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カリカリ……カリカリ……シャッ……パラ、パラ
補給物資の確認表と掃除当番の割り振り表を作成しながら、大きな欠伸が出た。寄港予定は10日後くらい。それまでに物資の棚卸し、船番&掃除の割り振り表を完成させる。今日に各隊の隊長達へ連絡すれば、寄港2日前には完了する予定。
「くぁ〜」
いいお天気で緩い風が気持ち良さそうな今日。私は、マルコの仕事を手伝っている。自分の隊でも無いのに手伝うのは、私がマルコを好きだから。少しでも長く一緒に居たい。彼の視界に1秒でも長く映っていたい。そんな下心。幸い、モビーに乗る前に飲み屋やカフェでホールと経理を経験していたから、書類作成やスタッフ管理は得意だった。それは表の顔で、本業は用心棒。
「マルコ〜。ちょっと眠いから、一緒に甲板行かない?このまま……書類仕事無理だよ。休憩しよ?」
「ん?いいけど……サボりたくなったんじゃねぇのか?」
「昨日、遅くまで本読んでたの。サボりじゃない」
マルコは見ていたバインダーをパタリとデスクに置き、肩を回しながらクスッと息を漏らした。
「実は、俺もそろそろ休憩したかったよい。風、気持ち良さそうだしな」
先に立ち上がったマルコは、私の頭を軽く撫でてから扉を開けた。外から心地良い風がフワリと入ってくる。
甲板へ続く廊下を並んで歩くと、暖かい陽射しにくぁ〜と大きなあくびが出てしまう。そんな私を横目に見たマルコは、フッと笑った。なんとなく恥ずかしくなる。
「……サッチにコーヒー淹れてもらおうかなぁ。マルコも飲む?」
「あぁ。俺の分も頼んでもいいかい?濃いめのブラック」
「マルコは濃いやつね。了解」
「しかし、眠そうだなぁ。今日は早く寝ろよ?それか、少し昼寝でもするかい?」
「早めに仕上げておきたいから大丈夫。心配してくれてありがとう」
グイッと伸びをして、いつものようにマルコのお尻を軽く叩く。
「じゃあ、キッチン行ってくるね」
逃げるように笑いながらキッチンへ向かって廊下を走った。
「調子に乗って走るとコケるぞ」
「大丈夫〜〜」
振り返えるとマルコは叩かれたお尻をさすりながら、長い脚でのんびり甲板へ向かっていった。
慣れた手つきで、トレーに乗せたコーヒーとスイーツを運ぶ。マルコがパラソルやテーブルなどを用意してくれたのは、甲板の前方。太陽に背を向け船首と海をゆっくり眺められるいいポイント。
私を見つけると、ニコリと笑って大きな声で「零すんじゃねぇぞー」と。
「そんなことするわけないじゃん。元ウェイターだよ!得意だわ」
好きな人が笑顔を向けてくれていると、ちょっとした棘すら『気のせいだな』と気に留めないフリをしてしまう。でも、マルコのことだから、本当に私が転ぶことを心配していたのだろう。
「パラソルとか用意してくれてありがとう。マルコには、濃いめのコーヒー。あと、サッチから差し入れ」
コトンと、マルコの前に提供する。カフェで働いていた頃と同じ仕草で。
自分が座る所へもスイーツとコーヒーを置く。
「よし!ちょっと休憩したら頑張る!」
「……寝ぼけながらやるなよ?俺が全部やる羽目になるからな」
マルコはコーヒーを一口飲んで、口元だけで笑うけど、ちょっと意地悪が過ぎる言い方にフォークを持つ手が一瞬だけ止まった。すぐに黙々とスイーツを口に運ぶ。パイナップルの甘酸っぱい酸味とクリームが合うけど、味わっている余裕は今の私にはなかった。
私の気持ちを知ってか知らずか、マルコは私が夢中で食べていると思っているようで力の抜けた笑みをしている。
「またクリームつけてるよい。ゆっくり食えよ」
柔らかい笑顔で口元を指差しているけど、私はすぐに目を逸らし、親指でテキトーに拭った。
「少しは女らしくできねぇのか?」
楽しそうに笑っているマルコを一瞥し、意地悪な言葉をまた聞こえないフリをした。
「……今日イライラしてる?それとも、怒ってる?」
「怒ってねぇし、イライラもしてねぇよい。ただ、少し疲れてるかもな」
「そっか……仕事早く終わらせようね」
「そう言っても、休憩ばっかりしてたら終わらねぇよい」
――――休憩……誘わなきゃ良かったかな?
