人間CP
人と人ならざる者が共生する小さな国。そんな小さな国の、王と女王の小さな出会い。王が王になり得た、そんな、大切で愛おしい物語。
「ヤマト!」
和装に身を包んだ男性が、彼の子の名前を呼ぶ。呼ばれた、まだ幼い金色の髪をした子供は、どこか不機嫌そうにその声に振り向いた。幼子も男性と同じように、和装に身を包んでいる。金色の髪と青い瞳がどこか異国を思わせるようで、けれど和装が随分と似合う子供だった。名前をヤマト。
大和の国。そう、この国の名前を背負う者。彼はこの国をいずれ背負い立つ、王の一族の子供だった。
さざ波の音がこだまする。岩礁に打ち付ける波の音、風に揺られる木々の葉の音。どこか遠くから鳥の鳴き声がして、ヤマトはそっと閉じていた瞳を開いた。岸壁に座り込み、ただ聞こえる自然の音を感じながらぼうっと海の先を見つめている。
ヤマトは、この国がそれほど好きではなかった。大和の国に対して、特別何か恨みがあるわけではない。何か憎悪するようなことがあるわけでもない。ただ漠然と、彼はこの小さな国が好きではなかった。王の一族として、ヤマトはいずれこの国を護っていかなければならない。けれどヤマトは、自分がこの国を護っていく姿をいまいち想像することができなかった。父はこの国に似合わず金色の髪をしていた。先祖がどこかで異国の地と交わった証だと言う。初めの頃はその色を毛嫌いする民も多かったが、それも随分昔の話だ。人と人ならざる者が共に生きるこの小さな国は、変化に一等敏感ではあったが、順応するのも早かった。
チチ、とヤマトの肩に小さな小鳥が止まる。ヤマトの髪色と同じような、黄色い尾を持つ小鳥だった。親とはぐれてしまったのだろうか。ヤマトはふと思案して、立ち上がる。人も動物も、彼にとっては等しく護るべき者だ。ヤマトはまだ王の子で正式に王になったわけではないけれど、生まれた瞬間から、民は護るものだと教えられてきた。だからこれは別に優しさでもなんでもない。ただ己がするべきことを、するだけだ。
「…親のところまで連れてってやるからな」
ヤマトがそう言って小さく笑いかければ、まるで言葉を理解しているかのように小鳥は小さく鳴いた。
岸壁から、とんと地を蹴って飛び下りる。彼が人であったなら、きっと正気を疑うような行動だろう。けれど海岸に落ちるその瞬間に、彼の背中から長い尾が伸びた。地面に強く尾を打ち付ける。砂埃が舞い上がり、ヤマトは地に着く衝撃をそうやって和らげると静かにその場へ降りた。黒く太い、長い尾。その和装の下には、普段は隠している王冠のような背鰭がある。その王冠こそ、彼がこの国の王である証だった。小鳥は衝撃から守られるように、そっとヤマトの手に包まれている。砂埃が晴れて海が見えると、小鳥は楽しそうにまた一つ鳴いた。ヤマトは随分と暢気なその様子に呆れると同時に、同じように小さく微笑んだ。
ヤマトを始めとして、王の一族にこのように近づいてくる存在は少ない。人はもちろんのこと、ヤマトたちと同じ人ならざる者も、王には畏敬の目を向ける。それはずっと昔の彼らの祖先が残した戦歴やその圧倒的な強さ故のもの。決して嫌っているわけではない。嫌ってはいないけれど、容易く近付くには、彼らの力は大きすぎた。知恵を持たない動物たちも、野生の本能が警告するのか滅多にヤマトたちには近付いてこないのだ。この小鳥はきっと、恐怖心が欠けているのだろう。珍しく近付いてくる存在はヤマトにとっては少しばかり嬉しいものだが、小鳥の行く末は心配になった。獣に食われたりなどしなければいいが。そんなことを思いながら、気配を探って海岸沿いに歩く。黄色い尾を持つ鳥なら、幾分か前に東で見かけたはずだ。この子の親鳥かは分からないが、そちらへ行けば何かしらに出会えるだろう。寄せては返す波は、太陽の光を反射して輝いていた。眩しそうに目を細めて、歩みを止めず眺める。この国の自然は美しい、ヤマトは素直にそう思う。異国の地がどのような環境を持っているのかなど知りもしないが、それでもこれだけはヤマトも自信を持ってそう言えた。
