HappyBirthday,My Alice.
「な…え、え…?」
何が起きている分からない。この状況はどういうことだ?突然あのウサ耳男に引っ張り出されたと思ったら、いつの間にかあの燕尾服の、恐らくアスランと言う名前の男にこうして抱きしめられている。一体なんで、何がどうなって、こういうことになっている?
「あー…あのさ、アンタの物だからどうしようと勝手だけど、せめて自己紹介くらいはしてやれよ」
アスランの腕の中で固まっているキラを見かねたウサ耳男が頭をぽりぽり掻きながら助け舟を出してくれる。
「…それもそうだな、突然すまなかった。何せ君にこうして触れられるのが嬉しくて」
ウサ耳男の提案に納得したのか、アスランはキラを抱きしめていた腕を離し、キラに優しく微笑みかけた。
「俺はアスラン。よろしく、アリス」
「あ、はあ…わっ」
そう言うとアスランはキラの右手を恭しく手に取り、手の甲に口付けてみせた。まるで騎士が姫に忠誠を誓うそれのようでこっ恥ずかしい。
そもそも先ほどからこのアスランとか言う男は自分を"アリス"と呼んでいるが、自分の名前はキラであって、アリスじゃない。もしかしたら誰かと間違えているんじゃないのか。
「あの、アスラン、さん…僕の名前はアリスじゃなくて…」
「分かってるさ、キラだろう?キラ・ヤマト」
「へっ…」
知っているのか。しかもフルネームで。
「すまない、何か誤解をさせてしまったな。"アリス"は名前じゃないんだ。それはちょっとしたお遊びみたいなもので…まあ気にしなくていい」
「はあ…」
何なんだ一体。あの黒ウサギのことといい、今日は変な出来事が多すぎる。
「―あっ!ウサギ!」
そうだ、思い出した。自分は黒ウサギを追っていたのだった。自分の携帯を盗んだ、あの真っ赤な目をした黒ウサギ――
「…あ?何?」
また、真っ赤な瞳と目が合った。ウサ耳男はウサ耳をぴょこぴょこ動かして机の上に行儀悪く座っている。そういえば、このウサ耳男も黒髪で赤い目だ。
「紹介していなかったな。彼はシン、君の案内役をしてもらったんだが…こいつはいい加減な性格でな」
「だから、俺はちゃんとやったって!」
「案内…?」
アスランのその言葉に、キラはもしやと一つの可能性を見出した。黒い毛に真っ赤な目をしたあの黒ウサギ。それはもしかして―
「ちょ、ちょっと待ってください!あの、案内役って…」
「ん?ああ、ここに来るまでに黒ウサギに会わなかったか?それがシンだ」
やっぱり、そういうことか。ここまで色々と突飛な光景を見てきているから、今更ウサギが人間になったところで別段驚きはしない。
それよりも、アスランの話からするとシンは彼の頼みでキラをここに連れてきたということになる。それはつまり、アスランがキラに用があったということで。
「それって…アスランさんが僕をここに呼んだってこと、ですよね?」
「察しがいいな、その通りだ」
「って何で…そもそもここって何なんですか?」
キラが一番知りたい疑問。この現実離れし過ぎた空間は一体何なんだ?
