白銀の氷河(10年後瀬人夢)
"Wenn ihr es nicht fühlt, ihr werdet es nicht jagen,
Wenn es nicht aus der Seele dringt(日本語訳:お前のほんとうの腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは断じてできない。)"
数日後、KC社長室。
瀬人はデスクでコーヒーを飲みながら、ひと時の休憩を取っていた。
手にはゲーテのファウスト。ドイツ語の原文で書かれた文庫本サイズのものだ。
ファウストは高二(16歳)の時に童実野高校に転校してきた瀬人が、同じクラスだったカサンドラと、初めて言葉を交わした時に話題になった、言わば二人の原点となった本だ。
【「Aha, Goethes 'Faust' also... Sätze wie 'Es irrt der Mensch, solang’ er strebt' oder 'Verweile doch! du bist so schön!', was? Dass ein Japaner deutsche Literatur liest, ist wirklich eine Seltenheit.」
(日訳: ふーん、ゲーテの「ファウスト」ねぇ…「人間は努力する限り、迷うものだ」とか「時よとまれ、お前はいかにも美しい!」ってやつでしょ?ドイツ語の本を読む日本人なんて珍しいね。)】
──それはカサンドラが初めて瀬人に声を掛けた時の言葉だ。日本語が堪能だったカサンドラがわざわざ皮肉混じりに自分の母国語であるドイツ語で瀬人に声を掛けたのは、カサンドラが瀬人がどのくらいドイツ語を理解しているかを試したためだった。
特に意識はしていないが、瀬人はこの「ファウスト」を手に取る度にその日の光景が頭の中でフラッシュバックしていた。
「…フン…くだらん…。既に終わった関係だ…」
瀬人はそう呟いてそのフラッシュバックを自ら一蹴すると、本のページを捲った。
もう何度読み返しただろうか。あれから10年経った今もそれを読んでいるのは、カサンドラと過ごした6年という歳月を懐かしむためでも何でもない。ただ単にこの「ファウスト」という作品が気に入ったからであった。
「瀬人様。」
瀬人がひと時の休憩を取っていると社長室の扉が開き、サングラスを掛けた黒服の男が入ってきた。
瀬人のSPであり、優秀な秘書でもある磯野だ。
「…磯野か。何の用だ。」
「瀬人様、アフリカ行きの準備が整いました。例の女医の所在も特定し、プライベートジェットと携帯端末にも登録済みです。」
「そうか。」
瀬人は読んでいた本を閉じると、椅子にかけていた白いビジネススーツのジャケットを羽織った。
「しかし瀬人様…本当にあの紛争地域に自ら出向かれるのですか。あのような危険な場所にお一人で出掛けられるのはやはりお止めになられた方が…」
「――黙れ」
瀬人は少々の苛立ちを孕んだ低い声で短く、そして鋭くそう言った。
その瞳は狂気にも似た執念と、断固たる決意の炎が宿り、研ぎ澄まされたナイフのように鋭く光っていた。
「…しかし…」
「自分一人で巨石を持ち上げるという強い意志が無ければ、何人掛かろうとその巨石は持ち上がらん。下がれ、磯野」
瀬人は磯野の静止を遮るようにそう言うと、磯野を睨みつけてから社長室を後にし、自身のプライベートジェットに向かった。
(…バカめ…「たとえ周りに誰もいなかろうが、俺は一人でこの巨石を意地でも持ち上げてみせる」という狂気的なまでの決意と、実際に爪を血に染めて巨石に指をかける行動を起こしたその時こそ、その熱量に周りが動かされ、その本気の行動に他人の力が噛み合うのだ。そして初めて「複数人がかり」の相乗効果が生まれ、巨大な石が持ち上がる。すべての始まりは、どこまでも「自分一人の覚悟」なのだ。…磯野め、そんな事すら分からんのか…)
瀬人はそう頭の中で毒づくと、プライベートジェットの操縦桿に手をかけた。
そしてジェットのエンジンを掛けると、凄まじい轟音を轟かせながらKCの屋上のプライベートジェット発着場からジェットをアフリカに向けて飛び立たせた。
しばらくジェットを飛ばして機体を安定させた瀬人は、運転を自動操縦モードに切り替えると、再びモクバが調べ上げたカサンドラの情報をホログラムで展開して目を通し始めた。
彼女持つ理念をどう現実のシステムにするか、そしてどう彼女を口説くかを再び考え始めたのだ。