「――――、――」
ふと、小さな声が風と共にヤマトの耳を掠める。今にも消えそうなほどに小さなそれは、歌声のよう。呼応するように小鳥が一層大きく鳴いた。引き寄せられるようにヤマトは歌声の方へ足を速める。その先に何がいるのか、何が待っているのかなど分からないのに、ヤマトは運命に導かれるように歌声を辿った。
さらり、茶色く長い髪が風に揺られている。海岸の先、大きな岩の上に、彼女はいた。
(…はね)
大きな瞳を閉じ、海へ歌声を乗せている。彼女に合わせるように波が岩に打ち付けられ、風が木々の葉や、花びらを運んでいた。歌を紡ぐその彼女の背中。ヤマトの持つ王冠とは違うけれど、同じ人ならざる者の証。蝶のような透き通るように煌めく羽が、そこにはあった。彼女が羽を揺らめかせれば、舞う鱗粉が太陽に打たれて光る。まるで神話の中のような美しさがその空間を支配していた。その場所だけ、まるで時が止まっているような。
ざり、と、ヤマトが踏みしめた砂浜が音を立てる。小さな小さな音だったけれど、彼女はそれに気が付いて、紡ぐ歌を止めゆっくりと瞳を開いた。音のしたほうへ視線を向ける。そこに佇むヤマトの姿を捉えると、彼女は一等優しく微笑んだ。
「―――王」
これが、王と、やがて女王となる彼女の出会いだった。
ヤマトの存在を知っている。彼女の口から出た王という言葉に、ヤマトは無意識に後ずさった。それとは反対に、ヤマトの手に守られていた小鳥が彼女の方へ飛び立つ。そっと伸ばされた彼女の手にとまると、小鳥はどこか嬉しそうに、歌うように鳴いてみせた。
「ふふ、おかえり。また遠くに行ってたんだな」
歌っていた時とは違う、芯の通った強い声をしていた。そういえば、あの歌。先程まで聞こえていた彼女の歌は、人の用いる言葉ではなかった。彼女は、一体誰なのだろう。
「君が、連れてきてくれたんだ」
「ぇ、あ」
突然そう聞かれて、ヤマトは咄嗟に返事をすることができなかった。自分でも驚くくらい、彼の心臓は煩く音を立てている。初めてだった。相手が自分を見て恐怖し緊張した面持ちをすることなら何度もあったが、ヤマト自身がその立場になるのは、これが初めてだった。彼女の瞳が真っ直ぐヤマトを映している。焦げ茶色で、けれど太陽の光で橙色にも見えた。答えあぐねるヤマトに彼女は一度首を傾げ、立ち上がる。背中の羽を大きく広げる。大きくはためかせると、彼女は岩の上から降りぐっとヤマトに近付いた。突如縮まった距離にヤマトが更に後ずされば、彼女も同じように近づいてくる。目の前に立たれて気が付いたが、彼女は幼いヤマトよりずっと背が高かった。見下ろされる視線が、少しだけ怖い。初めて会うはずなのに、どうして彼女は愛おしいものを見るような目をしているのだろう。幼いヤマトには、まだ何も分からない。
「王、」
「っ、触るな!」
ふと頬へと伸ばされた手を、ヤマトは咄嗟に振り払う。誰にも明かしたことのない内側を暴かれるような感覚に怯えたヤマトは、だから忘れていた。彼の爪は、戦うためにある。だから彼の爪は、長く、鋭い。ぽたりぽたりと、雫が手から零れていく。彼女は驚いて目を見開き、ヤマトは自身の手が濡れる感覚で震えた。
「ぁ、っ」
傷つけるつもりは、なかった。ざっくりと切られた手。そこから、赤くはない彼女の血が零れ落ちる。ああ、だから俺は俺が嫌いなんだ。ヤマトは思い出す。彼はこの国が嫌いなわけではない。彼が嫌いなのは、憎悪するのは、いつだって他者を怯えさせ傷つけることしかできない自分自身だった。
踵を返し、逃げるように来た道を走る。ヤマトは初めて家族以外の誰かを美しいと思った。初めて、触れたいと思った。けれどその相手を、他でもない彼自身の手で汚してしまった。怖くなって、まだ幼いヤマトは逃げることしかできなかった。話しかける間もなく走り去ってしまったヤマトの背を呆然と眺めながら、彼女は血が滴り落ちる手をもう片方の手でそっと包んだ。