そんなキラの問いに、アスランは笑みを更に深くして静かに答えた。
「―ここはおとぎの国、ワンダーランド」
「えぇ…?」
「…としか答えようが無いな。キラも知ってるだろう?よく絵本に出てくるおとぎの国」
「…知ってますけど」
「それと同じだ。ここでは楽しいことしか起こらない。幸せだけが溢れる世界だよ」
そんなふわっとした回答で納得できるか、とキラは思わず言い返しそうになったが、それより前にアスランの指で唇を軽くなぞられ、ひゃっと情けない声が出てしまう。
「こんなこと深く考えても仕方が無いだろう?それより、パーティーをしよう。その為にこの日を選んだんだ。さて問題。キラ、今日は何月何日?」
「へっ?え…ええっと…」
今度は一体何だ?そう思いながらもキラは今日の日付を脳内の記憶から引っ張り出す。――ええと、黒板にはなんて書いてあったっけ?今日は5月の…
「あっ、5月18日!―あれ?今日って…」
「正解!今日は5月の18日。そして君の誕生日だ」
アスランは楽しそうに笑いながら地面に落としたままだったシルクハットを拾い上げ、中に手を入れたと思うと、なんとシルクハットの中から色とりどりの鮮やかな花のブーケを出して見せた。
そうして花のブーケをキラに差し出すと、アスランは見惚れるような優しい微笑みを零した。
「―さあ、バースデーパーティーを始めよう」
目の前には沢山のお菓子。ホールケーキに、クッキー、ゼリー、マフィン、チョコレート…より取り見取りだ。
――ほんと、夢でも見てるんじゃないのかなあ。僕。
キラは目の前のお菓子の山を見てぼんやりとそう思った。
この机いっぱいに並べられているお菓子は少し前までは影も形も無かった。それを一瞬にして今の状態にしたのが、自分の向かいの席で紅茶を啜っている男―アスランだ。
アスランが机に立て掛けてあったステッキを手に取り軽く振って見せると、何も無いところから突然ぽん、と音を立ててお菓子が出てきたのだ。それらは当たり前のように机を占領し、今キラの目の前はお菓子食べ放題会場のようになっている。
アスランはそれについて「ちょっとした手品だよ。…魔法の方がいいか?」と全く答えになっていない答えをキラに寄越した。それ以上この現象について何か言う気は無いのだろう。
「なあ、食わねーの?そこそこイケるぜ、これ」
声をかけられて横を見ると、さっきまで端っこでお菓子にがっついていたはずのウサ耳男――シンがキラの隣の席にいつの間にか座っていた。
「あ、はい。あの…本当にこれ全部食べていいんですか?」
「勿論。キラの為に用意したんだ、食べてもらわないと困る」
そう答えたのは向かいのアスラン。アスランはキラの取り皿に適当に2、3、個チョイスしたお菓子を乗せて渡してあげた。
「こういうのは初めてなのか?」
「まあ、お菓子がいきなりどっかから出てくるなんて普通見れませんし…それに、僕の家、母子家庭でそんなお金無いんです。だからこういうパーティーもやったことなくて…」
「友達に祝ってもらったりとかは?」
「…僕、友達いなくて」
シンの何気ない問いにキラは少し言葉を詰まらせた。
キラには今まで、誕生日を祝ってくれるような友達がいなかった。自分が人見知りなせいで、話しかけられても上手く会話することが出来なかったのだ。そうしてまごまごしていたらクラス内でグループが出来上がってしまい、気づけば孤立している―それが学校でのキラだった。
だから、こうして誰かと普通に会話が出来るのはとても不思議なことだ。学校ではてんで駄目だったのに、アスラン達とは最初から緊張することなく会話が出来ている。色々あって緊張が解れたのだろうか?
