Gift
アメリカはぬるくなったシェイクを派手な音をたてて啜りながら、だらしなく椅子に座り込んでいた。スーツに皺が付こうが構わない。小言を言う自称保護者は、今日はどうしてかいなかった。
「ねえフランス、今日あの人になにか予定あったか知ってるかい?」
今回の会議のホスト国は露骨に顔をしかめた。
「ええ~、なんでお兄さんに聞くかなあ」
「なんだかんだよく一緒にいるじゃない」
「心外だね!」
そうは言いながらも手帳のページを繰って心当たりを探すあたり、やっぱり腐れ縁だとアメリカは思った。ここで言うとさらにこじれそうなので言わないが。
「電話かけりゃいいじゃん。お前からの電話ならあいつ喜んで飛びつくよ」
「もうやったさ、出ないんだよ」
黒い画面の端末を振ってアピールする。心底面倒くさそうな顔でその動きを目で追っていたフランスはため息の後、言った。
「じゃあ、行っちゃえば」
そう言われたので、アメリカはロンドンの地を踏んだ。
部下に最低限の連絡はしたので大丈夫だろう。そもそもあの会議が終われば大きな仕事はしばらくない。なんだか電話口で焦った声が聞こえたがきっと気のせいだ。
イギリス用の会議資料を持って、門扉からがやたらと長い小道を進む。広大な庭の木々が、さらさらと音を立てる。
古風な意匠のドアノブを一息に押し下げ、遠慮なく扉を開け放った。ノッカーはついているが終ぞ使ったことはない。鍵はかかっていなかった。
「イギリス、いきなりの欠席なんてどうしたんだい!このHEROが様子を見に来たんだぞ!!」
言い放ったアメリカの碧眼は、ぱちりと赤い眸とかち合った。
そう、赤だ。イギリスの眸は赤じゃない。赤い眸を持つ国は複数いるが、その一対の眸は赤と青の混ざった稀有な色をしていた。視線を下げる。鈍く輝く鉄の十字。彼が好んで取り入れる意匠。
なぜ彼がイギリスの家で、タンクトップとジーンズなどというラフな格好でいるのか、それ以上に、その痕は何なのか。
白い肌の上、首や肩、腕にいたるまで。無数に散らばって痛々しい血の色を滲ませる半円の形の傷跡。
プロイセンはドアを開けるだけ開けてそこで唖然と立ち尽くすアメリカを一瞥して、まるで幼い子供を諭すように人差し指を立てた。
「静かにしてやれ、まだ寝てる」
そのときの彼の表情も密やかな声も、あの戦争で師事したとんでもなく厳しい教官のイメージやたまに弟と連れ立ってくる会議での無邪気に笑う人懐っこいイメージからはかけ離れていたものだから、夢でも見ているんじゃないかと自分の脳を疑ってみた。
夢ではなく、プロイセンは消えることなくそこにいる。
ああ、今日ドイツがやけに空っぽの机上に鎮座したUKの名札をちらちらと伺っていたのはそういうことか、とアメリカは場違いな感慨を抱いた。
「入れよ。資料渡しに来たんだろ?」
その言葉ではっと鞄の内の書類の重みを思い出して、ドアの内側へ体を滑り込ませた。
「時間あるか?コーヒーなら出してやる」
雰囲気に呑まれてジョークを飛ばすことも忘れたアメリカをダイニングに置いて、プロイセンは当たり前のようにキッチンに立った。迷いのない動作は彼がそこに立った回数が片手では足りないことをうかがわせるには十分だった。彼の銀髪がしっとりと濡れていることを含めて、もう邪推の材料はそろってしまっている。
元兄の関係に首を突っ込むほどの野次馬根性は持ち合わせていなくとも、その相手がプロイセンであることは大いにアメリカの脳内を疑問符で埋め尽くした。
ケトルが笛を鳴らす音に、物思いに沈んだ意識が浮上する。
ふたつのマグカップを持った彼が正面に座る。きちんとアメリカの利き手のほうへ取っ手を向けて差し出す細やかさは相変わらずだ(そしてテーブル上に出された書類の茶封筒をさりげなく遠ざけるのも忘れない)。
褐色の水面がプロイセンのものよりも淡い色をしているのを見て取ってから、アメリカは口火を切った。
「君はあの人と付き合ってるのかい?」
イギリス、と言わなかったのは、なんとなくその名前と付き合う、という言葉がちぐはぐな感じがしたからだ。薄明の色を写した眸が湯気の向こうでひらめく。