「……この国の、王、やまとのくに、やまと」
宝物のように、その名前を呼ぶ。その響きを噛み締めるように、何度も何度も、小さな声で名前を紡ぐ。彼は歌を理解してくれただろうか。いつか出会う、巡り合う運命。もう何度もこの世界を生きている彼女は、ヤマトよりよほど彼のことを知っていた。
「ようやく、会えた」
せっかく会えたのに、またしばらくはお別れなんだな。彼女は誰に言うでもなくそう呟いて、寂しそうに笑う。一層大きな風が吹く。小鳥は全て知っていたのか、名残惜し気に彼女の手から飛び立ってしまった。広げた羽を小さく畳み、海の中へ足を運ぶ。彼女の身を受け入れるように、波は優しく揺れていた。
「…だいじょうぶ、また、会えるから」
次の俺が生まれるまでのほんの少しだけ、まだ、待っていて。
ざぷん、と波が彼女を覆う。波が引いたそこに、もう彼女の姿はなかった。
ヤマトにとって、運命との出会いはそんな最悪なものだった。惹かれるものを感じて自分から近付いたのに、怖くなって傷つけただけではなく、名前も聞かずに逃げ出してしまった。ヤマトは短い生の中でこれほどまでに自分の行いを悔いたことはなかった。民は、護るものであるのに。住処に戻ってぽろぽろと涙を流すヤマトに驚いたのは彼の父で、父はヤマトから話を聞くと懐かしそうに目を細め、そして微笑んでヤマトを優しく抱きしめた。
あの出会いから、十数年。あの時はまだまだ小さく幼かったヤマトも、幾分か成長した。記憶が正しければ、あの時であった彼女よりも少しばかり大きいくらいか。人にとっては長い時の流れも、ヤマトたちにとっては遅すぎるほどだ。彼らは人間ほど短命ではない。特に王の一族は、他のどの種族よりも長寿だった。
あれから、ヤマトはまだ彼女と再び会えていない。
本当は、翌日にヤマトは同じ場所へもう一度足を運んだのだ。けれど待てども待てども彼女は現れず、誰かに尋ねるにしてもヤマトが近付けば皆逃げてしまうから、彼女のことを聞くことは叶わなかった。父は何か知っているようだったけれど、何度問い詰めても、ただ寂し気に笑って話を逸らしてしまった。だからヤマトは自力で探し出そうとしたけれど、名前すら知らない彼女を見つけられるわけもなく、ただ無意味に数年を辿ってしまった。
「…今日もいないか」
初めて出会った場所へ足を運ぶ。今では一年の内に数回しか来なくなってしまった。かつて彼女が歌っていた岩の上に腰を下ろして、ただ静かに波の音を聞く。その中に、彼女の歌声を探していた。この場所で待っていれば、会えると思った。この場所で耳を澄ましていれば、その歌声を拾えると思った。今日こそは会えるだろうかと、来るたびに思いながら一日をこの場所で終える。今日も同じように、ただ波音を聞いて、一日を終えるはずだった。さざ波と風の間に、誰かの声を拾う。ヤマトは閉じていた瞳を開き慌てて立ち上がった。確かに聞こえた声は、あの日、歌っていた彼女のものだ。
「―――王」
振り返って、ヤマトは、けれど彼女の姿に言葉を失った。
羽衣のような、あの時と同じ、極彩色を纏った彼女は、今にも消えてしまいそうなほどに、大きな傷を負ってぼろぼろだった。ヤマトと目が合い嬉しそうに笑うと、その体が崩れ落ちる。咄嗟に抱き留め、ヤマトはあまりにも軽く細いその体に恐怖した。
何者かと、戦った傷だ。一体だれが、誰が、彼女を。
「…やっと会えたのに、ごめんな」
「…どうしてッ」
「俺は、つよいわけじゃ、ないから」
消え入りそうな、小さな声を溢さないよう耳を傾ける。
「さがして、くれてたの、しってたよ。ありがとう、まにあわなくって、ごめん」
「…謝らなきゃいけないのは、俺の方だ。あの時、逃げた。傷つけたのに、何も言わずに逃げた」
「いいよ、いいんだ。ねぇ、王。だいじょうぶ、俺はまた生まれるから、また、会えるから。だからこんどは、名前を呼んで。そうしたら、会いに行けるから」