「―なら、俺達が初めてキラの誕生日を祝うことになるのか」
そう思いついたように呟かれたアスランの言葉には、何処か嬉しそうな色が混じっていた。
「あ…確かに」
「まさかキラの初めてを貰えるとは思っても見なかった。こんなことなら誕生日プレゼントも色々と用意すればよかったな」
「そんな、いいですよ!これだけで充分です。…あの、ありがとうございます。すごい、嬉しいです」
キラは少し照れくさそうにふにゃ、と顔を綻ばせた。
「…やっと笑ったな。キラには笑顔が似合う」
アスランはほっとしたような笑みを零した。「笑顔が似合う」なんて言われたのは初めてで、しかもあんな優しい顔で言われ、キラはうっすらと頬に熱が集まるのを感じてそっと俯いた。
「―あっ!忘れてた!」
今の今まで黙って横目で二人を見ながらお菓子を貪っていたシンが突然大きな声を上げ、自分のポケットからごそごそと何かを取り出した。
「あのさ、これ…悪かったな」
そう言ってシンが差し出したのは、黒ウサギに奪われた―正確にはシンに奪われたはずの携帯電話だった。
「あ、忘れてた…ありがとうございます。えっと…シンさん」
「シンでいいよ、敬語もいらない。そういう堅っ苦しいの苦手なんだ」
「あ、うん。えと…よろしくね、シン」
シンはアスランとは違い、ややぶっきらぼうな少年だ。けれどもきっと根は優しいのだろう。
「そういえばさ、アンタどうやってここまで来たの?」
「ええと、ここに来る前に喋る小鳥と会ったんだ。その小鳥が『森に帽子屋と黒ウサギがいる』って言ってて…あれ、そういえば帽子屋って?」
「ああ、それアスランのことだよ」
「え、帽子屋なんですか?」
キラは驚いて向かいのアスランを見やる。てっきり魔法使いか手品師かと思っていた。
「一応、な。売ったことも仕入れたことも無いが」
「仕入れたこと無いって…それ、仕事してないじゃないですか」
「そんなことはない。ちゃんと売り物はあるぞ、ほら」
そう言ってアスランは机に置いておいたシルクハットをキラに手渡す。先ほどアスランが被っていたものだ。
そのシルクハットをよく見てみると、中の底に「10/6」と書かれた値札のようなものが貼られている。アスランが被っていたら見えないではないか。
「…もしかして、これで売り物ってことにしてるんですか?」
「値札はきちんと貼っているし、値段設定もおかしくない」
「そういうことじゃなくて…!もっと見えやすいところに付けないと売り物って分からないじゃないですか」
「ほぼ非売品みたいなものだし、値札を目立つところに付けたところで誰も買いに来ないだろう。…まあ、来ても売らないが」
その発言は物を売る仕事としてどうなんだ。唯一の品であるらしいシルクハットすらほぼ非売品だなんて、帽子屋を名乗っていいのかそれは。
「ああ、でも…キラになら売ってもいいな」
アスランはふと思い立ったように呟き、面白そうに笑う。
「だが学生にこの値段は少し高すぎるか?ならそうだな…代わりのもので支払ってもらうか」
「え…?」
「―キラの身体で、とか」
アスランは楽しそうに目を細めてじっとキラを見つめた。それはまるで、ネズミを見つけた猫のように。キラはほんの一瞬、何故だかその視線に身体の奥底が冷えるような感覚を覚えた。
「なっ…なに言ってるんですか!そんなことしませんし、買いませんっ!」
「――く…っ、ははっ…冗談だよ。そもそもいらないだろう、こんなもの…くくっ」
しかし、次の瞬間には先ほどの異様な雰囲気は消え去っていて、キラが感じたあの感覚も何処かへと消えていた。
――さっきのは一体何だったのだろうか。
キラはあの、恐怖を覚える冷たい感覚を忘れられずにいたが、アスランの押し殺したような笑い声に意識を持っていかれてしまう。
「…ちょっと、何もそこまで笑わなくたっていいじゃないですか」
「いや…すまない、キラが可愛くて…」
「はっ!?」
面白いじゃなくて可愛いなのか。アスランの言うことは分からない。と言うより男の自分に「可愛い」はどうなんだ。
「悪い、少しふざけすぎてしまったか?」
「…別に、いいですけど」
「拗ねるなよ。それと、俺にも敬語はいらない。気軽に"アスラン"と呼んでくれ」
アスランはそう言って、また優しげな表情で微笑んだ。
――いい人なんだろうな、きっと。
キラはアスランと関わっていく中で、心がふんわりと温かくなるのを感じていた。やはり、さっきのは何かの勘違いだ。だってこの人は、こんなに優しい表情が出来るのだから。
そんなキラを同情とも憐れみともとれぬ瞳で見つめていたシンに、キラは気づくことが無かった。
何が起きている分からない。この状況はどういうことだ?突然あのウサ耳男に引っ張り出されたと思ったら、いつの間にかあの燕尾服の、恐らくアスランと言う名前の男にこうして抱きしめられている。一体なんで、何がどうなって、こういうことになっている?