「忙しくて疲れてて、一刻も早く休みたいところ、休憩に誘ってごめんね。……先戻って書類やるから、マルコはゆっくり休んで」
コーヒーをカッと流し込んで席を立つ。
食器を持ち、マルコを見ずに、キッチンへ向かった。
カウンターに食器を返す。
「ごちそーさまー。スイーツ美味しかった!でも、いちごのほうが私は好き」
サッチは笑顔のまま「休憩してたんだろ?食うの早くねぇか?」と聞いてくる。
小さなため息がついて出る。
「そうなんだけど。マルコの言い方がちょっと……気になっちゃって、居づらくなっちゃった。言い方がさ……」
「あらら。アイツも疲れてんじゃねぇの?」
庇うように言うサッチに、苦笑いだけ返した。
「今のマルコに言わないでね。とりあえず、溜まった書類やってくる」
バイバイと手を振って、マルコの部屋へ向かった。
マルコは今も甲板に居るだろうけど、自分が使う必要書類だけを取って、自室に戻ることにした。
——今日はマルコと話したくない。
日が落ち始めて室内が少し冷えてきた頃、お湯沸かしそうと準備をしているとノックの音がした。
――――コン、コン
その音に、「はーい」と返事をすると聞こえたのはマルコの声だった。
小さく息を吐き、火を止めた。
デスクにある完成した書類を持ち、扉を開けた。
「どうしたの?昼の書類なら全部終わったよ。これがその書類」
どうしたの?と聞いたくせに、要件を言わせないように壁を作り矢継ぎ早に話す。
そして、書類の束をマルコの胸元へ出す。
マルコは一瞬、言葉を飲み込んだ。
蒼い瞳が私の手元と表情を交互に見比べ、ゆっくりと書類を受け取った。
「……ありがと、よい」
甲板で一緒に過ごした時より、低めの声。いつものマルコじゃない。どこか息が詰まったような声。
ドアノブに手を掛けると、マルコは足でドアを押さえる。
「……あのさ、さっきは……オレの言い方が悪かったよい。すまねぇ」
マルコの眉を下げた表情に胸が苦しくなった。
「……わざと言ったわけじゃねぇよい。……もっと気をつけるべきだった」
表情はそのままに頭だけを下げて「悪かった」と。
「私もイライラしてごめん」
「いや、俺がお前が嫌だって思うような言い方したのは事実だ」
マルコは私と目線の高さを合わせるようにかがむ。自然と顔が近くなり、憂いた青い瞳がよく見える。
その言葉の後に続く沈黙。
「何かサッチに聞いた?サッチから私と仲直りして来いとか言われた?」
「俺が勝手に来たよい。お前が怒ってるのは、サッチに聞くまでもなく分かったし…………ただ、お前が傷付いたような顔してたって言われた」
ほんの少しだけ肩をすくめて、苦笑いにも見える表情。
「放っとけるわけねぇだろ。俺のせいだし。ちゃんと謝りたかっただけだよい」
ため息ではなく、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
それでも、小さな不満が沸々と湧いてくる。
グルグルと巡る思考は、マルコとサッチへの愚痴だ。そして、だんだんと被害者面した自分が現れてくる。
決して彼等は加害者じゃないし、私も被害者じゃない。でも……言わないでって言ったのに……。
「マルコ……ごめん。普通なら許せるんだけど……今日は無理みたい。マルコを傷つける言葉しか出てこないと思う。……ごめん」
「……分かったよい……ごめんな」
マルコは静かに受け止めたようだった。それは、私の気持ちを優先しようとするいつものマルコの空気感。
マルコは廊下を歩きだした。背中を見送ることもせずに、ドアを閉める。
ドアに両手をついたまま俯く。ただのイライラなのか、悲しいのか、自分の感情がわからない。
振り返ると、窓の外の大きな上弦の月。
海はその光をキラキラと反射させていた。
それは、いつか美術館で見た絵画の様に美しい。
窓枠がキャンバスの額で、海と月が絵画。その景色を頬杖、ぼーっと観ていた。
「……」
昼間のマルコとの会話を振り返る。
多分……バカにされたと思ってしまったんだろう。
「少し眠い」と言えば「サボり」と言われ、コーヒーを給仕すれば「元ウエイターは油断してこぼす」と言われ「寝ぼけながら書類やるな」「また俺がやる羽目になる」と言われた。
最後に「女らしく」と。
思い出すだけでムカつく。
……あんな言い方しなくてよくない?偉そうにさ。
私ってそんなに信用無いの?それとも、バカにされているだけ?
「疲れていたから、こういう言葉選びをした」と言われても……私は理解できない。
マルコのことを、恋愛対象として好きだったが……
もし付き合ったら、こんな感じになるの?そんなの耐えられないよ。
マルコが忙しいからと思って、書類とかも手伝っていた。私だって自分の隊の仕事は山程あるのだ。
時間を割いて手伝っていたのに……「俺がやる羽目になる」なんて言われるくらいなら、手伝わなくていいよね。
ベットに潜って無理やりに瞼を閉じた。
——
数日後。
「おはよい」
「おはよー」
いつも通りに笑って挨拶を返す。話しかけられれば、普通に話す。ただ、自分からマルコへ話しかけることはしなかった。全てが有耶無耶なまま、平常運転だった。
「まずい……」
サッと血の気が引く。
自分の隊のことで忙しすぎたのもあるけれど、補給物資の棚卸しと書類提出の連絡を完全に忘れていた。
島に着く前に各隊に棚卸しの連絡をして、在庫をまとめる。
——この作業を失念していた。寄港地到着まで、あと5日しかない。