頬に伸ばされた手を、ヤマトは傷つけないように包み込む。力を入れるだけで壊れてしまいそうな、小さな手をしていた。
「おれは、たいち、太一」
「……太一」
「…うん、忘れないで。会いに行くから」
零れ落ちるヤマトの涙が、太一の頬を濡らした。太一は愛おしそうに微笑み頬を撫でる。本当は、もっと早く会えるはずだった。けれど彼女は王ではないから。人ならざる者は、常にその覇権や縄張りを懸けて争いを起こす。王の一族以外は、常に死と共に生きている。彼女もそうだった。会いに来るその最中で、巻き込まれ、羽を引き裂かれた。だから最後の力を振り絞って、彼に会いに来た。最期に、名前を呼んで欲しかった。
ざあと、強く風が吹く。太一の長い髪が揺れた。大事に大事に、その体をヤマトは抱きしめる。彼の、運命。彼だけの。
「ありがとう」
たった一言、その言葉と共に、ヤマトの腕の中にいた太一は、その姿を光へと変え消えてしまった。
「太一…太一、ッ」
名前を呼ぶ。名前を紡ぐ。王が見つけた、王の運命の相手。
王が何度も溢すその名前を、大地が、海が、風が、聞いていた。太一、王の愛する者の名。名が国へ刻まれる。大地を通して、風に乗せて、海へと溶ける。
この瞬間、太一という存在は、王と並び立つ女王へと変化した。
「…羽に刻まれた青い瞳が、その証だよ」
ヤマトの膝の上へ抱えられた太一が、愛おし気に自身の羽をなぞる。ヤマトにはまだ大地や海の声を理解することはできなかったが、長い時を自然と共に生きてきた太一はそのすべてを知っていた。
太一は、たった一人で生を繋いでいくのだという。ただ一つの個体が生と死を繰り返し、記憶を受け継いで、輪廻を巡っているという。彼女が残す子孫は、即ち彼女自身でもあった。親という存在から生まれやがて子を残すだろうヤマトには、その感覚がよく分からない。けれど彼女の羽に刻まれた青は紛れもなく自分のもので、ヤマトはただ一人で繋いできた彼女の生に自分自身が組み込まれたようで嬉しかった。前まではなかったはずのその模様は、彼女が王のものである証。そして、大地が彼女を女王と認めた証だ。
「太一」
「ふふ、くすぐったいよ、王」
「……王じゃなく、名前を」
今のヤマトは太一よりも随分と大きい。彼女はまだ生まれたばかりの個体で、つい最近羽化したばかりだ。初めて出会った時よりも余程小さい彼女は、成長し大きくなったヤマトに抱えられるとその腕にすっぽりと埋まってしまう。上から覗き込む青い瞳に、体が喜びで震えた。ヤマトにとって太一が運命だったように、太一にとっても、ヤマトはずっと長い生の中で探し求めていた運命だった。羽に刻まれた彼の瞳が誇らしい。この先の生を、太一はヤマトのために生きていける。誰にも、もうそれを咎められることはない。
「…ヤマト」
きっとこの先、太一は何度だってヤマトを置いていく。もう一度生まれるからと、また会えるからと。太一とヤマトには、それだけは理解し合えない壁があった。太一はヤマトがこの国で王として君臨し続けられるよう、隣でその背を支えていくのだ。その過程で、再び別れることになったとしても、太一は躊躇わない。そのために、自分がいる。そして太一のそういう考え方を、ヤマトも誰より理解していた。彼女がこの先、自分が敵と対面した時、その身を犠牲にしてもヤマトを守り抜くだろうことを、ヤマトは誰より理解できてしまうから。だから強くなる。寿命というどうしようもできないこと以外で、決して彼女を失わないために。守られることなく、守れるように。強く強く、絶対的な王として君臨し続ける。
「太一、俺の運命」
「ヤマト、おれの、唯一」
触れるだけの接吻を交わす。どこまでも甘いそれに、ヤマトと太一は二人して幸せそうに微笑んだ。
人と人ならざる者が共生する小さな国。そんな小さな国の、王と女王の小さな出会い。王が王になり得た、そんな、大切で愛おしい物語。
