきだ」
今まで八重が自分なりに勉強し実践してきたことを、現役の…それも最強と謳われてるらしい選手から認めてもらえるとは思いもしなかった。
進の力強い言葉を受けて、八重はじわじわと緩みそうになった口元にぎゅっと力を込める。
「うん……どうもありがとう。そうだ、私も進くんに色々聞きたいんだけどいいかな?」
「もちろんだ。俺でよければ分かる範囲で答えよう」
選手として身体づくりのために栄養学を学んでいる進と、将来のため、そして蛭魔をサポートするために栄養学を学んでいる八重。
立場は違っても、目指しているものはどこか似ている。
進に初めて会った時は威圧感に少し気後れしていた八重だが、栄養学という共通の話題ができたからか、今はむしろ話しやすいとさえ感じるようになっていた。
それから二人は図書館にあるロビーの片隅で、しばらくの間、栄養学についての意見交換に花を咲かせたのであった。
***
「……あれ?あそこにいるの柚木さんと進くんかな? 二人が一緒にいるなんて珍しいね」
泥門と王城の合同練習後、隣に立つ栗田の聞き捨てならない発言に思わず眉を寄せた蛭魔が顔を上げると、グラウンドの隅で親しげに言葉を交わしている八重と進の姿が目に入った。
「…………は?」
蛭魔の口から無意識に低い声が漏れ、一瞬でこめかみの血管がピキピキと音を立てそうなほどに浮き上がる。
(なんで、進が柚木と一緒にいやがる?)
並び立つ二人の距離はさほど近くないが、ずいぶんと打ち解けた雰囲気で互いに頷き合う様子は、どう見ても昨日今日で知り合ったばかりの関係ではなさそうだ。
王城とは練習や試合で何度か一緒になることはあった。
しかし、既に王城の最強選手として頭角を現している進清十郎が、ただの手伝いとして来ているだけの柚木に関わるタイミングなんて、そうそうあるとは思えない。
一体どんな会話をしているのか、八重は目を輝かせながら身振り手振りを交えて熱心に話をしている。
そんな彼女の姿を見ている進の口元が、わずかに緩んだのを目にした瞬間⸺、蛭魔の中に強い不快感が込み上げてきた。
「⸺ッ、………………」
「ん? ヒル魔、どこ行くの?」
衝動に突き動かされた蛭魔は栗田の呼び掛けにも答えず大股で二人の方へと向かうと、強引にその間に体を割り込ませた。
「あれ? 蛭魔くん?」
「……よぉ、進。俺の専属栄養士に、なんの用だ」
「……蛭魔か。柚木とは栄養学について話していた。なにか問題があったか?」
一体どうしたのかと不思議そうに首を傾げている八重を背に隠しながら、蛭魔は口元にだけ笑みを浮かべて威嚇混じりの低い声で進を睨みつける。
明らかに敵意を滲ませている様子の蛭魔に対し、彼は動じることなく平然と見つめ返した。
「……問題しかねぇよ。オイ柚木、こんな所でサボってんじゃねぇ。さっさと戻るぞ」
「…ぅわ、ちょ、蛭魔くん!?……あ、進くんごめんね。それじゃっ」
「あぁ、また⸺「またもクソもあるか!気安くコイツに話しかけんじゃねぇ!」
「……???」
何事もないかのように八重へ挨拶をしようとする進にカッとなり、思わず声を荒げた蛭魔は、戸惑う彼女の腕を引っ張りながら荒々しい足音を立ててその場を後にする。
その後ろ姿を不思議そうに見送る進の横に、いつの間にか桜庭がそっと忍び寄っていた。
「……あの子、ちょっと前に進と喋ってた子だよな? 大丈夫なのか?」
「桜庭か。……どうやら蛭魔は、俺が柚木と栄養学について話すのが気に食わないらしい」
しばし彼らが去っていった方向を見つめながら、顎に手を当て黙り込んでいた進は、ふと何かに気が付いたように顔を上げた。
「……彼女は栄養士として優秀だ。もしかすると、蛭魔は引き抜きを警戒していたのか」
「え? あ〜…………そうなるか……」
「? 桜庭、どうした」
「いや………うん、なんでもない」
(これは……ちょっと俺の手には負えないな)
蛭魔と深い関わりがあるわけじゃない桜庭でも、先程目の当たりにした彼の態度には色々と察するものがあったというのに……当事者の一人でもある進は、まるで気が付いていないらしい。
これは流石の蛭魔も苦労しそうだなと、桜庭は遠い目をして苦笑いを浮かべた。
***
一方、戸惑う八重の手首を掴んだまま、ベンチ裏まで引きずるようにして連れてきた蛭魔は不機嫌さを隠そうともせず彼女を見下ろし、ぐっと距離を詰めた。
「……進と、なに話してやがった」
「え? 筋肥大に効く栄養素の話とか、疲労回復にいいメニューの情報交換だよ」
「……それだけか?」
「??? ⸺あ!デビルバッツや蛭魔くんの情報を話したりなんてしてないよ!……そっか、あんな強い人から栄養学の話が聞けてテンション上がってたし、そんな風にも見えるよね……ごめんなさい」
いきなり蛭魔から問い詰められ、きょとんとした顔で首を傾げていた八重だったが、突然ハッとした表情を浮かべたあと眉を下げてしょんぼりと肩を落とした。
「でも、前に蛭魔くんの情報は絶対守るって約束はちゃんと覚えてるし破るつもりなんて無いから、そこは安心してほしいな……」
「………………」
「……あの、蛭魔くん?」
困ったような目をして恐る恐る蛭魔の表情を伺ってくる八重に、蛭魔はぐるりと宙に目線を泳がせたあと大きなため息をついて片手で顔を覆った。
「……本当に、栄養学の話しかしてねーんだな?」
「え? うん、流石に私はトレーニングの事までは分からないし……あ、でも今後のために聞いておけば良かったかな……ポジションは違うけど、練習の参考になるかもしれないもんね」
どうやら、彼女は本気でアメフト部のために進と話をしていたらしい。
「……………………」
「蛭魔くん? どうしたの?」
「ハァー……もういい、とっとと帰るぞ」
どこまでも呑気な八重の態度に、蛭魔はすっかり毒気を抜かれてしまった。
この想定の斜め上をいく彼女の思考に付き合っていると、変なことで苛ついているこちらがバカらしくなってくる。
蛭魔は先程までの不機嫌さを霧散させ、もう一度ため息をつくと、くるりと背を向けて歩き出した。
そんな蛭魔の後ろ姿を小走りで追いかけた八重は、横に並ぶと心配そうな表情を浮かべて彼の顔を覗き込む。
「蛭魔くん、もしかして疲れてる?」
「……まぁな、どっかのアホの相手でどっと疲れたぜ」
「……どっかのアホって、もしや私のこと…?」
「ケケケ、どーだかな」
すっかりいつもの調子で八重を揶揄うような笑みを浮かべた蛭魔に、八重は納得がいかない様子で眉をひそめたが、やがて彼につられるように笑みを浮かべたのだった。
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