広いモビーを走り各隊の隊長の元へ急ぐ。もちろん、マルコの一番隊にも。
「ごめんなさい」
「すいませんでした」
隊長達に頭を下げる。
そして最後……マルコの部屋の前。
本当は最初に来るべきだった。でも、どうしても足が重たかった。
また「おれがやる羽目になる」と言われたくなかったから。
——コンコンコン
「わたしだけど、今いいかな?」
声が硬くなる。上ずりはしないけれど、両手に力が入ってしっとり手汗をかいている。
「どうした?」
「ごめんなさい。在庫……まだやってなくて、全部の隊に今お願いしてきた。寄港日までになんとかする……なんとかします。だから一番隊の在庫も……近日中にお願いします。上陸前で忙しいのはわかってるけど……」
深々と頭を下げて謝罪する。
「……一番隊は終わってるよい。お前から声がかからねぇから、やるように伝えておいた」
「そうだったんだ……ありがとう。じゃあ、私まとめるから資料を」
「いや、いいよい。俺がやるから」
「私が任されてたのに?」
「あぁ。元は俺の仕事だよ。他の隊のが集まったら一番隊の誰かに渡しておいてくれ」
「……わかった。ごめんなさい」
それだけ言って、マルコの部屋をあとにした。
補給用の書類は滞りなく完成し、寄港中に取りこぼしなく補給された。つまりたった2.3日でマルコは補給物資をまとめた。
いつも通りにクルーたちに指示をするマルコの横顔を遠くから見ていた。
——そうだった。元々マルコはひとりでも問題ないんだった。下心で手伝っていたのは私だ。
出航してからも、マルコはいつも通りに接してきた。
「今日の午後時間あるか?頼みてぇことがある」
「時間は……」
ポケットから手帳を出して予定を確認した。
「ごめん。ちょっと忙しい」
「お前、そんなに忙しいことあったのか?」
「自分の隊の仕事もあるし、訓練とかもあるから」
「ふーん。わかったよい」
声掛けの頻度が上がってくる。マルコは私を見つけては声を掛けるようになっていた。仕事の話が主だけど。
少しだけしつこく感じてしまう。
静かな廊下の曲がり角の向こうからマルコが来た。
特に話すこともないから、素通りする。しかし、マルコの目は――明らかに私を追っている。
その視線が鬱陶しい。
「なぁ!ちょっとでいい……時間もらえねぇか?」
低く少し掠れた声で、呼び止められてる。素直のに足を止める自分に苦笑いが出る。でも振り返らない。
背中に掛けられか言葉は——
「……俺を避けてるかい?」
廊下には、波の音とクルー達の笑い声だけ。
「……距離置きたいなら、ちゃんと言葉にしてくれ。……あの日のこと、まだ引きずってんのかい?俺の失言……」
「言い方が嫌だなって。普通に過ごしているけど、ちゃんと解決してないし。マルコは謝ったから、終わったと思っているかもしれないけど……」
ゆっくりマルコを見る。
マルコの情けなくも憂いた表情。今の自分が彼と同じような表情をしている自覚がある。
——好きなのに、そばにいるとうまくいかなくなる。
「もう少し時間ください」
——あれから数日。
私は穏やかな日を過ごしていた。自分の仕事が終われば隊のクルー達と楽しく過ごす。自室でゆっくり過ごす時もある。
ふと、自分も無理していたんだなと思った。
マルコの手伝いをすることで、彼と一緒に過ごせる時間を確保していた。
大変だったけど……楽しかったし、幸せだった。
無理して手伝っていて、私自身いっぱいいっぱいだったのかもしれない。
マルコだけが悪いんじゃなかった。
それに、あの夜「手伝わなくていい」と思ったのも、ただの八つ当たりじゃなかった。マルコは、私がいなくても困らない。分かっていたはずなのに、目を逸らしていただけ。
「はぁ、謝るかぁ——書類の手伝いのことも、言わなきゃ」
時計を一瞥する。夜も遅い時間だけど、マルコは起きている時間。重い腰をあげて、マルコの部屋へ向かった。
あの部屋までの廊下が、いつも以上に長く感じる。それだけ足取りが重いんだろう。
彼の部屋の扉。在庫の件で来て以来だ。あんなに入り浸っていたのに。
いつもなら、元気にノックするが……なかなか手が動かない。
——マルコもあの日、こんな気持ちになったんだね。ごめん。
深呼吸して、ノックをする。
扉の向こうから「今開けるよい」と声がした。
ゆっくりと、扉がきしむ音を立てて開く。
マルコの目が、一瞬見開かれた。それから二、三度瞬いて、私が来るとは思っていなかったというようで、少し戸惑ったような顔をしている。
「どうした?こんな時間に」
声は落ち着いているのに、瞳の奥が少し揺れている気がする。
「謝罪にきたの。私も……言い過ぎたから。ごめんね」
マルコの目がわずかに丸くなった。
驚くというより、予想していなかった言葉を聞いた、そんな反応だった。
普段ならそんな動揺は見せないのに。
「……あの日のことなら、俺も悪かったよい」
「色々考えたら、私が子どもみたいだったなって思ったの。勝手に無理して……勝手に爆発して……だから……ごめん。本当に」
マルコは少しだけ俯き、拳をゆっくり握った後に私を見る。
「……謝られるとは、思ってなかったよい」
そこで一度、深く息を吐く。
「俺が……もうちょっと大人にならねぇとな」
「……そんなこと言わないで。マルコが全部悪いわけじゃないよ」
マルコはかすかに笑った。
「それでも……俺はお前を傷つけたり、困らせたり。何も見えてねぇのは俺だよい」
少しの沈黙。
廊下の風に私の髪が揺れる。