これは、そんな物語の、美しく儚い、始まりの話。
「ヤマト!」
和装に身を包んだ男性が、彼の子の名前を呼ぶ。呼ばれた、まだ幼い金色の髪をした子供は、どこか不機嫌そうにその声に振り向いた。幼子も男性と同じように、和装に身を包んでいる。金色の髪と青い瞳がどこか異国を思わせるようで、けれど和装が随分と似合う子供だった。名前をヤマト。
大和の国。そう、この国の名前を背負う者。彼はこの国をいずれ背負い立つ、王の一族の子供だった。
さざ波の音がこだまする。岩礁に打ち付ける波の音、風に揺られる木々の葉の音。どこか遠くから鳥の鳴き声がして、ヤマトはそっと閉じていた瞳を開いた。岸壁に座り込み、ただ聞こえる自然の音を感じながらぼうっと海の先を見つめている。
ヤマトは、この国がそれほど好きではなかった。大和の国に対して、特別何か恨みがあるわけではない。何か憎悪するようなことがあるわけでもない。ただ漠然と、彼はこの小さな国が好きではなかった。王の一族として、ヤマトはいずれこの国を護っていかなければならない。けれどヤマトは、自分がこの国を護っていく姿をいまいち想像することができなかった。父はこの国に似合わず金色の髪をしていた。先祖がどこかで異国の地と交わった証だと言う。初めの頃はその色を毛嫌いする民も多かったが、それも随分昔の話だ。人と人ならざる者が共に生きるこの小さな国は、変化に一等敏感ではあったが、順応するのも早かった。
チチ、とヤマトの肩に小さな小鳥が止まる。ヤマトの髪色と同じような、黄色い尾を持つ小鳥だった。親とはぐれてしまったのだろうか。ヤマトはふと思案して、立ち上がる。人も動物も、彼にとっては等しく護るべき者だ。ヤマトはまだ王の子で正式に王になったわけではないけれど、生まれた瞬間から、民は護るものだと教えられてきた。だからこれは別に優しさでもなんでもない。ただ己がするべきことを、するだけだ。
「…親のところまで連れてってやるからな」
ヤマトがそう言って小さく笑いかければ、まるで言葉を理解しているかのように小鳥は小さく鳴いた。
岸壁から、とんと地を蹴って飛び下りる。彼が人であったなら、きっと正気を疑うような行動だろう。けれど海岸に落ちるその瞬間に、彼の背中から長い尾が伸びた。地面に強く尾を打ち付ける。砂埃が舞い上がり、ヤマトは地に着く衝撃をそうやって和らげると静かにその場へ降りた。黒く太い、長い尾。その和装の下には、普段は隠している王冠のような背鰭がある。その王冠こそ、彼がこの国の王である証だった。小鳥は衝撃から守られるように、そっとヤマトの手に包まれている。砂埃が晴れて海が見えると、小鳥は楽しそうにまた一つ鳴いた。ヤマトは随分と暢気なその様子に呆れると同時に、同じように小さく微笑んだ。
ヤマトを始めとして、王の一族にこのように近づいてくる存在は少ない。人はもちろんのこと、ヤマトたちと同じ人ならざる者も、王には畏敬の目を向ける。それはずっと昔の彼らの祖先が残した戦歴やその圧倒的な強さ故のもの。決して嫌っているわけではない。嫌ってはいないけれど、容易く近付くには、彼らの力は大きすぎた。知恵を持たない動物たちも、野生の本能が警告するのか滅多にヤマトたちには近付いてこないのだ。この小鳥はきっと、恐怖心が欠けているのだろう。珍しく近付いてくる存在はヤマトにとっては少しばかり嬉しいものだが、小鳥の行く末は心配になった。獣に食われたりなどしなければいいが。そんなことを思いながら、気配を探って海岸沿いに歩く。黄色い尾を持つ鳥なら、幾分か前に東で見かけたはずだ。この子の親鳥かは分からないが、そちらへ行けば何かしらに出会えるだろう。寄せては返す波は、太陽の光を反射して輝いていた。眩しそうに目を細めて、歩みを止めず眺める。この国の自然は美しい、ヤマトは素直にそう思う。異国の地がどのような環境を持っているのかなど知りもしないが、それでもこれだけはヤマトも自信を持ってそう言えた。
