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創傑伝

大きな力は大切な誰かを守らせてはくれるが、決して幸福ばかりを運ぶわけではない。子供にはまだ、そんなことは分からないだろうけれど。

後に赤壁の戦いと呼ばれる戦は、誰一人として欠けることなく終焉を迎えた。曹操と劉備の戦いは、ハロとその仲間から力を受け取った劉備が司馬懿の思惑の上で暴走する曹操を倒すことで終局した。曹操でさえ認めた、劉備の持つ力。彼だけの、特別なそれが、結果的に曹操を打ち破ることとなる。孫堅から曹操を説得できなければ自分の手で殺せと、その覚悟を持てと言われていた劉備は、迷いながらも覚悟を決めたが、終ぞそのような事態が現実になることは、孫堅自身の手で止められた。諸葛亮の手によって司馬懿の思惑も外れ、戦いが終わった束の間の平和に、ふらり、傾く。安心、安堵。気が抜けるには、青年には十分だ。力を使うといつもこうなることを、青年自身よく知っていた。どこかで反動が来るのだろうなということも、なんとなく分かっていた。けれどどうせなら、こんなに大勢がいるところではなく、どこか一人で居られる場所で来てくれればよかったのに。思ったところで重い瞼は上がらない。全身から急激に力が抜け、立っていられなくなる。落ちるその体を誰かが支えてくれた気がしたが、青年の耳にはもう何も聞こえなかった。
(かあちゃん、おれ、おれがんばったよ、なぁ、おれ、がんばれたよな)
優しい手が一つ、そっと頭を撫でてくれた気がした。

***

あれほどの大きな力を使ったのだから、それ相応に反動が返ってくることくらい簡単に予測できただろうにと、孫堅は劉備の些細な変化に気が付くことができなかった自身を責め立てる。人に心配をかけることを嫌う子であるから、本来の劉備であれば皆の前で倒れるなどという失態は見せなかっただろう。けれど劉備は全員の前でものの見事に意識を手放した。咄嗟に側にいたショクエリアの劉備の仲間がその体を支えたが、孫堅だけではなく、その場にいた誰もが気が付く。固く閉じられた瞳の端、きらりと光が反射した。
力を使い果たし眠っているだけだということは分かっている。分かっているが、孫堅は劉備が眠る部屋を訪ねて、そこから動こうとはしなかった。レッドタイガーの母艦の一室を貸しているが、ショクエリアにたどり着くまでに目を覚ますだろうか。ああでも、あれほどに尽力したのだから、目を覚ますまでは母艦を移動させなくてもいいだろう。部下から反対されるかもしれないが、孫堅は内心でそう決めた。幼い頃、劉備が大切なものを失った瞬間を知っているからこそ、孫堅は劉備を置いていくことはできなかった。目が覚めるまで、離れられない。誰も失っていないと、伝えなければ。父親面をするつもりはない。劉備は孫堅の手を離れ、今まで母の遺言を胸に一人で立って歩いてきた。そう言えば彼は一人ではなかったと否定するだろうが、肉親がいるかいないかの違いは大きいものだ。劉備は強い、孫堅も再会してよく理解している。けれどその強さは、ほんの少しの危うさと共に成り立っている。倒れる節に、小さな涙を見た。静かに眠る劉備の顔を見て、孫堅は自身の言葉を思い出す。