「世間一般的には、そう言うかもな」
遠まわしな言い方が、はぐらかされているようで気に食わなかった。彼はいつまでもアメリカのことを弟子の時代と同じように扱う。その弟子に、君は解体されたというのに。
気に食わなかったから、もっと直球に、いつものあっけらかんとした物言いをしてやった。
「ふうん、イギリスのこと好きなの?」
君が意外と初心なことは知っているぞ。さあ、慌てふためけ。子ども扱いしてくれた留飲は君が首まで真っ赤にしてわあわあ何かを喚く様子で下げてあげるからさ。
プロイセンはその問いにはすぐには応えなかった。銀色の睫毛がふいと下を向いて、よく磨かれたつやつやのテーブルの木目を視線がなぞる。最終的に定まったのはテーブルの端。正確には、そこにあった茶封筒。
「同じサイズの紙をぴったり重ね合わせている感じだ」
アメリカは自分の渾身の一撃が不発に終わったことを悟った。
「何それ」
全然答えになってないんだぞ、とわざとらしく頬を膨らませてみるがただ苦笑を返された。
その笑みは曖昧だった。でもそれだけで、アメリカには彼らの関係が伊達や酔狂ではないことが分かってしまった。曲がりなりにも、あの人は兄だったし、目の前のその人は師匠だったから。
物音が聞こえた。
廊下に繋がる戸口がいつの間にかぽっかりと口を開けている。そこに、本来訪ねるはずだった家主が亡霊のように立っていた。
皺の寄ったスラックスに裸足、痩せた上半身にはよれたシャツをただ引っ掛けている。
「……なにしに来た」
前髪の隙間から覗く、座りきったペリドットグリーンの眸。それは射抜くなんて生易しいものではない。アメリカはナイフ片手に思い切り体当たりされたような錯覚を覚えた。
言葉を紡げないアメリカの代わりに、プロイセンが後ろを振り仰いで答える。
「会議の資料渡しにきたんだとよ」
その一言だけで、空気が和らいだのを感じた。イギリスはふいとアメリカから顔をそらすと、暗いドアの奥へと消えていった。
ドアが閉まる音がする。アメリカは知らず知らずのうちに詰めていた息を吐きだした。
顎に貼り付いていた舌を流し込んだコーヒーでどうにか剥がす。
「……だいぶきてるね、アレ」
「だろ?ひどいもんだぜアレは」
萎縮したアメリカをよそに、プロイセンはケセケセと能天気に笑っている。なんとか茶化してみたが、本当はアレなんてものではない。家に満ちる空気の温度が数度下がった心地だった。
あの目は執着だ。実質、お気に入りの玩具を独り占めしたい子どもと大差はない。だがあれではまるで獲物を見すくめる蛇だ。行き過ぎも甚だしい。
イギリスという男の執着心や猜疑心は、知り合いの中でもとびきりだと思っている。小さい頃は気づかなかったが、改めてこの性格でよく兄が務まったなとしみじみ思うのだ。
あの蛇の毒牙を、彼は受けてしまったのだ。肉欲も何もかもをどろどろに混ぜ込んだ劇毒だ。強いが甘い。
かつての東欧の黒鷲もすっかり酔わされているらしい。
「あれでよくお前を育てたよなあ」
「本当だよ。分かっていて付き合ってる君の正気を疑っちゃうね」
プロイセンは呵々大笑した。ひとしきり笑って、そして、ふっと口をつぐむ。薄い唇が弧を描いて、いやらしく口角が吊り上がる。かつて何度も見た、野蛮な笑み。
「もう覚悟決めてんだよ」
アメリカはなんとかポーカーフェイスを保った。──ああ、忘れていた。
この人は、あの兄にさんざん甘やかされて厄介に育った俺を一人前にした国で、体制が変わろうが名前を変え、後継が生まれようが育て上げ、挙句の果てに解体されてもぴんぴんしている国だ。
たった一つの島国の狂気じみた執着程度、とっくの昔に飲み干している。
もうお手上げだ。いくらヒーローでも、こんな魔境に首を突っ込んでいては心臓が何度あのシベリアなみに冷え込めばいいか分からない。寒いのは苦手だ。
「趣味が悪いんだぞ、先生」
憎まれ口を残して、アメリカは家を出た。フランスから何かイギリスに弱みがあるようならすぐさま連絡を寄こせとのメールが来ていたが無視した。眠る大蛇もそれにべた惚れな勇敢すぎるお姫様も、寝かせておくに越したことはない。