(…あの女…あれから3年もの月日(つきひ)が経ったというのに、未だに俺にありとあらゆる思考を巡らさせるか。……フン、まぁ良いだろう。あの女の情報を見た以上、どのみち新プロジェクトを完遂させるにはあの女を連れて来なければならん。口を開けば皮肉ばかり言うような女だったが、アレの天賦の才は本物だ。認めざるを得ん。とはいえ…あの女は鋼の女、一筋縄では行かない事は明白だ。さて、どう攻略するか…)
瀬人が思考を巡らせていると、ジェット機に通信が入ってきた。日本にいるモクバからだ。大学の講義が終わって、KCに出社してきたのだろう。瀬人が応答すると、モクバの怒鳴り声が聞こえてきた。
『兄様何考えてんだよッ!!俺も磯野もやめとけって言っただろ!!今兄様が向かってる紛争地は数日前から状況が更に悪化してるんだぞ!!』
「そんな事は分かっている。…フン…バカめ、俺が何の対策もなしに動いたとでも思っているのか。」
『そりゃそうだけど…万が一って事があるだろ!だいたい兄様は……』
「モクバ!!」
モクバが文句を言おうとしている所を瀬人が遮るように怒鳴った。
「モクバ。お前、あの女にも…カサンドラにも同じ事が言えるか?あの女に「その紛争地は危険だから職務を放棄してでもドイツに帰れ」と言えるか?」
『それは……』
モクバが言葉を詰まらせた。
「……3年だ。3年もの間あの女はその「危険地域」の最前線で戦い続けているのだ。…あの女らしからぬ極めて効率の悪いやり方だかな…。だが戦い続けている事に変わりはない。モクバ、お前はそんな女に同じ事が言えるのか?」
『っ……分かったよ…けど兄様、無理無謀なことだけはするなよ?兄様はすぐにぶっ飛んだ方向に行っちゃうんだから。今回のミッションはあくまでもカーサとの話し合い。それ以外に余計なことはすんなよ?』
モクバは少々不満げにムスッと瀬人にそう注文を付けた。瀬人はそれを「フン」と鼻で笑い、通信を切った。
(フン…モクバといいカサンドラといい、いちいち余計な注文の多い奴らだ…。)
その後瀬人は途中でドバイに立ち寄り、燃料の給油とジェット機のメンテナンスを済ませると、いよいよウガンダの地(エンテベ国際空港)に降り立った。
日本からのフライト時間は約15時間。エンテベの街はすっかり暗くなっていた。
瀬人は手配していた空港のすぐ側にある最高級のホテルにチェックインすると、そのスイートルームで夜を明かした。
そして翌朝早くからジェット機でエンテベのホテルを出発し、エンテベ国際空港から他の空港を経由し、現地で待機させていたヘリに乗り換えた瀬人は、とうとう目的の難民居住地に降り立ったのだった。
Wenn es nicht aus der Seele dringt(日本語訳:お前のほんとうの腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは断じてできない。)"
数日後、KC社長室。
瀬人はデスクでコーヒーを飲みながら、ひと時の休憩を取っていた。
手にはゲーテのファウスト。ドイツ語の原文で書かれた文庫本サイズのものだ。
ファウストは高二(16歳)の時に童実野高校に転校してきた瀬人が、同じクラスだったカサンドラと、初めて言葉を交わした時に話題になった、言わば二人の原点となった本だ。
【「Aha, Goethes 'Faust' also... Sätze wie 'Es irrt der Mensch, solang’ er strebt' oder 'Verweile doch! du bist so schön!', was? Dass ein Japaner deutsche Literatur liest, ist wirklich eine Seltenheit.」
(日訳: ふーん、ゲーテの「ファウスト」ねぇ…「人間は努力する限り、迷うものだ」とか「時よとまれ、お前はいかにも美しい!」ってやつでしょ?ドイツ語の本を読む日本人なんて珍しいね。)】
──それはカサンドラが初めて瀬人に声を掛けた時の言葉だ。日本語が堪能だったカサンドラがわざわざ皮肉混じりに自分の母国語であるドイツ語で瀬人に声を掛けたのは、カサンドラが瀬人がどのくらいドイツ語を理解しているかを試したためだった。
特に意識はしていないが、瀬人はこの「ファウスト」を手に取る度にその日の光景が頭の中でフラッシュバックしていた。
「…フン…くだらん…。既に終わった関係だ…」
瀬人はそう呟いてそのフラッシュバックを自ら一蹴すると、本のページを捲った。
もう何度読み返しただろうか。あれから10年経った今もそれを読んでいるのは、カサンドラと過ごした6年という歳月を懐かしむためでも何でもない。ただ単にこの「ファウスト」という作品が気に入ったからであった。
「瀬人様。」
瀬人がひと時の休憩を取っていると社長室の扉が開き、サングラスを掛けた黒服の男が入ってきた。