「あー…あのさ、アンタの物だからどうしようと勝手だけど、せめて自己紹介くらいはしてやれよ」
アスランの腕の中で固まっているキラを見かねたウサ耳男が頭をぽりぽり掻きながら助け舟を出してくれる。
「…それもそうだな、突然すまなかった。何せ君にこうして触れられるのが嬉しくて」
ウサ耳男の提案に納得したのか、アスランはキラを抱きしめていた腕を離し、キラに優しく微笑みかけた。
「俺はアスラン。よろしく、アリス」
「あ、はあ…わっ」
そう言うとアスランはキラの右手を恭しく手に取り、手の甲に口付けてみせた。まるで騎士が姫に忠誠を誓うそれのようでこっ恥ずかしい。
そもそも先ほどからこのアスランとか言う男は自分を"アリス"と呼んでいるが、自分の名前はキラであって、アリスじゃない。もしかしたら誰かと間違えているんじゃないのか。
「あの、アスラン、さん…僕の名前はアリスじゃなくて…」
「分かってるさ、キラだろう?キラ・ヤマト」
「へっ…」
知っているのか。しかもフルネームで。
「すまない、何か誤解をさせてしまったな。"アリス"は名前じゃないんだ。それはちょっとしたお遊びみたいなもので…まあ気にしなくていい」
「はあ…」
何なんだ一体。あの黒ウサギのことといい、今日は変な出来事が多すぎる。
「―あっ!ウサギ!」
そうだ、思い出した。自分は黒ウサギを追っていたのだった。自分の携帯を盗んだ、あの真っ赤な目をした黒ウサギ――
「…あ?何?」
また、真っ赤な瞳と目が合った。ウサ耳男はウサ耳をぴょこぴょこ動かして机の上に行儀悪く座っている。そういえば、このウサ耳男も黒髪で赤い目だ。
「紹介していなかったな。彼はシン、君の案内役をしてもらったんだが…こいつはいい加減な性格でな」
「だから、俺はちゃんとやったって!」
「案内…?」
アスランのその言葉に、キラはもしやと一つの可能性を見出した。黒い毛に真っ赤な目をしたあの黒ウサギ。それはもしかして―
「ちょ、ちょっと待ってください!あの、案内役って…」
「ん?ああ、ここに来るまでに黒ウサギに会わなかったか?それがシンだ」
やっぱり、そういうことか。ここまで色々と突飛な光景を見てきているから、今更ウサギが人間になったところで別段驚きはしない。
それよりも、アスランの話からするとシンは彼の頼みでキラをここに連れてきたということになる。それはつまり、アスランがキラに用があったということで。
「それって…アスランさんが僕をここに呼んだってこと、ですよね?」
「察しがいいな、その通りだ」
「って何で…そもそもここって何なんですか?」
キラが一番知りたい疑問。この現実離れし過ぎた空間は一体何なんだ?