「……なぁ……もう俺と話したくねぇってわけじゃ、ねぇよな?……教えてほしいよい」
不安を隠しきれない目。
「……話したくないとは思ってないよ」
マルコは黙ってる聞いてくれている。
私は、自分の足元とマルコの足元を交互に見ながら話す。
私の足元は、月明かりに照らされていて、マルコの足元は影の中にある。
この明暗が、私達の関係のようだった。踏み越えてはいけない線があったんだと思う。
「マルコと一緒に居たいし、少しでも負担を減らしたくて、書類とか手伝ってたけど……
だんだんと欲張りになって、見返りばっかり求めていたみたい。
マルコは私のことを理解してくれているとか、マルコならわかってくれる……だって誰よりも長く一緒に居るから……とかね。
逆に私はマルコの一番の理解者みたいな気持ちになってた。」
「全部、くだらない妄想なんだけど……」
自嘲した笑いが出てくる。
「でね…この前みたいに言われるとさ、全然私のことわかってないじゃん!とか、私のとこ理解してない!って思ってしまうの。
……バカにされてるって思ったのも、私を理解してくれて無いから、見下されてる感じで……」
彼は相槌も打たずに、ただ黙っている。
「それでね……マルコの仕事を手伝うのはやめようと思う。
あなたを好きだと思っていたし、何があっても受け入れられると思っていたけど……
全然できなかった。勝手に怒って、傷つけて、ごめんなさい」
グッとマルコを見上げた。
「仲直りと言えるのかわからないけど…私が距離感を間違えていたと思う……ごめんなさい。
マルコの謝罪もちゃんと受け入れてるから、この話はこれで終わりにしたい……」
手に持っていた、書類の束を渡す。これは、私が担っていたモビーの在庫管理表。
マルコはなにも言わずに、ゆっくりと両手で受け取った。
私を見たまま。
沈黙が、少しだけ重く降りる。
一度目を伏せ、息を整える。
そして――覚悟を決めたように、私とまっすぐ見据える。
「……お前の妄想なんかじゃねぇよい。」
月明かりの下、静かにはっきりと言った。
「お前が理解してほしかったって言った気持ち、全部、分かるよい。俺も同じだったから。」
「お前なら何言っても分かってくれるって、勝手に甘えてた。
距離感を間違えてたのは……俺もだ……でも」
マルコは、なにか言いかけて、止まった。マルコは一度だけ目を閉じて、ゆっくり首を振った。
影の中にある彼の足元は動かない。
「……手伝いをやめるって言ったのは、分かったよい。
……でもな、家族としての距離も縮めちゃいけねぇのか?」
声が低く震える。
「俺は……お前がいなくなるのだけは……耐えられねぇよい。」
月明かりの下、お互いの足元の境界線だけが静かに続いていた。
「私の話、聞いてくれてありがとう。マルコの気持ちも、話してくれてありがとう。でも……」
少しだけ言い淀む。
何を口に出しても明日からの私達の関係は変わってしまうのがわかっているから。
私の後ろから、少し冷えた風が吹いて、マルコの部屋へ入っていく。
こんな風に飛び込めたら、どんなに楽だったのだろう。恋は盲目だ。冷静さを取り戻すと、踏み出すのが怖くなる。そして、冷静さのおかけで目を瞑っていた事実に向き合わなきゃならない。
今回の私たちは、その状況だ。特に私が。
目を瞑っておけばいいこと気付いてしまったから。
「個人的な距離は取りたい……でも、家族としての距離は変わらずいたいと思ってる」
これから先どう変わるかわからない。冷静になればマルコも変わるかも、しれない。
はたまた、冷静になっても私はマルコを好きかもしれない。
未来のことはわからないけど……
「マルコの前から居なくなったりはしないよ」
マルコはドアの前でほんの少しだけ肩の力を抜いた。
俯いていた視線がゆっくりと私を捉える。
「……そっか。家族としては変わらずそばにいてくれるって……それは、本当に……ありがてぇ話だよい」
静かな声だけど、息が少し震えている。
小さく息を吐き、視線が足元に落ちる。
そして少しだけ、柔らかく笑う。
あの、家族を安心させるときの優しい笑み。
「居なくならねぇって言ってくれたなら……今は、それで充分よいありがとねい」
「うん……」
些細な喧嘩だと思うだろう。でも、私とマルコがもしも付き合ったとしてら……きっと同じことで何度も躓くと思う。
その度、話し合って解決して、協力しても、同じことで躓くと思う。
そんな未来は望んでいない。
ーーそれなら、ただ傍にいられるポジションを選びたい。
互いに探り合い、気を遣い合い、それでいて心地良い……
そんなポジションでいれたらいいなと。
色々言っているが、本当はマルコの胸に飛び込みたい。でも、それをしてお互いが苦しむのが無理だった。
「私が意気地なしでごめんなさい」
マルコはその言葉に、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
息を吸って、ゆっくり吐き出す。
私の気持ちはわかっているのだろう。マルコは右腕を伸ばしたかけて、ゆっくりと下ろす。
「意気地なし」を否定するように、マルコは大きく首を横に振る。
「……意気地なしなんかじゃねぇよい」
声は低くて、やわらかくて、でもどこか切ない。
廊下の月明かりが、私とマルコの間に落ちる。
その光と影の境目に、マルコはそっと足を寄せる――けれど線は踏み越えない。
「飛び込みてぇって気持ち、伝わってるよい。
だけど……お前が痛てぇ未来を選ばねぇように考えた結果なんだろ?