「――――、――」
ふと、小さな声が風と共にヤマトの耳を掠める。今にも消えそうなほどに小さなそれは、歌声のよう。呼応するように小鳥が一層大きく鳴いた。引き寄せられるようにヤマトは歌声の方へ足を速める。その先に何がいるのか、何が待っているのかなど分からないのに、ヤマトは運命に導かれるように歌声を辿った。
さらり、茶色く長い髪が風に揺られている。海岸の先、大きな岩の上に、彼女はいた。
(…はね)
大きな瞳を閉じ、海へ歌声を乗せている。彼女に合わせるように波が岩に打ち付けられ、風が木々の葉や、花びらを運んでいた。歌を紡ぐその彼女の背中。ヤマトの持つ王冠とは違うけれど、同じ人ならざる者の証。蝶のような透き通るように煌めく羽が、そこにはあった。彼女が羽を揺らめかせれば、舞う鱗粉が太陽に打たれて光る。まるで神話の中のような美しさがその空間を支配していた。その場所だけ、まるで時が止まっているような。
ざり、と、ヤマトが踏みしめた砂浜が音を立てる。小さな小さな音だったけれど、彼女はそれに気が付いて、紡ぐ歌を止めゆっくりと瞳を開いた。音のしたほうへ視線を向ける。そこに佇むヤマトの姿を捉えると、彼女は一等優しく微笑んだ。
「―――王」
これが、王と、やがて女王となる彼女の出会いだった。
ヤマトの存在を知っている。彼女の口から出た王という言葉に、ヤマトは無意識に後ずさった。それとは反対に、ヤマトの手に守られていた小鳥が彼女の方へ飛び立つ。そっと伸ばされた彼女の手にとまると、小鳥はどこか嬉しそうに、歌うように鳴いてみせた。
「ふふ、おかえり。また遠くに行ってたんだな」
歌っていた時とは違う、芯の通った強い声をしていた。そういえば、あの歌。先程まで聞こえていた彼女の歌は、人の用いる言葉ではなかった。彼女は、一体誰なのだろう。
「君が、連れてきてくれたんだ」
「ぇ、あ」
突然そう聞かれて、ヤマトは咄嗟に返事をすることができなかった。自分でも驚くくらい、彼の心臓は煩く音を立てている。初めてだった。相手が自分を見て恐怖し緊張した面持ちをすることなら何度もあったが、ヤマト自身がその立場になるのは、これが初めてだった。彼女の瞳が真っ直ぐヤマトを映している。焦げ茶色で、けれど太陽の光で橙色にも見えた。答えあぐねるヤマトに彼女は一度首を傾げ、立ち上がる。背中の羽を大きく広げる。大きくはためかせると、彼女は岩の上から降りぐっとヤマトに近付いた。突如縮まった距離にヤマトが更に後ずされば、彼女も同じように近づいてくる。目の前に立たれて気が付いたが、彼女は幼いヤマトよりずっと背が高かった。見下ろされる視線が、少しだけ怖い。初めて会うはずなのに、どうして彼女は愛おしいものを見るような目をしているのだろう。幼いヤマトには、まだ何も分からない。
「王、」
「っ、触るな!」
ふと頬へと伸ばされた手を、ヤマトは咄嗟に振り払う。誰にも明かしたことのない内側を暴かれるような感覚に怯えたヤマトは、だから忘れていた。彼の爪は、戦うためにある。だから彼の爪は、長く、鋭い。ぽたりぽたりと、雫が手から零れていく。彼女は驚いて目を見開き、ヤマトは自身の手が濡れる感覚で震えた。
「ぁ、っ」
傷つけるつもりは、なかった。ざっくりと切られた手。そこから、赤くはない彼女の血が零れ落ちる。ああ、だから俺は俺が嫌いなんだ。ヤマトは思い出す。彼はこの国が嫌いなわけではない。彼が嫌いなのは、憎悪するのは、いつだって他者を怯えさせ傷つけることしかできない自分自身だった。
踵を返し、逃げるように来た道を走る。ヤマトは初めて家族以外の誰かを美しいと思った。初めて、触れたいと思った。けれどその相手を、他でもない彼自身の手で汚してしまった。怖くなって、まだ幼いヤマトは逃げることしかできなかった。話しかける間もなく走り去ってしまったヤマトの背を呆然と眺めながら、彼女は血が滴り落ちる手をもう片方の手でそっと包んだ。
