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アキバマーケット

デュークモンのどの言葉がオメガモンに届いたのか本人に確かめたことはないが、ともかく二度目の邂逅の中でデュークモンは彼の内側へ踏み込む権利を得たことは事実だ。成長期デジモンに食べさせてやることは何度もあったが、まさか究極体相手に同じことをすることになるとは思ってもいなかった。これが彼でなければデュークモンは断ったかもしれないが、他でもないオメガモンからの願いだというなら、聞く以外の選択肢など存在しない。最初は戸惑いながら食べさせていたが、慣れてくるとその時間はデュークモンにとって代えがたいものになっていた。初めての時の感動といったら、きっと誰にも理解はできないだろう。
『…美味いか?』
『……さぁ』
味の感想こそもらえはしなかったが、食べるのをやめようとはしなかったから、きっと不味いわけではなかったはずだ。食事をとること自体久しぶりだったせいかオメガモンはパンを2つほど食べたところでもういらないと言ったが、たったそれだけでも大きな進歩には違いなかった。
「思い返せば、あれ以来ほぼ毎日押しかけたなぁ」
「鬱陶しいほどにな」
「仕方ないだろう。私が行かなければお前はどうせまた食べなかったじゃないか」
「…否定はしないが」
気まずそうに視線を逸らされる。その様子がおかしくて、デュークモンは小さく笑った。
あれから、デュークモンは時間の許す限りオメガモンのもとを訪れた。毎日、というわけにはいかなかったが、時折アグモンも連れて、街のデジモンたちにはうまく言って会いに行った。何か持って行かなければ食べる物もないだろうと思っていたし、そもそも他者がいなければまた何も食べようとしないだろうというデュークモンの予想は正しい。訪ねなかった翌日に聞けば案の定何も口にしていないと言われたものだから、当時デュークモンは悟られぬよう小さく溜息を何度か吐いたものだ。
何度も押しかければ、食事という行為に慣れて来たのか、オメガモンの食べる量も少しずつではあるが増えていった。オメガモンはこんなに毎日来なくていいと言ったけれど、デュークモンはただ自分のために訪れていただけだ。それは最初から変わらない。それに、まるで存在するだけで死んでいるようだったオメガモンが、自分の手でちゃんと生き始める姿を見るのが、デュークモンは一等好きだった。

