白銀の氷河(10年後瀬人夢)

「ドクターカサンドラ!!」

カサンドラの元に、他の医師が血相を変えて駆け寄って来た。その手には、処置をしていた子供達の状態が記されたカルテ。カサンドラはそれを受け取ると表情を強ばらせた。
兄の方は栄養失調と極度の脱水だったため、点滴で回復させられる。だが、問題は弟の方だった。

「…緊急オペを行います!内容は緊急心臓弁形成術・置換術、すぐに準備をして!!」

カサンドラの声が診療所内に響き渡る。
それを聞いたスタッフ達からはどよめきと驚きの声が次々と上がる。

「無理ですよ先生!そのオペに対応できる医者がいません!」

「そんな超高難度の手術、この設備では無謀です!!」

「そうですよ先生!どうにもなりません!!」

騒然とする所内。スタッフ達は皆「無謀だ」と言っているが、カサンドラは至って冷静だ。
そしてまた、この兄弟もその緊迫した空気に敏感に反応していた。

「…兄様…カーサ、今"緊急オペをする"って言ってたよな…?」

「…ああ。間違いない。状況を見る以上オペが必要なのは明らかに弟の方だろう。」

「そんな…あの子そんなに悪かったのかよ…緊急オペが必要だなんて、なんの病気だよ…」

モクバはそう言うと、俯いて持っていたペットボトルををグッと握りしめた。

「感染性心内膜炎による急性弁不全。心臓の中にある血液の逆流を防ぐ「弁」に細菌が感染し、弁が破壊されてしまう病気よ。通常なら、虫歯の治療時とかに抗生物質を飲んで予防するけど、ここみたいな紛争地では不衛生な環境で怪我をしても、治療を受けられずに放置されることが多い。そして放置された傷口などから細菌が血液に侵入し、それが心臓の弁に巣食って、ある日突然、弁がベリッと破れて千切れるの。……今のあの子はまさにその、弁がベリッと破れて千切れてしまった状態よ。」

「…カーサ……それで、あの子は助かるのか…?」

モクバは医療用スクラブに着替えていたカサンドラを見上げると、心配そうにカサンドラに聞いた。そして瀬人もまた、モクバのその問いに対する答えを待っている。

「…結論から言うと、ハッキリ言ってこの状況であの子が助かる可能性は限りなく低い。助かったらそれは奇跡とも言えるくらいにね。弁が壊れた瞬間、心臓の中で猛烈な血液の逆流が起き、肺に血液が溢れかえって溺れるような状態(急性肺水腫)になるの。そうなると一刻も早く胸を開けて、壊れた弁を修復するか、人工の弁に取り替える「緊急心臓弁形成術・置換術」という超高度なオペが必要になる。設備が整った大きな病院なら助かる確率は格段に跳ね上がるけど…見ての通り、ここにはそんな設備は無いわ。」

「じゃあ…あの子の事は諦めるしかないのか…?せっかくここまで繋ぎ止めたってのに…ここで…終わりなのかよ…」

モクバはそう言うと、再び持っていたペットボトルをグッと握りしめ、その瞳からは一筋の涙が流れ落ちた。

「フン、バカめ。誰が"諦めるしかない"などと戯(たわ)けたことを言った。お前はこの女を誰だと思っている。この女が、お前が必死に繋いだバトンをそう簡単に落とすとでも思っているのか。」

瀬人はそう言うと、モクバを睨み付けた。

「…兄様……」

「…おい、カサンドラ。まさか貴様も諦めている訳ではあるまいな。」

瀬人がカサンドラを睨み付けながらそう言うと、カサンドラはフッと不敵な笑みを浮かべた。

「当たり前。諦めていたらそもそもオペの準備なんてしないわ。…このオペに対応できる医者は私だけ。モクバ君が必死に繋いだバトンは、私がしっかりあの子の未来に繋げさせて貰う。」

「…フン…それでこそ貴様と言う女だ。」

瀬人はカサンドラのその言葉を聞いて、フッと口元に笑みを浮かべ、まっすぐ彼女の瞳を射抜いた。瀬人のその視線には、帝王の威圧と共に、彼女に対する揺るぎない絶対的な信頼と、ごくごく微かな愛情が混ざっていた。

海馬兄弟とカサンドラが話をしていると、スタッフがカサンドラを呼びに来た。カサンドラはそのスタッフと共に、質素な手術室に入って行った。

(…さぁ、カサンドラ。貴様のその"アスクレピオスの化身"とまでも言われている手腕を、この俺に見せてみろ。そしてその手で奇跡を起こすのだ…!)

瀬人は手術室に入っていくカサンドラの背中を見送りながら、頭の中でそうハッパをかけた。
隣ではモクバが祈るような顔で手術室を見つめていた。

「…頼んだぜ、カーサ…」

それからどのくらいの時間が過ぎただろうか。そこそこ静かだった診療所に、あの小さな子供の脈拍低下を知らせる、あの心電計の音が鳴り響いた。

《ピリリリリリッ ピリリリリリッ ピリリリリリッ…》

海馬兄弟はその「絶望のノイズ」を聞くと、質素なオペ室の窓から中の様子を伺った。
オペ室の中はその心電計の音を聞くなり大騒ぎになっていた。

「先生!もう無理です!出血が止まりません!血圧が……!」

「そうですよ先生!脈も戻らないし、この施設にはもう昇圧剤もありません!」

人工心肺がない、血も薬も足りない、子どもの脈はどんどん弱くなっていく。そんな極限状態のオペ室で、カサンドラだけが冷静さを保っていた。
そして彼女はマスクの奥で鋭い目を鈍く光らせ、「静かになさい!まだ私の手の中に心臓(いのち)はある!」
と一喝していた。
カサンドラのその一喝にスタッフ達はビクッと一瞬体を強張らせた。

「騒いでる暇があったら今すぐこの子の血液型を調べなさい!そして手術室の外に居る人達に協力を求めるの!急いで!」

カサンドラが懸命な処置をしながらそう指示を出すと、ほかの医師がすぐに血液型を調べ始めた。血液型を調ている間にもあの「絶望のノイズ」がけたたましく響いていた。
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