「……この国の、王、やまとのくに、やまと」
宝物のように、その名前を呼ぶ。その響きを噛み締めるように、何度も何度も、小さな声で名前を紡ぐ。彼は歌を理解してくれただろうか。いつか出会う、巡り合う運命。もう何度もこの世界を生きている彼女は、ヤマトよりよほど彼のことを知っていた。
「ようやく、会えた」
せっかく会えたのに、またしばらくはお別れなんだな。彼女は誰に言うでもなくそう呟いて、寂しそうに笑う。一層大きな風が吹く。小鳥は全て知っていたのか、名残惜し気に彼女の手から飛び立ってしまった。広げた羽を小さく畳み、海の中へ足を運ぶ。彼女の身を受け入れるように、波は優しく揺れていた。
「…だいじょうぶ、また、会えるから」
次の俺が生まれるまでのほんの少しだけ、まだ、待っていて。
ざぷん、と波が彼女を覆う。波が引いたそこに、もう彼女の姿はなかった。
ヤマトにとって、運命との出会いはそんな最悪なものだった。惹かれるものを感じて自分から近付いたのに、怖くなって傷つけただけではなく、名前も聞かずに逃げ出してしまった。ヤマトは短い生の中でこれほどまでに自分の行いを悔いたことはなかった。民は、護るものであるのに。住処に戻ってぽろぽろと涙を流すヤマトに驚いたのは彼の父で、父はヤマトから話を聞くと懐かしそうに目を細め、そして微笑んでヤマトを優しく抱きしめた。
あの出会いから、十数年。あの時はまだまだ小さく幼かったヤマトも、幾分か成長した。記憶が正しければ、あの時であった彼女よりも少しばかり大きいくらいか。人にとっては長い時の流れも、ヤマトたちにとっては遅すぎるほどだ。彼らは人間ほど短命ではない。特に王の一族は、他のどの種族よりも長寿だった。
あれから、ヤマトはまだ彼女と再び会えていない。
本当は、翌日にヤマトは同じ場所へもう一度足を運んだのだ。けれど待てども待てども彼女は現れず、誰かに尋ねるにしてもヤマトが近付けば皆逃げてしまうから、彼女のことを聞くことは叶わなかった。父は何か知っているようだったけれど、何度問い詰めても、ただ寂し気に笑って話を逸らしてしまった。だからヤマトは自力で探し出そうとしたけれど、名前すら知らない彼女を見つけられるわけもなく、ただ無意味に数年を辿ってしまった。
「…今日もいないか」
初めて出会った場所へ足を運ぶ。今では一年の内に数回しか来なくなってしまった。かつて彼女が歌っていた岩の上に腰を下ろして、ただ静かに波の音を聞く。その中に、彼女の歌声を探していた。この場所で待っていれば、会えると思った。この場所で耳を澄ましていれば、その歌声を拾えると思った。今日こそは会えるだろうかと、来るたびに思いながら一日をこの場所で終える。今日も同じように、ただ波音を聞いて、一日を終えるはずだった。さざ波と風の間に、誰かの声を拾う。ヤマトは閉じていた瞳を開き慌てて立ち上がった。確かに聞こえた声は、あの日、歌っていた彼女のものだ。
「―――王」
振り返って、ヤマトは、けれど彼女の姿に言葉を失った。
羽衣のような、あの時と同じ、極彩色を纏った彼女は、今にも消えてしまいそうなほどに、大きな傷を負ってぼろぼろだった。ヤマトと目が合い嬉しそうに笑うと、その体が崩れ落ちる。咄嗟に抱き留め、ヤマトはあまりにも軽く細いその体に恐怖した。
何者かと、戦った傷だ。一体だれが、誰が、彼女を。
「…やっと会えたのに、ごめんな」
「…どうしてッ」
「俺は、つよいわけじゃ、ないから」
消え入りそうな、小さな声を溢さないよう耳を傾ける。
「さがして、くれてたの、しってたよ。ありがとう、まにあわなくって、ごめん」
「…謝らなきゃいけないのは、俺の方だ。あの時、逃げた。傷つけたのに、何も言わずに逃げた」
「いいよ、いいんだ。ねぇ、王。だいじょうぶ、俺はまた生まれるから、また、会えるから。だからこんどは、名前を呼んで。そうしたら、会いに行けるから」