それを意気地なしなんて……言わせねぇよい」
目をそらさずに、まっすぐに見つめてくる。
「お前が選んだ傍にいられる距離……俺はちゃんと守るよい」
「……うん」
恋は盲目。
俯瞰した途端に、その想いは落ち着くはず。
何か始める時は理由が無くても……終わりの時は理由が生まれる。
きっと……マルコも私も程よい距離になれば、こうやって苦しむこともない。
そもそも付き合っていないのだから、本来なら苦しむ必要もないはず。
願わくば、彼を丸ごと愛してくれる素敵な方が現れますように……。
そして、彼を悩ませたり、苦しそうな顔をさせませんように……。
「私の気持ちを尊重してくれて、ありがとう。……夜遅くにごめんね。時間とってくれてありがとう」
半歩後ろへ下がる。
ギィッと床が小さく軋んだ。
足元を見ると、さっきまで影の中にあったはずマルコの足は、月明かりに照らされていた。
「おやすみ、マルコ」
複雑な思いを乗せた下手くそな笑顔を向ける。
私を見つめるその目の色は蒼くて、どこまでも優しい――
優しいからこそ、胸の奥に痛みを抱えているのがわかる。
「……おやすみよい」
静かで、深くて、あったかい声。
お互いのすべてを飲み込んだような声音だった。
「話してくれて……ほんとに、ありがとうよい。……また明日な」
月明かりに照らされた足元だけが、二人の微妙な変化を暴いている。
補給物資の確認表と掃除当番の割り振り表を作成しながら、大きな欠伸が出た。寄港予定は10日後くらい。それまでに物資の棚卸し、船番&掃除の割り振り表を完成させる。今日に各隊の隊長達へ連絡すれば、寄港2日前には完了する予定。
「くぁ〜」
いいお天気で緩い風が気持ち良さそうな今日。私は、マルコの仕事を手伝っている。自分の隊でも無いのに手伝うのは、私がマルコを好きだから。少しでも長く一緒に居たい。彼の視界に1秒でも長く映っていたい。そんな下心。幸い、モビーに乗る前に飲み屋やカフェでホールと経理を経験していたから、書類作成やスタッフ管理は得意だった。それは表の顔で、本業は用心棒。
「マルコ〜。ちょっと眠いから、一緒に甲板行かない?このまま……書類仕事無理だよ。休憩しよ?」
「ん?いいけど……サボりたくなったんじゃねぇのか?」
「昨日、遅くまで本読んでたの。サボりじゃない」
マルコは見ていたバインダーをパタリとデスクに置き、肩を回しながらクスッと息を漏らした。
「実は、俺もそろそろ休憩したかったよい。風、気持ち良さそうだしな」
先に立ち上がったマルコは、私の頭を軽く撫でてから扉を開けた。外から心地良い風がフワリと入ってくる。
甲板へ続く廊下を並んで歩くと、暖かい陽射しにくぁ〜と大きなあくびが出てしまう。そんな私を横目に見たマルコは、フッと笑った。なんとなく恥ずかしくなる。
「……サッチにコーヒー淹れてもらおうかなぁ。マルコも飲む?」
「あぁ。俺の分も頼んでもいいかい?濃いめのブラック」
「マルコは濃いやつね。了解」
「しかし、眠そうだなぁ。今日は早く寝ろよ?それか、少し昼寝でもするかい?」
「早めに仕上げておきたいから大丈夫。心配してくれてありがとう」
グイッと伸びをして、いつものようにマルコのお尻を軽く叩く。
「じゃあ、キッチン行ってくるね」
逃げるように笑いながらキッチンへ向かって廊下を走った。
「調子に乗って走るとコケるぞ」
「大丈夫〜〜」
振り返えるとマルコは叩かれたお尻をさすりながら、長い脚でのんびり甲板へ向かっていった。
慣れた手つきで、トレーに乗せたコーヒーとスイーツを運ぶ。マルコがパラソルやテーブルなどを用意してくれたのは、甲板の前方。太陽に背を向け船首と海をゆっくり眺められるいいポイント。
私を見つけると、ニコリと笑って大きな声で「零すんじゃねぇぞー」と。
「そんなことするわけないじゃん。元ウェイターだよ!得意だわ」
好きな人が笑顔を向けてくれていると、ちょっとした棘すら『気のせいだな』と気に留めないフリをしてしまう。でも、マルコのことだから、本当に私が転ぶことを心配していたのだろう。
「パラソルとか用意してくれてありがとう。マルコには、濃いめのコーヒー。あと、サッチから差し入れ」
コトンと、マルコの前に提供する。カフェで働いていた頃と同じ仕草で。
自分が座る所へもスイーツとコーヒーを置く。
「よし!ちょっと休憩したら頑張る!」
「……寝ぼけながらやるなよ?俺が全部やる羽目になるからな」
マルコはコーヒーを一口飲んで、口元だけで笑うけど、ちょっと意地悪が過ぎる言い方にフォークを持つ手が一瞬だけ止まった。すぐに黙々とスイーツを口に運ぶ。パイナップルの甘酸っぱい酸味とクリームが合うけど、味わっている余裕は今の私にはなかった。
私の気持ちを知ってか知らずか、マルコは私が夢中で食べていると思っているようで力の抜けた笑みをしている。
「またクリームつけてるよい。ゆっくり食えよ」
柔らかい笑顔で口元を指差しているけど、私はすぐに目を逸らし、親指でテキトーに拭った。
「少しは女らしくできねぇのか?」
楽しそうに笑っているマルコを一瞥し、意地悪な言葉をまた聞こえないフリをした。
「……今日イライラしてる?それとも、怒ってる?」
「怒ってねぇし、イライラもしてねぇよい。ただ、少し疲れてるかもな」
「そっか……仕事早く終わらせようね」
「そう言っても、休憩ばっかりしてたら終わらねぇよい」
――――休憩……誘わなきゃ良かったかな?