そんなキラの問いに、アスランは笑みを更に深くして静かに答えた。
「―ここはおとぎの国、ワンダーランド」
「えぇ…?」
「…としか答えようが無いな。キラも知ってるだろう?よく絵本に出てくるおとぎの国」
「…知ってますけど」
「それと同じだ。ここでは楽しいことしか起こらない。幸せだけが溢れる世界だよ」
そんなふわっとした回答で納得できるか、とキラは思わず言い返しそうになったが、それより前にアスランの指で唇を軽くなぞられ、ひゃっと情けない声が出てしまう。
「こんなこと深く考えても仕方が無いだろう?それより、パーティーをしよう。その為にこの日を選んだんだ。さて問題。キラ、今日は何月何日?」
「へっ?え…ええっと…」
今度は一体何だ?そう思いながらもキラは今日の日付を脳内の記憶から引っ張り出す。――ええと、黒板にはなんて書いてあったっけ?今日は5月の…
「あっ、5月18日!―あれ?今日って…」
「正解!今日は5月の18日。そして君の誕生日だ」
アスランは楽しそうに笑いながら地面に落としたままだったシルクハットを拾い上げ、中に手を入れたと思うと、なんとシルクハットの中から色とりどりの鮮やかな花のブーケを出して見せた。
そうして花のブーケをキラに差し出すと、アスランは見惚れるような優しい微笑みを零した。
「―さあ、バースデーパーティーを始めよう」
目の前には沢山のお菓子。ホールケーキに、クッキー、ゼリー、マフィン、チョコレート…より取り見取りだ。
――ほんと、夢でも見てるんじゃないのかなあ。僕。
キラは目の前のお菓子の山を見てぼんやりとそう思った。
この机いっぱいに並べられているお菓子は少し前までは影も形も無かった。それを一瞬にして今の状態にしたのが、自分の向かいの席で紅茶を啜っている男―アスランだ。
アスランが机に立て掛けてあったステッキを手に取り軽く振って見せると、何も無いところから突然ぽん、と音を立ててお菓子が出てきたのだ。それらは当たり前のように机を占領し、今キラの目の前はお菓子食べ放題会場のようになっている。
アスランはそれについて「ちょっとした手品だよ。…魔法の方がいいか?」と全く答えになっていない答えをキラに寄越した。それ以上この現象について何か言う気は無いのだろう。
「なあ、食わねーの?そこそこイケるぜ、これ」
声をかけられて横を見ると、さっきまで端っこでお菓子にがっついていたはずのウサ耳男――シンがキラの隣の席にいつの間にか座っていた。
「あ、はい。あの…本当にこれ全部食べていいんですか?」
「勿論。キラの為に用意したんだ、食べてもらわないと困る」
そう答えたのは向かいのアスラン。アスランはキラの取り皿に適当に2、3、個チョイスしたお菓子を乗せて渡してあげた。
「こういうのは初めてなのか?」
「まあ、お菓子がいきなりどっかから出てくるなんて普通見れませんし…それに、僕の家、母子家庭でそんなお金無いんです。だからこういうパーティーもやったことなくて…」
「友達に祝ってもらったりとかは?」
「…僕、友達いなくて」
シンの何気ない問いにキラは少し言葉を詰まらせた。
キラには今まで、誕生日を祝ってくれるような友達がいなかった。自分が人見知りなせいで、話しかけられても上手く会話することが出来なかったのだ。そうしてまごまごしていたらクラス内でグループが出来上がってしまい、気づけば孤立している―それが学校でのキラだった。
だから、こうして誰かと普通に会話が出来るのはとても不思議なことだ。学校ではてんで駄目だったのに、アスラン達とは最初から緊張することなく会話が出来ている。色々あって緊張が解れたのだろうか?