『Gift』
「ねえフランス、今日あの人になにか予定あったか知ってるかい?」
今回の会議のホスト国は露骨に顔をしかめた。
「ええ~、なんでお兄さんに聞くかなあ」
「なんだかんだよく一緒にいるじゃない」
「心外だね!」
そうは言いながらも手帳のページを繰って心当たりを探すあたり、やっぱり腐れ縁だとアメリカは思った。ここで言うとさらにこじれそうなので言わないが。
「電話かけりゃいいじゃん。お前からの電話ならあいつ喜んで飛びつくよ」
「もうやったさ、出ないんだよ」
黒い画面の端末を振ってアピールする。心底面倒くさそうな顔でその動きを目で追っていたフランスはため息の後、言った。
「じゃあ、行っちゃえば」
そう言われたので、アメリカはロンドンの地を踏んだ。
部下に最低限の連絡はしたので大丈夫だろう。そもそもあの会議が終われば大きな仕事はしばらくない。なんだか電話口で焦った声が聞こえたがきっと気のせいだ。
イギリス用の会議資料を持って、門扉からがやたらと長い小道を進む。広大な庭の木々が、さらさらと音を立てる。
古風な意匠のドアノブを一息に押し下げ、遠慮なく扉を開け放った。ノッカーはついているが終ぞ使ったことはない。鍵はかかっていなかった。
「イギリス、いきなりの欠席なんてどうしたんだい!このHEROが様子を見に来たんだぞ!!」
言い放ったアメリカの碧眼は、ぱちりと赤い眸とかち合った。
そう、赤だ。イギリスの眸は赤じゃない。赤い眸を持つ国は複数いるが、その一対の眸は赤と青の混ざった稀有な色をしていた。視線を下げる。鈍く輝く鉄の十字。彼が好んで取り入れる意匠。
なぜ彼がイギリスの家で、タンクトップとジーンズなどというラフな格好でいるのか、それ以上に、その痕は何なのか。
白い肌の上、首や肩、腕にいたるまで。無数に散らばって痛々しい血の色を滲ませる半円の形の傷跡。
プロイセンはドアを開けるだけ開けてそこで唖然と立ち尽くすアメリカを一瞥して、まるで幼い子供を諭すように人差し指を立てた。
「静かにしてやれ、まだ寝てる」
そのときの彼の表情も密やかな声も、あの戦争で師事したとんでもなく厳しい教官のイメージやたまに弟と連れ立ってくる会議での無邪気に笑う人懐っこいイメージからはかけ離れていたものだから、夢でも見ているんじゃないかと自分の脳を疑ってみた。
夢ではなく、プロイセンは消えることなくそこにいる。
ああ、今日ドイツがやけに空っぽの机上に鎮座したUKの名札をちらちらと伺っていたのはそういうことか、とアメリカは場違いな感慨を抱いた。
「入れよ。資料渡しに来たんだろ?」
その言葉ではっと鞄の内の書類の重みを思い出して、ドアの内側へ体を滑り込ませた。
「時間あるか?コーヒーなら出してやる」
雰囲気に呑まれてジョークを飛ばすことも忘れたアメリカをダイニングに置いて、プロイセンは当たり前のようにキッチンに立った。迷いのない動作は彼がそこに立った回数が片手では足りないことをうかがわせるには十分だった。彼の銀髪がしっとりと濡れていることを含めて、もう邪推の材料はそろってしまっている。
元兄の関係に首を突っ込むほどの野次馬根性は持ち合わせていなくとも、その相手がプロイセンであることは大いにアメリカの脳内を疑問符で埋め尽くした。
ケトルが笛を鳴らす音に、物思いに沈んだ意識が浮上する。
ふたつのマグカップを持った彼が正面に座る。きちんとアメリカの利き手のほうへ取っ手を向けて差し出す細やかさは相変わらずだ(そしてテーブル上に出された書類の茶封筒をさりげなく遠ざけるのも忘れない)。
褐色の水面がプロイセンのものよりも淡い色をしているのを見て取ってから、アメリカは口火を切った。
「君はあの人と付き合ってるのかい?」
イギリス、と言わなかったのは、なんとなくその名前と付き合う、という言葉がちぐはぐな感じがしたからだ。薄明の色を写した眸が湯気の向こうでひらめく。
「世間一般的には、そう言うかもな」
遠まわしな言い方が、はぐらかされているようで気に食わなかった。彼はいつまでもアメリカのことを弟子の時代と同じように扱う。その弟子に、君は解体されたというのに。