「忙しくて疲れてて、一刻も早く休みたいところ、休憩に誘ってごめんね。……先戻って書類やるから、マルコはゆっくり休んで」
コーヒーをカッと流し込んで席を立つ。
食器を持ち、マルコを見ずに、キッチンへ向かった。
カウンターに食器を返す。
「ごちそーさまー。スイーツ美味しかった!でも、いちごのほうが私は好き」
サッチは笑顔のまま「休憩してたんだろ?食うの早くねぇか?」と聞いてくる。
小さなため息がついて出る。
「そうなんだけど。マルコの言い方がちょっと……気になっちゃって、居づらくなっちゃった。言い方がさ……」
「あらら。アイツも疲れてんじゃねぇの?」
庇うように言うサッチに、苦笑いだけ返した。
「今のマルコに言わないでね。とりあえず、溜まった書類やってくる」
バイバイと手を振って、マルコの部屋へ向かった。
マルコは今も甲板に居るだろうけど、自分が使う必要書類だけを取って、自室に戻ることにした。
——今日はマルコと話したくない。
日が落ち始めて室内が少し冷えてきた頃、お湯沸かしそうと準備をしているとノックの音がした。
――――コン、コン
その音に、「はーい」と返事をすると聞こえたのはマルコの声だった。
小さく息を吐き、火を止めた。
デスクにある完成した書類を持ち、扉を開けた。
「どうしたの?昼の書類なら全部終わったよ。これがその書類」
どうしたの?と聞いたくせに、要件を言わせないように壁を作り矢継ぎ早に話す。
そして、書類の束をマルコの胸元へ出す。
マルコは一瞬、言葉を飲み込んだ。
蒼い瞳が私の手元と表情を交互に見比べ、ゆっくりと書類を受け取った。
「……ありがと、よい」
甲板で一緒に過ごした時より、低めの声。いつものマルコじゃない。どこか息が詰まったような声。
ドアノブに手を掛けると、マルコは足でドアを押さえる。
「……あのさ、さっきは……オレの言い方が悪かったよい。すまねぇ」
マルコの眉を下げた表情に胸が苦しくなった。
「……わざと言ったわけじゃねぇよい。……もっと気をつけるべきだった」
表情はそのままに頭だけを下げて「悪かった」と。
「私もイライラしてごめん」
「いや、俺がお前が嫌だって思うような言い方したのは事実だ」
マルコは私と目線の高さを合わせるようにかがむ。自然と顔が近くなり、憂いた青い瞳がよく見える。
その言葉の後に続く沈黙。
「何かサッチに聞いた?サッチから私と仲直りして来いとか言われた?」
「俺が勝手に来たよい。お前が怒ってるのは、サッチに聞くまでもなく分かったし…………ただ、お前が傷付いたような顔してたって言われた」
ほんの少しだけ肩をすくめて、苦笑いにも見える表情。
「放っとけるわけねぇだろ。俺のせいだし。ちゃんと謝りたかっただけだよい」
ため息ではなく、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
それでも、小さな不満が沸々と湧いてくる。
グルグルと巡る思考は、マルコとサッチへの愚痴だ。そして、だんだんと被害者面した自分が現れてくる。
決して彼等は加害者じゃないし、私も被害者じゃない。でも……言わないでって言ったのに……。
「マルコ……ごめん。普通なら許せるんだけど……今日は無理みたい。マルコを傷つける言葉しか出てこないと思う。……ごめん」
「……分かったよい……ごめんな」
マルコは静かに受け止めたようだった。それは、私の気持ちを優先しようとするいつものマルコの空気感。
マルコは廊下を歩きだした。背中を見送ることもせずに、ドアを閉める。
ドアに両手をついたまま俯く。ただのイライラなのか、悲しいのか、自分の感情がわからない。
振り返ると、窓の外の大きな上弦の月。
海はその光をキラキラと反射させていた。
それは、いつか美術館で見た絵画の様に美しい。
窓枠がキャンバスの額で、海と月が絵画。その景色を頬杖、ぼーっと観ていた。
「……」
昼間のマルコとの会話を振り返る。
多分……バカにされたと思ってしまったんだろう。
「少し眠い」と言えば「サボり」と言われ、コーヒーを給仕すれば「元ウエイターは油断してこぼす」と言われ「寝ぼけながら書類やるな」「また俺がやる羽目になる」と言われた。
最後に「女らしく」と。
思い出すだけでムカつく。
……あんな言い方しなくてよくない?偉そうにさ。
私ってそんなに信用無いの?それとも、バカにされているだけ?
「疲れていたから、こういう言葉選びをした」と言われても……私は理解できない。
マルコのことを、恋愛対象として好きだったが……
もし付き合ったら、こんな感じになるの?そんなの耐えられないよ。
マルコが忙しいからと思って、書類とかも手伝っていた。私だって自分の隊の仕事は山程あるのだ。
時間を割いて手伝っていたのに……「俺がやる羽目になる」なんて言われるくらいなら、手伝わなくていいよね。
ベットに潜って無理やりに瞼を閉じた。
——
数日後。
「おはよい」
「おはよー」
いつも通りに笑って挨拶を返す。話しかけられれば、普通に話す。ただ、自分からマルコへ話しかけることはしなかった。全てが有耶無耶なまま、平常運転だった。
「まずい……」
サッと血の気が引く。
自分の隊のことで忙しすぎたのもあるけれど、補給物資の棚卸しと書類提出の連絡を完全に忘れていた。
島に着く前に各隊に棚卸しの連絡をして、在庫をまとめる。
——この作業を失念していた。寄港地到着まで、あと5日しかない。
広いモビーを走り各隊の隊長の元へ急ぐ。もちろん、マルコの一番隊にも。
「ごめんなさい」
「すいませんでした」
隊長達に頭を下げる。
そして最後……マルコの部屋の前。
本当は最初に来るべきだった。でも、どうしても足が重たかった。
また「おれがやる羽目になる」と言われたくなかったから。
——コンコンコン
「わたしだけど、今いいかな?」
声が硬くなる。上ずりはしないけれど、両手に力が入ってしっとり手汗をかいている。
