創傑伝
どうして、とばかり思ってしまうのをやめられない。自分と対峙する目の前の彼は、劉備にとって尊敬する相手であったはずだ。共に戦ったことだってあるはずだ。その背中に憧れ、追いかけた。あの戦いを終えて離れた後も、彼のように強くなるのだと劉備はただひたすらに彼を目指し続けた。ああいうリーダーになりたい。あの時の言葉は、紛れもなく劉備の本心であったから。
なのに、なぜ。
「曹操さん…ッ!」
「…お前のような小僧には、何もわからないだろうな」
信じられないというような悲痛な面持ちで見つめる劉備に、曹操はただ冷たくそう言うのみであった。
***
剣を振るう。強く、強く。何度も。もう手の感覚がうっすらとしか残っていない。疲労で視界がいつもより狭くなっている。それでも、それでも尚、劉備は剣を振るう事をやめなかった。やめてしまえば、そこで崩れ落ちてしまうとわかっていたから。胸に巣食う絶望が、自らを押しつぶしてしまいそうだったから。
劉備は、誰かに裏切られるなどといった経験をしたことはない。幸いにも劉備の周りは優しい人で溢れていて、出会いに恵まれていた。だから劉備にとって、曹操から向けられた冷たい視線と言葉は、その肩に酷く重くのしかかった。信じていた相手から、初めてあんな目を向けられた。劉備は青年ではあるが、まだ少年の域を完全に抜けたわけではない。だから孫堅のように、関羽や張飛のように、簡単に割り切ってしまうことはできなかった。曹操に怒り心頭な孫堅のその横で、劉備はただ絶望するしかなかった。まるで父のように自分を心配してくれた孫堅は、劉備の様子を見てさらに怒りを増した。それは関羽や張飛も同じだった。対峙する曹操の横、董卓との戦いで一時は背中を押してくれた夏候惇や夏侯淵は、その顔からは感情が読み取れなかった。彼らとも、戦わなければならないのだろうか。
そこから、劉備はどうやってレッドタイガーの母艦まで戻ってきたかわからなかった。気が付けば仲間に連れられて曹操たちから離れていた。だけど放たれた言葉が忘れられない。
『お前に何がわかる』
明確な拒絶。自分が子供だから。まだ幼いから、だから曹操を理解することができないというのか。共に戦い、少しは認められたと思っていたのは、勘違いだったのだろうか。拒絶に絶望する劉備の横で、孫堅たちの怒りが増したことにだって、劉備は気が付かなかった。彼らは劉備が失った者であることを知っているから、曹操のその発言に我慢ならず声を荒げていたが、終ぞその声は劉備には届かない。
剣を振るう。仲間に止められても尚、劉備は止まらない。止められない。止まれば今度は涙が溢れてしまう。だけど自分に泣く権利などあるのだろうか。曹操のことさえ理解できない自分が、ただ絶望の淵で泣くことが許されるだろうか。許されるはずがないのだ。だから止まるわけにいかなかった。やめるわけにいかなかった。もっと強く、強くならなければ。また大切なものを、失わないためにも。
「けど、今のお前に必要なのは休息だよ」
「…え」
ふと耳元で聞こえた声を最後に、視界が白く染まる。遠のく意識の中、自分の名前を呼ぶ仲間の声が聞こえた気がした。
「おはよう」
「……えっ」
意識を失った、はずだった。恐らく倒れたはずだ。けれど仰向けに倒れる劉備にはしっかりと意識があり、そしてその視界に自分を見下ろす別の誰かを捉えた。見たことのない人だ、けれど後ろに束ねられた髪が、なんとなく自分と似ている。驚き何も言わない劉備の様子に彼は少し笑って、そして劉備の腕を掴み強引に起き上がらせた。未だ驚いている劉備の前に、彼も同じように座り込む。
「はじめまして、劉備。少し俺と話をしようか」
「…あんたは」
青年は優しく笑う。
「頑張るのは大事だけど、無茶をするのは違うよ。それで仲間に心配をかけたら元も子もないだろ?」
「は、え…な、んで」