頬に伸ばされた手を、ヤマトは傷つけないように包み込む。力を入れるだけで壊れてしまいそうな、小さな手をしていた。
「おれは、たいち、太一」
「……太一」
「…うん、忘れないで。会いに行くから」
零れ落ちるヤマトの涙が、太一の頬を濡らした。太一は愛おしそうに微笑み頬を撫でる。本当は、もっと早く会えるはずだった。けれど彼女は王ではないから。人ならざる者は、常にその覇権や縄張りを懸けて争いを起こす。王の一族以外は、常に死と共に生きている。彼女もそうだった。会いに来るその最中で、巻き込まれ、羽を引き裂かれた。だから最後の力を振り絞って、彼に会いに来た。最期に、名前を呼んで欲しかった。
ざあと、強く風が吹く。太一の長い髪が揺れた。大事に大事に、その体をヤマトは抱きしめる。彼の、運命。彼だけの。
「ありがとう」
たった一言、その言葉と共に、ヤマトの腕の中にいた太一は、その姿を光へと変え消えてしまった。
「太一…太一、ッ」
名前を呼ぶ。名前を紡ぐ。王が見つけた、王の運命の相手。
王が何度も溢すその名前を、大地が、海が、風が、聞いていた。太一、王の愛する者の名。名が国へ刻まれる。大地を通して、風に乗せて、海へと溶ける。
この瞬間、太一という存在は、王と並び立つ女王へと変化した。
「…羽に刻まれた青い瞳が、その証だよ」
ヤマトの膝の上へ抱えられた太一が、愛おし気に自身の羽をなぞる。ヤマトにはまだ大地や海の声を理解することはできなかったが、長い時を自然と共に生きてきた太一はそのすべてを知っていた。
太一は、たった一人で生を繋いでいくのだという。ただ一つの個体が生と死を繰り返し、記憶を受け継いで、輪廻を巡っているという。彼女が残す子孫は、即ち彼女自身でもあった。親という存在から生まれやがて子を残すだろうヤマトには、その感覚がよく分からない。けれど彼女の羽に刻まれた青は紛れもなく自分のもので、ヤマトはただ一人で繋いできた彼女の生に自分自身が組み込まれたようで嬉しかった。前まではなかったはずのその模様は、彼女が王のものである証。そして、大地が彼女を女王と認めた証だ。
「太一」
「ふふ、くすぐったいよ、王」
「……王じゃなく、名前を」
今のヤマトは太一よりも随分と大きい。彼女はまだ生まれたばかりの個体で、つい最近羽化したばかりだ。初めて出会った時よりも余程小さい彼女は、成長し大きくなったヤマトに抱えられるとその腕にすっぽりと埋まってしまう。上から覗き込む青い瞳に、体が喜びで震えた。ヤマトにとって太一が運命だったように、太一にとっても、ヤマトはずっと長い生の中で探し求めていた運命だった。羽に刻まれた彼の瞳が誇らしい。この先の生を、太一はヤマトのために生きていける。誰にも、もうそれを咎められることはない。
「…ヤマト」
きっとこの先、太一は何度だってヤマトを置いていく。もう一度生まれるからと、また会えるからと。太一とヤマトには、それだけは理解し合えない壁があった。太一はヤマトがこの国で王として君臨し続けられるよう、隣でその背を支えていくのだ。その過程で、再び別れることになったとしても、太一は躊躇わない。そのために、自分がいる。そして太一のそういう考え方を、ヤマトも誰より理解していた。彼女がこの先、自分が敵と対面した時、その身を犠牲にしてもヤマトを守り抜くだろうことを、ヤマトは誰より理解できてしまうから。だから強くなる。寿命というどうしようもできないこと以外で、決して彼女を失わないために。守られることなく、守れるように。強く強く、絶対的な王として君臨し続ける。
「太一、俺の運命」
「ヤマト、おれの、唯一」
触れるだけの接吻を交わす。どこまでも甘いそれに、ヤマトと太一は二人して幸せそうに微笑んだ。
人と人ならざる者が共生する小さな国。そんな小さな国の、王と女王の小さな出会い。王が王になり得た、そんな、大切で愛おしい物語。
これは、そんな物語の、美しく儚い、始まりの話。