「どうした?」
「ごめんなさい。在庫……まだやってなくて、全部の隊に今お願いしてきた。寄港日までになんとかする……なんとかします。だから一番隊の在庫も……近日中にお願いします。上陸前で忙しいのはわかってるけど……」
深々と頭を下げて謝罪する。
「……一番隊は終わってるよい。お前から声がかからねぇから、やるように伝えておいた」
「そうだったんだ……ありがとう。じゃあ、私まとめるから資料を」
「いや、いいよい。俺がやるから」
「私が任されてたのに?」
「あぁ。元は俺の仕事だよ。他の隊のが集まったら一番隊の誰かに渡しておいてくれ」
「……わかった。ごめんなさい」
それだけ言って、マルコの部屋をあとにした。
補給用の書類は滞りなく完成し、寄港中に取りこぼしなく補給された。つまりたった2.3日でマルコは補給物資をまとめた。
いつも通りにクルーたちに指示をするマルコの横顔を遠くから見ていた。
——そうだった。元々マルコはひとりでも問題ないんだった。下心で手伝っていたのは私だ。
出航してからも、マルコはいつも通りに接してきた。
「今日の午後時間あるか?頼みてぇことがある」
「時間は……」
ポケットから手帳を出して予定を確認した。
「ごめん。ちょっと忙しい」
「お前、そんなに忙しいことあったのか?」
「自分の隊の仕事もあるし、訓練とかもあるから」
「ふーん。わかったよい」
声掛けの頻度が上がってくる。マルコは私を見つけては声を掛けるようになっていた。仕事の話が主だけど。
少しだけしつこく感じてしまう。
静かな廊下の曲がり角の向こうからマルコが来た。
特に話すこともないから、素通りする。しかし、マルコの目は――明らかに私を追っている。
その視線が鬱陶しい。
「なぁ!ちょっとでいい……時間もらえねぇか?」
低く少し掠れた声で、呼び止められてる。素直のに足を止める自分に苦笑いが出る。でも振り返らない。
背中に掛けられか言葉は——
「……俺を避けてるかい?」
廊下には、波の音とクルー達の笑い声だけ。
「……距離置きたいなら、ちゃんと言葉にしてくれ。……あの日のこと、まだ引きずってんのかい?俺の失言……」
「言い方が嫌だなって。普通に過ごしているけど、ちゃんと解決してないし。マルコは謝ったから、終わったと思っているかもしれないけど……」
ゆっくりマルコを見る。
マルコの情けなくも憂いた表情。今の自分が彼と同じような表情をしている自覚がある。
——好きなのに、そばにいるとうまくいかなくなる。
「もう少し時間ください」
——あれから数日。
私は穏やかな日を過ごしていた。自分の仕事が終われば隊のクルー達と楽しく過ごす。自室でゆっくり過ごす時もある。
ふと、自分も無理していたんだなと思った。
マルコの手伝いをすることで、彼と一緒に過ごせる時間を確保していた。
大変だったけど……楽しかったし、幸せだった。
無理して手伝っていて、私自身いっぱいいっぱいだったのかもしれない。
マルコだけが悪いんじゃなかった。
それに、あの夜「手伝わなくていい」と思ったのも、ただの八つ当たりじゃなかった。マルコは、私がいなくても困らない。分かっていたはずなのに、目を逸らしていただけ。
「はぁ、謝るかぁ——書類の手伝いのことも、言わなきゃ」
時計を一瞥する。夜も遅い時間だけど、マルコは起きている時間。重い腰をあげて、マルコの部屋へ向かった。
あの部屋までの廊下が、いつも以上に長く感じる。それだけ足取りが重いんだろう。
彼の部屋の扉。在庫の件で来て以来だ。あんなに入り浸っていたのに。
いつもなら、元気にノックするが……なかなか手が動かない。
——マルコもあの日、こんな気持ちになったんだね。ごめん。
深呼吸して、ノックをする。
扉の向こうから「今開けるよい」と声がした。
ゆっくりと、扉がきしむ音を立てて開く。
マルコの目が、一瞬見開かれた。それから二、三度瞬いて、私が来るとは思っていなかったというようで、少し戸惑ったような顔をしている。
「どうした?こんな時間に」
声は落ち着いているのに、瞳の奥が少し揺れている気がする。
「謝罪にきたの。私も……言い過ぎたから。ごめんね」
マルコの目がわずかに丸くなった。
驚くというより、予想していなかった言葉を聞いた、そんな反応だった。
普段ならそんな動揺は見せないのに。
「……あの日のことなら、俺も悪かったよい」
「色々考えたら、私が子どもみたいだったなって思ったの。勝手に無理して……勝手に爆発して……だから……ごめん。本当に」
マルコは少しだけ俯き、拳をゆっくり握った後に私を見る。
「……謝られるとは、思ってなかったよい」
そこで一度、深く息を吐く。
「俺が……もうちょっと大人にならねぇとな」
「……そんなこと言わないで。マルコが全部悪いわけじゃないよ」
マルコはかすかに笑った。
「それでも……俺はお前を傷つけたり、困らせたり。何も見えてねぇのは俺だよい」
少しの沈黙。
廊下の風に私の髪が揺れる。
「……なぁ……もう俺と話したくねぇってわけじゃ、ねぇよな?……教えてほしいよい」
不安を隠しきれない目。
「……話したくないとは思ってないよ」
マルコは黙ってる聞いてくれている。
私は、自分の足元とマルコの足元を交互に見ながら話す。
私の足元は、月明かりに照らされていて、マルコの足元は影の中にある。
この明暗が、私達の関係のようだった。踏み越えてはいけない線があったんだと思う。
「マルコと一緒に居たいし、少しでも負担を減らしたくて、書類とか手伝ってたけど……
だんだんと欲張りになって、見返りばっかり求めていたみたい。
マルコは私のことを理解してくれているとか、マルコならわかってくれる……だって誰よりも長く一緒に居るから……とかね。
逆に私はマルコの一番の理解者みたいな気持ちになってた。」
「全部、くだらない妄想なんだけど……」
自嘲した笑いが出てくる。