気に食わなかったから、もっと直球に、いつものあっけらかんとした物言いをしてやった。
「ふうん、イギリスのこと好きなの?」
君が意外と初心なことは知っているぞ。さあ、慌てふためけ。子ども扱いしてくれた留飲は君が首まで真っ赤にしてわあわあ何かを喚く様子で下げてあげるからさ。
プロイセンはその問いにはすぐには応えなかった。銀色の睫毛がふいと下を向いて、よく磨かれたつやつやのテーブルの木目を視線がなぞる。最終的に定まったのはテーブルの端。正確には、そこにあった茶封筒。
「同じサイズの紙をぴったり重ね合わせている感じだ」
アメリカは自分の渾身の一撃が不発に終わったことを悟った。
「何それ」
全然答えになってないんだぞ、とわざとらしく頬を膨らませてみるがただ苦笑を返された。
その笑みは曖昧だった。でもそれだけで、アメリカには彼らの関係が伊達や酔狂ではないことが分かってしまった。曲がりなりにも、あの人は兄だったし、目の前のその人は師匠だったから。
物音が聞こえた。
廊下に繋がる戸口がいつの間にかぽっかりと口を開けている。そこに、本来訪ねるはずだった家主が亡霊のように立っていた。
皺の寄ったスラックスに裸足、痩せた上半身にはよれたシャツをただ引っ掛けている。
「……なにしに来た」
前髪の隙間から覗く、座りきったペリドットグリーンの眸。それは射抜くなんて生易しいものではない。アメリカはナイフ片手に思い切り体当たりされたような錯覚を覚えた。
言葉を紡げないアメリカの代わりに、プロイセンが後ろを振り仰いで答える。
「会議の資料渡しにきたんだとよ」
その一言だけで、空気が和らいだのを感じた。イギリスはふいとアメリカから顔をそらすと、暗いドアの奥へと消えていった。
ドアが閉まる音がする。アメリカは知らず知らずのうちに詰めていた息を吐きだした。
顎に貼り付いていた舌を流し込んだコーヒーでどうにか剥がす。
「……だいぶきてるね、アレ」
「だろ?ひどいもんだぜアレは」
萎縮したアメリカをよそに、プロイセンはケセケセと能天気に笑っている。なんとか茶化してみたが、本当はアレなんてものではない。家に満ちる空気の温度が数度下がった心地だった。
あの目は執着だ。実質、お気に入りの玩具を独り占めしたい子どもと大差はない。だがあれではまるで獲物を見すくめる蛇だ。行き過ぎも甚だしい。
イギリスという男の執着心や猜疑心は、知り合いの中でもとびきりだと思っている。小さい頃は気づかなかったが、改めてこの性格でよく兄が務まったなとしみじみ思うのだ。
あの蛇の毒牙を、彼は受けてしまったのだ。肉欲も何もかもをどろどろに混ぜ込んだ劇毒だ。強いが甘い。
かつての東欧の黒鷲もすっかり酔わされているらしい。
「あれでよくお前を育てたよなあ」
「本当だよ。分かっていて付き合ってる君の正気を疑っちゃうね」
プロイセンは呵々大笑した。ひとしきり笑って、そして、ふっと口をつぐむ。薄い唇が弧を描いて、いやらしく口角が吊り上がる。かつて何度も見た、野蛮な笑み。
「もう覚悟決めてんだよ」
アメリカはなんとかポーカーフェイスを保った。──ああ、忘れていた。
この人は、あの兄にさんざん甘やかされて厄介に育った俺を一人前にした国で、体制が変わろうが名前を変え、後継が生まれようが育て上げ、挙句の果てに解体されてもぴんぴんしている国だ。
たった一つの島国の狂気じみた執着程度、とっくの昔に飲み干している。
もうお手上げだ。いくらヒーローでも、こんな魔境に首を突っ込んでいては心臓が何度あのシベリアなみに冷え込めばいいか分からない。寒いのは苦手だ。
「趣味が悪いんだぞ、先生」
憎まれ口を残して、アメリカは家を出た。フランスから何かイギリスに弱みがあるようならすぐさま連絡を寄こせとのメールが来ていたが無視した。眠る大蛇もそれにべた惚れな勇敢すぎるお姫様も、寝かせておくに越したことはない。
『Gift』
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