『お前が曹操を殺せ』

この国の命運を懸けた戦いだった。だから相応の覚悟がなければならなかった。孫堅にとって曹操はそもそも商売敵でもある。彼が道を誤ったというのなら、その命を止めることになっても戦わなければならないことに一切の抵抗はない。けれど劉備は違った。劉備は心の底から曹操を尊敬していた。人を尊敬できることはいいことだ。だが戦場においてその純粋さは時に仇となりうる。孫堅は、もうこれ以上劉備に傷ついてほしくなかった。もうこれ以上、劉備に何かを失わせたくなどなかった。諦めてくれればいいとさえ思った。だから問うたのだ。説得が駄目だった時は、お前自身の手で曹操を殺せと。その覚悟がお前にあるのかと。そうでなければ、劉備が殺されてしまうから。あの問いが、間違っていたとは思っていない。けれど今になって、本当にそうだっただろうかと思わずにはいられない。
(…道を、誤ったか)
覚悟など、決めさせるのではなかった。誰かを殺す覚悟など、持たせるべきではなかった。劉備はあの瞬間、完全に孫堅の手から離れていった。まだ大人がそれとなく手を差し伸べ導かねばならない青年であったのに、孫堅は自身の言葉で、劉備を大人にしてしまった。
「…孫堅か」
「…おう、曹操か」
短い扉の開く音と共に背後から名を呼ばれる。振り返るまでもなく、孫堅は忌々しそうにその名を呼び返した。今更曹操が劉備を襲うなどとは思っていないが、それでもやはり少し心配になる。何より一つの部屋に二人きりになどさせたくなかった。
憎いのだろうか。胸に巣食うその感情を、孫堅はうまく整理できなかった。司馬懿という存在が裏にいたことは知っている。恐らく曹操があのような浅はかな決断を下したのもそのせいなのだろうと、聞いている。けれど裏にどのような事情があったにせよ、それは劉備たちを巻き込んでいい理由にはならない。そんなものが理由として通ってたまるものか。そんな理不尽は、もう散々だ。孫堅は今でも思い出せる。谷底に落ちていく母を見、手を伸ばす劉備の顔、姿。もっと救助が早く来ていれば、どうして来てくれなかったんだ、どうして失わなければならなかったんだ。そう言って絶望する民の姿。けれど結果的に、劉備はそれらの理不尽を全て背負った。何も失わなければよかったのにと思う。しかし劉備がいなければこの国はどうなっていただろうと思わずにはいられない。孫堅はたった一人の平穏だけを考えられるほど、良い大人ではなかった。
「…まだ目を覚ましはしないか」
「ああ、お前を負かすほどの力だったんだ。まだ当分起きねぇだろうな」
「…お前は、あの力を知っていたのか」
ああ、嫌な質問をしてくる。孫堅は強く手を握り締めた。劉備の持つ力は彼だけの特別なものだ。それこそ世界を救える、それほど大きな力を、あの小さな背に背負っている。孫堅も、その片鱗は知っている。が、過去一度だけ見せた片鱗がここまで大きなものになっているとは予想もしていなかった。何も知らなかったわけではない。だから自己嫌悪する。その力を覚醒させる道を作ったのは、他ならぬ孫堅だ。知っていたら、行かせなかった。曹操の首など、孫堅自身の手で落としていた。相打ちになったとしても。
「何もってわけじゃねぇがな…まぁ、知らなかったのと同じか」
「そうか」
ちらと曹操の表情を伺う。後悔は見えないが、その瞳はほんの少しだけ苦し気に見えた。
「…操られていたのかもしれない、などと言い訳をする気はない。今でも、私の選択が全て間違っていたとは思っていない」
「ほう」
「…だが、止めてくれて助かった」
随分丸くなったものだと感心する。これも劉備の影響だろうか。言い訳などしようものなら今この場でその横っ面を殴り飛ばしてしまえたのに。しかしそんな資格が自分にはないことを、孫堅は正しく理解していた。
「…選択を誤ったのは俺の方かもしれねぇな」
「なに?」
「劉備は、本気でお前を殺そうとしただろう」
曹操が言葉を詰まらせる。あの戦いで、地に倒れ伏す曹操を、劉備は確かに殺そうとしていた。孫堅が止めなければ、劉備はあのまま本当に曹操を殺していただろう。そうならずに済んでよかったと思う。この子が手を汚す必要なんて、どこにもない。それは大人の役目だ。孫堅は彼に覚悟を決めさせるために確かに殺せと言ったが、最初から、本当にそうさせるつもりなどなかった。
「けど劉備は、覚悟を決めちまった。その覚悟を、俺が、決めさせた」
こんな青年が、人を殺す覚悟なんて、持つべきではない。持たせるべきじゃあなかった。この先また同じような戦いが起きた時、劉備は相手をどうするだろう。今回のように止められる者がいなければ、その時こそ劉備は本当に誰かを殺してしまうかもしれない。そう思うだけで孫堅はぞっとする。自分はずっと傍にいられるわけではないのだ。自分が知らぬところで劉備が人を殺め、その結果自身を傷つけることなど起これば、孫堅は劉備に合わせる顔がない。孫堅にはもう、そんなことが起きないことを、祈ることしかできないのだ。
「お前のことなんて、敬愛しなけりゃよかったのに。お前が劉備の力を認めるなんてこと、なけりゃよかったのに」
曹操は何も答えない。自分が何を言ったところで無意味なことをよく分かっていた。曹操とて、何も思うところがないわけではない。孫堅は覚悟を決めさせたのは自分だと嘆くが、真にその覚悟を持たせることになった原因は曹操だ。だから嘆かない。だから後悔しない。それは劉備の覚悟を否定することになるから。曹操には孫堅のように嘆くことすら、許されない。それでいい。劉備が深く深く傷ついたそれ以上に、その何倍も、自分は傷つくべきだ。傷ついてぼろぼろになってしまえばいい、そう思う。それくらいしか、自身への戒めになりはしないから。
「…悪い、忘れてくれ」
「いい。私も分かっている」
「…お前はどうすんだ、この先」
話題をさっさと変えてしまおうと、孫堅は尋ねる。曹操は少し考える素振りを見せて、それから答えた。
「探らねばなるまい。司馬懿のことも、劉備の力のことも」
「...そうか、司馬懿は確か消えたんだったな」
事の発端である司馬懿は行方が掴めないままだ。劉備と諸葛亮の目の前で姿を消したというから、死んではいないのだろう。であれば、また何か起きる可能性が高い。その時、きっとまた劉備の力が必要になる。だから探らなければならない。劉備の力の根源、司馬懿の目的、世界のことを。また、劉備の心が不必要に傷つかないように。
「為すべきことを、探さなければ」
「…ああ、そうだな」
静かに眠るこの青年が、また倒れてしまわないように。青年が、これ以上の理不尽を背負わなくてもいいように。そのために、大人がいる。彼らは二人とも、道を誤った。今度こそ、その道を見誤らないために。

それがいずれ劉備のためになることだと、そう信じて動くことしか。
彼だけを大切にできない大人には、それしか許されていないのだ。
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