「でね…この前みたいに言われるとさ、全然私のことわかってないじゃん!とか、私のとこ理解してない!って思ってしまうの。
……バカにされてるって思ったのも、私を理解してくれて無いから、見下されてる感じで……」
彼は相槌も打たずに、ただ黙っている。
「それでね……マルコの仕事を手伝うのはやめようと思う。
あなたを好きだと思っていたし、何があっても受け入れられると思っていたけど……
全然できなかった。勝手に怒って、傷つけて、ごめんなさい」
グッとマルコを見上げた。
「仲直りと言えるのかわからないけど…私が距離感を間違えていたと思う……ごめんなさい。
マルコの謝罪もちゃんと受け入れてるから、この話はこれで終わりにしたい……」
手に持っていた、書類の束を渡す。これは、私が担っていたモビーの在庫管理表。
マルコはなにも言わずに、ゆっくりと両手で受け取った。
私を見たまま。
沈黙が、少しだけ重く降りる。
一度目を伏せ、息を整える。
そして――覚悟を決めたように、私とまっすぐ見据える。
「……お前の妄想なんかじゃねぇよい。」
月明かりの下、静かにはっきりと言った。
「お前が理解してほしかったって言った気持ち、全部、分かるよい。俺も同じだったから。」
「お前なら何言っても分かってくれるって、勝手に甘えてた。
距離感を間違えてたのは……俺もだ……でも」
マルコは、なにか言いかけて、止まった。マルコは一度だけ目を閉じて、ゆっくり首を振った。
影の中にある彼の足元は動かない。
「……手伝いをやめるって言ったのは、分かったよい。
……でもな、家族としての距離も縮めちゃいけねぇのか?」
声が低く震える。
「俺は……お前がいなくなるのだけは……耐えられねぇよい。」
月明かりの下、お互いの足元の境界線だけが静かに続いていた。
「私の話、聞いてくれてありがとう。マルコの気持ちも、話してくれてありがとう。でも……」
少しだけ言い淀む。
何を口に出しても明日からの私達の関係は変わってしまうのがわかっているから。
私の後ろから、少し冷えた風が吹いて、マルコの部屋へ入っていく。
こんな風に飛び込めたら、どんなに楽だったのだろう。恋は盲目だ。冷静さを取り戻すと、踏み出すのが怖くなる。そして、冷静さのおかけで目を瞑っていた事実に向き合わなきゃならない。
今回の私たちは、その状況だ。特に私が。
目を瞑っておけばいいこと気付いてしまったから。
「個人的な距離は取りたい……でも、家族としての距離は変わらずいたいと思ってる」
これから先どう変わるかわからない。冷静になればマルコも変わるかも、しれない。
はたまた、冷静になっても私はマルコを好きかもしれない。
未来のことはわからないけど……
「マルコの前から居なくなったりはしないよ」
マルコはドアの前でほんの少しだけ肩の力を抜いた。
俯いていた視線がゆっくりと私を捉える。
「……そっか。家族としては変わらずそばにいてくれるって……それは、本当に……ありがてぇ話だよい」
静かな声だけど、息が少し震えている。
小さく息を吐き、視線が足元に落ちる。
そして少しだけ、柔らかく笑う。
あの、家族を安心させるときの優しい笑み。
「居なくならねぇって言ってくれたなら……今は、それで充分よいありがとねい」
「うん……」
些細な喧嘩だと思うだろう。でも、私とマルコがもしも付き合ったとしてら……きっと同じことで何度も躓くと思う。
その度、話し合って解決して、協力しても、同じことで躓くと思う。
そんな未来は望んでいない。
ーーそれなら、ただ傍にいられるポジションを選びたい。
互いに探り合い、気を遣い合い、それでいて心地良い……
そんなポジションでいれたらいいなと。
色々言っているが、本当はマルコの胸に飛び込みたい。でも、それをしてお互いが苦しむのが無理だった。
「私が意気地なしでごめんなさい」
マルコはその言葉に、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
息を吸って、ゆっくり吐き出す。
私の気持ちはわかっているのだろう。マルコは右腕を伸ばしたかけて、ゆっくりと下ろす。
「意気地なし」を否定するように、マルコは大きく首を横に振る。
「……意気地なしなんかじゃねぇよい」
声は低くて、やわらかくて、でもどこか切ない。
廊下の月明かりが、私とマルコの間に落ちる。
その光と影の境目に、マルコはそっと足を寄せる――けれど線は踏み越えない。
「飛び込みてぇって気持ち、伝わってるよい。
だけど……お前が痛てぇ未来を選ばねぇように考えた結果なんだろ?
それを意気地なしなんて……言わせねぇよい」
目をそらさずに、まっすぐに見つめてくる。
「お前が選んだ傍にいられる距離……俺はちゃんと守るよい」
「……うん」
恋は盲目。
俯瞰した途端に、その想いは落ち着くはず。
何か始める時は理由が無くても……終わりの時は理由が生まれる。
きっと……マルコも私も程よい距離になれば、こうやって苦しむこともない。
そもそも付き合っていないのだから、本来なら苦しむ必要もないはず。
願わくば、彼を丸ごと愛してくれる素敵な方が現れますように……。
そして、彼を悩ませたり、苦しそうな顔をさせませんように……。
「私の気持ちを尊重してくれて、ありがとう。……夜遅くにごめんね。時間とってくれてありがとう」
半歩後ろへ下がる。
ギィッと床が小さく軋んだ。
足元を見ると、さっきまで影の中にあったはずマルコの足は、月明かりに照らされていた。
「おやすみ、マルコ」
複雑な思いを乗せた下手くそな笑顔を向ける。
私を見つめるその目の色は蒼くて、どこまでも優しい――
優しいからこそ、胸の奥に痛みを抱えているのがわかる。
「……おやすみよい」
静かで、深くて、あったかい声。
お互いのすべてを飲み込んだような声音だった。
「話してくれて……ほんとに、ありがとうよい。……また明日な」
月明かりに照らされた足元だけが、二人の微妙な変化を暴いている。