***

データを飲み込む時、少しだけ喉が揺れる。デュークモンはそれを合図にオメガモンに次の一口を差し出すようにしていた。咀嚼という過程を必要としないデジモンに食べさせるのは初めてだったので最初は次のタイミングが分からず必死に凝視していたが、一度それに気付いてしまえばすぐに慣れるものだ。オメガモンに極力不快な思いをさせない範囲で、けれど少しずつその都度量を増やしていった。
「…お前、私にここまでして楽しいか」
「ああ、楽しいぞ」
「……そうか」
にっこりと笑って返せば、オメガモンは数度瞬きして俯く。光を反射して青が綺麗に輝いていた。すぐに視線が逸らされてしまうのでなかなかじっくり見ることは叶わないが、その青をいつかもう少し見れたらいいと思う。見るだけで凍えるほどの冷たい氷は、気付けばもう随分と溶けていた。
近付くことを許されている。世話を焼くことも、こうして一緒にいることも。デュークモンはそれを、素直に嬉しく感じていた。まだ彼はアグモンがいる前ではこうして食べようとはしないのだが、自分だけであれば大人しくデュークモンを待ってくれている。まるで自分だけが彼の特別のようで、何か勘違いしてしまいそうだなとデュークモンはいつも自制心を強く働かせていた。こういう気持ちを何と呼ぶべきなのか、デュークモンの中にその答えはまだない。
こうして訪れるのももう両手で数えきれないほどだが、デュークモンはまだ、彼自身のことについて深く聞いたことはなかった。何が原因で彼に突き放されてしまうか分からなかったし、ここで一人きりでいたのだから、いたずらに探るのも良くないのだろうと考えたからだ。誰にだって、触れられたくない過去はある。
だから慎重に言葉を選び、慎重に側へ立った。過去を聞いても拒絶されないよう、なるべく彼を不快にさせないよう。そのためにはまず、彼の内側へ入ることが必要だったから。かつてないほど、デュークモンは慎重に動いていた。まだ駄目だという声と、もういいのではないかという二つの声が脳裏をかすめていく。踏み込むことを、許してくれるだろうか。
いつもは食べ終わった後街の様子を話してくるデュークモンが何も言わないことを不思議に思ったのか、オメガモンはデュークモンへと視線を向けた。意図せず交わった視線に慌てたのはむしろデュークモンの方で、咄嗟に気の利いた言葉など出てくるはずもなく、彼は一度小さく息を呑むと覚悟を決めた。
「…オメガモンは、ずっと一人でここにいたのか?」
「ずっと、ではない。もともとは違った」
返って来た返事に、デュークモンは安堵する。
「仲間がいたのか?」
「…なかま」
たった一つの、何の変哲もない単語に、オメガモンの瞳が僅かに揺れた。安堵したのも束の間、デュークモンは焦る。まずいことを聞いてしまったのだろうか。その目に拒絶がないか確認しようにも、オメガモンはすでに目を逸らしてしまっている。
「…お前にはお前の事情があるだろうから、言いたくなければ聞かないが」
言って、もう少し言い方はどうにかならなかったのかと頭を抱える。まずは嫌なことを聞いただろうかと、謝罪するのが筋だろうに。
時期尚早だったなと胸の内で反省する。出会いがあのような形だったのだから、何をするにしても時間をかけるべきだった。デュークモンにとって初対面の相手と距離を縮める基準はアキバマーケットのデジモンたちであるため、どうしても一般的な順序や時期が分からない。何せアキバマーケットは周りを氷の大地に覆われているため、外との交流が多い方ではないのである。他のエリアを行き来するだけで一苦労だ。小さなデジモンたちはトレイルモンに乗ることができるが、乗れないデジモンも多い。トレイルモンに乗れず、飛ぶこともできないデジモンはアキバマーケットからあまり出ようとはしないし、そのようなデジモンがアキバマーケットを訪ねてくることも滅多にない。
何と言うべきだろうかとデュークモンは頭を悩ませる。そんな様子を、オメガモンは横目にじっと見つめた。
「……一人で、いる方がいいと思っていた」
静寂を破るオメガモンの声に、デュークモンは顔を上げた。オメガモンは遠くを見つめるように真っ直ぐ前を向いている。木々の向こう、その目は、何か別のものを見ているようだった。それだけなのに、胸が苦しくなる。
「どうせ何処にいても、不幸しか呼ばないから」
不幸を呼ぶとは、何のことなのだろう。少なくともデュークモンは彼といて不幸になったことなど一度たりともないのに。過去に、誰かにそう言われたのだろうか。そう思わざるを得ないことでもあったのだろうか。何も分からないのに、デュークモンはオメガモンがそう思うようになってしまった時に出会えなかったことを後悔する。もっと早く見つけることができていたら、あるいは彼がそんなことを思うこともなかっただろうか。
「いつか一人で、勝手に、朽ちてしまえばいいと」
絞り出すように言葉を紡ぐ。その声に苦痛は感じられない。もう苦痛を感じないほどに、その考えに慣れてしまったというのか。デュークモンは自分の事ではないのに、聞いているだけで泣き出してしまいそうだった。
「…生きる意味も何も、俺にはなかったから」
(……今、おれ、って)
オメガモンの一人称の変化に、デュークモンは咄嗟に反応した。聞き間違い、ではないと思いたい。もしかすると、オメガモンはもともと自分のことを俺と言っていたのだろうか。今まではまだ警戒されていたから、違ったのだろうか。
心を許されている証かもしれないというその変化に、デュークモンは高揚する。それと同時に、口には出さず彼の言葉を否定した。生きることに意味など必要ない。生まれたのならば、生きるべきだ。今までオメガモンにとってはそれが苦しかったのかもしれないが、それでもここまで生きることを諦めないでくれて良かった。そんなことを言ってしまえば、何も知らないくせにと彼は怒るだろうか。けれど本当に、本心からそう思う。
デュークモンがそう思っていることを察したかのように、オメガモンはちらとデュークモンに視線を向けた。
「…だが今は、少しだけ……生きて、いたいと思う」
そう言って、小さく目を細めるオメガモンに、デュークモンは今度こそ言葉を失くした。目を見開き何も言わないデュークモンから、オメガモンはさっさと顔を背けてしまう。その横顔は、どことなく照れているように見えた。デュークモンは伸ばしかけた手を必死に押しとどめて、言われた言葉を噛み締める。
生きる理由がないと言うから、生きる理由になれればいいと思った。オメガモンにとって、心を許せる存在になれればいいと思った。初めて彼を目にした時から感じる、この溢れんばかりの気持ちに名前をつけられないことがもどかしい。けれど、名前などなくていいとも思う。初めて抱く感情は日の光のように温かくて、それでいて襲い掛かる波のように激しい。何が自分をここまで突き動かすのか。けれどオメガモンの側にいると、戻ってきたように感じてしまう。こういうのを、運命とでも呼ぶのだろうか。そうだといい。自分にとってオメガモンが、オメガモンにとって自分が、運命であれば。
デュークモンは冷たい氷の大地しか見たことがない。氷に覆われているから、海なんて碌に見たこともない。けれど今のオメガモンの瞳は、あの青く澄んだ、どこまでも綺麗なあの瞳は。
(…まるで、海のようだ)
溶けた氷のその先に、初めて、海の青を見た。