「知ってるよ、全部とは言わないけど、少しだけな。本当は干渉するべきじゃあないんだろうけど、見兼ねてつい出しゃばってしまった」
苦笑いする青年は、自分とそこまで変わらない年のように見えた。けれどその表情からでもわかる、恐らく彼は、自分よりもずっと場を踏んできている。戦う姿を見ずともわかる、曹操や孫堅と同じような、強者の雰囲気を纏っている。
「曹操を、理解することは、きっとお前には難しい」
「っ、…でも!」
真っ向からの否定に、その通りだとわかっていても劉備は声を荒げた。無理だと分かっていても、諦めたくはなかったから。
「劉備は、正義の反対にあるのは何だと思う?」
「…そりゃあ、董卓みたいな悪とか」
「ふふ、まあそうだよな。うん、俺もずっと昔は、そう思ってた頃があったよ」
懐かしそうに、青年はまた微笑む。
「でも、違うよ」
「え?」
「正義の反対にあるのは、別の誰かの正義だ」
その言葉と、向けられた強い瞳に劉備は雷に打たれたような感覚を覚えた。正義の反対は、別の誰かの正義。そんなこと、劉備は考えたこともなかった。
「忘れるな。正義の反対は別の誰かの正義だ。誰かの理想の反対は、また別の誰かの理想。勇気の反対にあるのは、別の誰かの勇気。これは、誰かが間違っているとか、正しいとか、そういうのじゃないんだよ、意味はわかるな?」
「…うん」
すとんと、青年の言葉が胸に落ちる。つっかえていた物が取れたような、そんな感覚。小さく頷く劉備に、青年は嬉しそうに笑って頭を撫でた。その手があんまり優しくて、何だか少し泣きそうになる。あたたかい。
「多分お前の正義と、曹操の正義が少し違うだけなんだよ。どっちも何も間違ってない。だけどそれは、言葉で言ったって説得しようとしたってきっと意味がない。その剣を交えて、初めてわかる」
それはつまり、曹操との戦いは避けられないということだろうか。不安そうな顔をしたのだろう、劉備を見て青年は安心させるようにその手をとった。
「大丈夫、お前はさ、曹操の痛みを理解することができないとしても、大切な人を亡くしたという痛みは、わかるだろう?」
「ぁっ、」
それなら、劉備にも痛いほどにわかる。曹操が大事な部下を亡くしたのと同じように、劉備は過去、母と親友を失った。失う痛みならば、劉備にも理解できる。
「だから大丈夫だ。まずはちゃんと休んで、もう一度考えて。きっと分かり合える。だってまだ、みんな生きてる」
できるだろうか、自分に。
「できるよ、だってお前も」
龍の名を継ぐ者なのだから。
そんな青年の言葉を最後に目を覚ます。ゆっくりと起き上がれば、傍で様子を見ていたらしい張飛が少し驚いて、嬉しそうに劉備に抱き着いた。
「劉備!よかった目ぇ覚めたんだな!」
「いたっ、張飛、痛い!」
ひとしきり抱きついて思い出したように孫堅たちを呼んでくると言って走って行ってしまった張飛の背を静かに見送る。あれほど感じていた焦燥感は身を潜め、いっそどこか清々しい気分さえした。さっきまで見ていた夢のおかげだろうか。
「…あれ、どんな夢、見てたっけ」
何故だろう、思い出せないけれど、劉備はもう、自分の力で立ち上がれる気がした。
「…劉備と曹操っていうのは、どの世界でもぶつかり合う運命なのかなぁ」
「どの世界のお前も甘い考えなだけだろう」
劉備が去った後、小さく呟く青年の後ろからまた別の声が響く。青年はその声がすることをわかっていたのか特に驚く素振りも見せず、ゆっくりと立ち上がって振り返る。
「またそういうことを…しょうがないだろ、あっちの世界の俺、まだあんなに子供なんだぞ」
「戦いに年など関係あるものか…だが、まぁ…どうせ同じような結果になるのだろうな、あいつのあの目は」
「なんで?」
「強い意志を宿した目だ。あちらの私は、きっとあれに勝てないだろうな」
その瞳はどこか優しい。そんな様子に青年は嬉しそうに笑った。
「…お前が優しいから、俺が勝てたのと同じみたいに?」
「…勝手に言っていろ、いい加減戻るぞ」