瀬人のSPであり、優秀な秘書でもある磯野だ。
「…磯野か。何の用だ。」
「瀬人様、アフリカ行きの準備が整いました。例の女医の所在も特定し、プライベートジェットと携帯端末にも登録済みです。」
「そうか。」
瀬人は読んでいた本を閉じると、椅子にかけていた白いビジネススーツのジャケットを羽織った。
「しかし瀬人様…本当にあの紛争地域に自ら出向かれるのですか。あのような危険な場所にお一人で出掛けられるのはやはりお止めになられた方が…」
「――黙れ」
瀬人は少々の苛立ちを孕んだ低い声で短く、そして鋭くそう言った。
その瞳は狂気にも似た執念と、断固たる決意の炎が宿り、研ぎ澄まされたナイフのように鋭く光っていた。
「…しかし…」
「自分一人で巨石を持ち上げるという強い意志が無ければ、何人掛かろうとその巨石は持ち上がらん。下がれ、磯野」
瀬人は磯野の静止を遮るようにそう言うと、磯野を睨みつけてから社長室を後にし、自身のプライベートジェットに向かった。
(…バカめ…「たとえ周りに誰もいなかろうが、俺は一人でこの巨石を意地でも持ち上げてみせる」という狂気的なまでの決意と、実際に爪を血に染めて巨石に指をかける行動を起こしたその時こそ、その熱量に周りが動かされ、その本気の行動に他人の力が噛み合うのだ。そして初めて「複数人がかり」の相乗効果が生まれ、巨大な石が持ち上がる。すべての始まりは、どこまでも「自分一人の覚悟」なのだ。…磯野め、そんな事すら分からんのか…)
瀬人はそう頭の中で毒づくと、プライベートジェットの操縦桿に手をかけた。
そしてジェットのエンジンを掛けると、凄まじい轟音を轟かせながらKCの屋上のプライベートジェット発着場からジェットをアフリカに向けて飛び立たせた。
しばらくジェットを飛ばして機体を安定させた瀬人は、運転を自動操縦モードに切り替えると、再びモクバが調べ上げたカサンドラの情報をホログラムで展開して目を通し始めた。
彼女持つ理念をどう現実のシステムにするか、そしてどう彼女を口説くかを再び考え始めたのだ。
(…あの女…あれから3年もの月日(つきひ)が経ったというのに、未だに俺にありとあらゆる思考を巡らさせるか。……フン、まぁ良いだろう。あの女の情報を見た以上、どのみち新プロジェクトを完遂させるにはあの女を連れて来なければならん。口を開けば皮肉ばかり言うような女だったが、アレの天賦の才は本物だ。認めざるを得ん。とはいえ…あの女は鋼の女、一筋縄では行かない事は明白だ。さて、どう攻略するか…)
瀬人が思考を巡らせていると、ジェット機に通信が入ってきた。日本にいるモクバからだ。大学の講義が終わって、KCに出社してきたのだろう。瀬人が応答すると、モクバの怒鳴り声が聞こえてきた。
『兄様何考えてんだよッ!!俺も磯野もやめとけって言っただろ!!今兄様が向かってる紛争地は数日前から状況が更に悪化してるんだぞ!!』
「そんな事は分かっている。…フン…バカめ、俺が何の対策もなしに動いたとでも思っているのか。」
『そりゃそうだけど…万が一って事があるだろ!だいたい兄様は……』
「モクバ!!」
モクバが文句を言おうとしている所を瀬人が遮るように怒鳴った。
「モクバ。お前、あの女にも…カサンドラにも同じ事が言えるか?あの女に「その紛争地は危険だから職務を放棄してでもドイツに帰れ」と言えるか?」
『それは……』
モクバが言葉を詰まらせた。
「……3年だ。3年もの間あの女はその「危険地域」の最前線で戦い続けているのだ。…あの女らしからぬ極めて効率の悪いやり方だかな…。だが戦い続けている事に変わりはない。モクバ、お前はそんな女に同じ事が言えるのか?」
『っ……分かったよ…けど兄様、無理無謀なことだけはするなよ?兄様はすぐにぶっ飛んだ方向に行っちゃうんだから。今回のミッションはあくまでもカーサとの話し合い。それ以外に余計なことはすんなよ?』
モクバは少々不満げにムスッと瀬人にそう注文を付けた。瀬人はそれを「フン」と鼻で笑い、通信を切った。
(フン…モクバといいカサンドラといい、いちいち余計な注文の多い奴らだ…。)
その後瀬人は途中でドバイに立ち寄り、燃料の給油とジェット機のメンテナンスを済ませると、いよいよウガンダの地(エンテベ国際空港)に降り立った。
日本からのフライト時間は約15時間。エンテベの街はすっかり暗くなっていた。
瀬人は手配していた空港のすぐ側にある最高級のホテルにチェックインすると、そのスイートルームで夜を明かした。
そして翌朝早くからジェット機でエンテベのホテルを出発し、エンテベ国際空港から他の空港を経由し、現地で待機させていたヘリに乗り換えた瀬人は、とうとう目的の難民居住地に降り立ったのだった。