「―なら、俺達が初めてキラの誕生日を祝うことになるのか」
そう思いついたように呟かれたアスランの言葉には、何処か嬉しそうな色が混じっていた。
「あ…確かに」
「まさかキラの初めてを貰えるとは思っても見なかった。こんなことなら誕生日プレゼントも色々と用意すればよかったな」
「そんな、いいですよ!これだけで充分です。…あの、ありがとうございます。すごい、嬉しいです」
キラは少し照れくさそうにふにゃ、と顔を綻ばせた。
「…やっと笑ったな。キラには笑顔が似合う」
アスランはほっとしたような笑みを零した。「笑顔が似合う」なんて言われたのは初めてで、しかもあんな優しい顔で言われ、キラはうっすらと頬に熱が集まるのを感じてそっと俯いた。
「―あっ!忘れてた!」
今の今まで黙って横目で二人を見ながらお菓子を貪っていたシンが突然大きな声を上げ、自分のポケットからごそごそと何かを取り出した。
「あのさ、これ…悪かったな」
そう言ってシンが差し出したのは、黒ウサギに奪われた―正確にはシンに奪われたはずの携帯電話だった。
「あ、忘れてた…ありがとうございます。えっと…シンさん」
「シンでいいよ、敬語もいらない。そういう堅っ苦しいの苦手なんだ」
「あ、うん。えと…よろしくね、シン」
シンはアスランとは違い、ややぶっきらぼうな少年だ。けれどもきっと根は優しいのだろう。
「そういえばさ、アンタどうやってここまで来たの?」
「ええと、ここに来る前に喋る小鳥と会ったんだ。その小鳥が『森に帽子屋と黒ウサギがいる』って言ってて…あれ、そういえば帽子屋って?」
「ああ、それアスランのことだよ」
「え、帽子屋なんですか?」
キラは驚いて向かいのアスランを見やる。てっきり魔法使いか手品師かと思っていた。
「一応、な。売ったことも仕入れたことも無いが」
「仕入れたこと無いって…それ、仕事してないじゃないですか」
「そんなことはない。ちゃんと売り物はあるぞ、ほら」
そう言ってアスランは机に置いておいたシルクハットをキラに手渡す。先ほどアスランが被っていたものだ。
そのシルクハットをよく見てみると、中の底に「10/6」と書かれた値札のようなものが貼られている。アスランが被っていたら見えないではないか。
「…もしかして、これで売り物ってことにしてるんですか?」
「値札はきちんと貼っているし、値段設定もおかしくない」
「そういうことじゃなくて…!もっと見えやすいところに付けないと売り物って分からないじゃないですか」
「ほぼ非売品みたいなものだし、値札を目立つところに付けたところで誰も買いに来ないだろう。…まあ、来ても売らないが」
その発言は物を売る仕事としてどうなんだ。唯一の品であるらしいシルクハットすらほぼ非売品だなんて、帽子屋を名乗っていいのかそれは。
「ああ、でも…キラになら売ってもいいな」
アスランはふと思い立ったように呟き、面白そうに笑う。
「だが学生にこの値段は少し高すぎるか?ならそうだな…代わりのもので支払ってもらうか」
「え…?」
「―キラの身体で、とか」
アスランは楽しそうに目を細めてじっとキラを見つめた。それはまるで、ネズミを見つけた猫のように。キラはほんの一瞬、何故だかその視線に身体の奥底が冷えるような感覚を覚えた。
「なっ…なに言ってるんですか!そんなことしませんし、買いませんっ!」
「――く…っ、ははっ…冗談だよ。そもそもいらないだろう、こんなもの…くくっ」
しかし、次の瞬間には先ほどの異様な雰囲気は消え去っていて、キラが感じたあの感覚も何処かへと消えていた。
――さっきのは一体何だったのだろうか。
キラはあの、恐怖を覚える冷たい感覚を忘れられずにいたが、アスランの押し殺したような笑い声に意識を持っていかれてしまう。
「…ちょっと、何もそこまで笑わなくたっていいじゃないですか」
「いや…すまない、キラが可愛くて…」
「はっ!?」
面白いじゃなくて可愛いなのか。アスランの言うことは分からない。と言うより男の自分に「可愛い」はどうなんだ。
「悪い、少しふざけすぎてしまったか?」
「…別に、いいですけど」
「拗ねるなよ。それと、俺にも敬語はいらない。気軽に"アスラン"と呼んでくれ」
アスランはそう言って、また優しげな表情で微笑んだ。
――いい人なんだろうな、きっと。
キラはアスランと関わっていく中で、心がふんわりと温かくなるのを感じていた。やはり、さっきのは何かの勘違いだ。だってこの人は、こんなに優しい表情が出来るのだから。
そんなキラを同情とも憐れみともとれぬ瞳で見つめていたシンに、キラは気づくことが無かった。