***


「あれからだな、お前が俺と言うようになったのは」
「取り繕うのも面倒になったからな」
「はは、嬉しいことを言う。しかし、次の日突然アキバマーケットに来たのは本当に驚いた」
オメガモンが心を許してくれたあの日、デュークモンは感極まってその後ほとんどまともに話すこともできなくて、もどかしさを感じながらマーケットへ戻ったのを覚えている。高揚したこの気持ちをなんとか明日会うまでに抑えなければなと思い眠りにつき、そうして次の日、来訪の知らせを聞いて驚いて飛び上がってしまった。
慌てて走って向かった先にはオメガモンの姿があり、彼はデュークモンより早く知っていたアグモンと話をしていた。上がった息を落ち着かせる間もなく彼の名前を呼んだが、我ながら酷い慌て様だったなとデュークモンは思い出す度に苦笑する。
『いつか店の話をしていただろう。俺が来る方がよほど早い』
言葉になっていないデュークモンの問いを正確に聞き取ったオメガモンから返って来たのはそんな言葉だった。ほとんど自分が一方的に話しているだけだったから、まさか覚えているとは思っていなくて、デュークモンは再び驚いた。
それ以来、今まで待つのはオメガモンの方であったのに、今ではデュークモンが待つ側になっている。もうすっかりあの森に行くこともなくなってしまった。トレイルモンに乗って行くような遠方であるため、店を持つデュークモンにとっては有難いことだったが、いつもオメガモンばかりに来させていることを気に留めないことはない。
「どうせなら、いっそこちらに住んでしまえばいいだろうに」
「…それは遠慮する。そこまで世話をかけたいわけではない」
「…まぁ今は、こうして来てくれるだけで満足しているからいいがな」
さすがにまだそこまで許してはくれないかと、デュークモンは小さく息を吐く。いつか一緒に住んでくれるだろうか。オメガモンが許せば、デュークモンとしてはいつだって一緒に住む準備はできているのだが、それを言うとなんだか一人で空回りしているようで格好がつかないから、まだ言わないでおく。
あの時、オメガモンが初めて胸の内を明かしてくれた時に深く聞けなかったことは、これから先聞いたらいい。まだ知らないことは、これからゆっくりと知っていけばいい。きっとこの温かい日常は、そう簡単に壊れたりはしないだろうから。

この胸に抱く感情に名前を見つけるのは、もっと、先でいいのだ。




―――デジタルワールドに異変が起きたのは、それからすぐのことだった。
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