「なんだよ、拗ねたのか?本当のことしか言ってないぞ」
「黙れ」
そんな、違う世界の龍と鳳凰の話。
なのに、なぜ。
「曹操さん…ッ!」
「…お前のような小僧には、何もわからないだろうな」
信じられないというような悲痛な面持ちで見つめる劉備に、曹操はただ冷たくそう言うのみであった。
***
剣を振るう。強く、強く。何度も。もう手の感覚がうっすらとしか残っていない。疲労で視界がいつもより狭くなっている。それでも、それでも尚、劉備は剣を振るう事をやめなかった。やめてしまえば、そこで崩れ落ちてしまうとわかっていたから。胸に巣食う絶望が、自らを押しつぶしてしまいそうだったから。
劉備は、誰かに裏切られるなどといった経験をしたことはない。幸いにも劉備の周りは優しい人で溢れていて、出会いに恵まれていた。だから劉備にとって、曹操から向けられた冷たい視線と言葉は、その肩に酷く重くのしかかった。信じていた相手から、初めてあんな目を向けられた。劉備は青年ではあるが、まだ少年の域を完全に抜けたわけではない。だから孫堅のように、関羽や張飛のように、簡単に割り切ってしまうことはできなかった。曹操に怒り心頭な孫堅のその横で、劉備はただ絶望するしかなかった。まるで父のように自分を心配してくれた孫堅は、劉備の様子を見てさらに怒りを増した。それは関羽や張飛も同じだった。対峙する曹操の横、董卓との戦いで一時は背中を押してくれた夏候惇や夏侯淵は、その顔からは感情が読み取れなかった。彼らとも、戦わなければならないのだろうか。
そこから、劉備はどうやってレッドタイガーの母艦まで戻ってきたかわからなかった。気が付けば仲間に連れられて曹操たちから離れていた。だけど放たれた言葉が忘れられない。
『お前に何がわかる』
明確な拒絶。自分が子供だから。まだ幼いから、だから曹操を理解することができないというのか。共に戦い、少しは認められたと思っていたのは、勘違いだったのだろうか。拒絶に絶望する劉備の横で、孫堅たちの怒りが増したことにだって、劉備は気が付かなかった。彼らは劉備が失った者であることを知っているから、曹操のその発言に我慢ならず声を荒げていたが、終ぞその声は劉備には届かない。
剣を振るう。仲間に止められても尚、劉備は止まらない。止められない。止まれば今度は涙が溢れてしまう。だけど自分に泣く権利などあるのだろうか。曹操のことさえ理解できない自分が、ただ絶望の淵で泣くことが許されるだろうか。許されるはずがないのだ。だから止まるわけにいかなかった。やめるわけにいかなかった。もっと強く、強くならなければ。また大切なものを、失わないためにも。
「けど、今のお前に必要なのは休息だよ」
「…え」
ふと耳元で聞こえた声を最後に、視界が白く染まる。遠のく意識の中、自分の名前を呼ぶ仲間の声が聞こえた気がした。
「おはよう」
「……えっ」
意識を失った、はずだった。恐らく倒れたはずだ。けれど仰向けに倒れる劉備にはしっかりと意識があり、そしてその視界に自分を見下ろす別の誰かを捉えた。見たことのない人だ、けれど後ろに束ねられた髪が、なんとなく自分と似ている。驚き何も言わない劉備の様子に彼は少し笑って、そして劉備の腕を掴み強引に起き上がらせた。未だ驚いている劉備の前に、彼も同じように座り込む。
「はじめまして、劉備。少し俺と話をしようか」
「…あんたは」
青年は優しく笑う。
「頑張るのは大事だけど、無茶をするのは違うよ。それで仲間に心配をかけたら元も子もないだろ?」
「は、え…な、んで」
「知ってるよ、全部とは言わないけど、少しだけな。本当は干渉するべきじゃあないんだろうけど、見兼ねてつい出しゃばってしまった」
苦笑いする青年は、自分とそこまで変わらない年のように見えた。けれどその表情からでもわかる、恐らく彼は、自分よりもずっと場を踏んできている。戦う姿を見ずともわかる、曹操や孫堅と同じような、強者の雰囲気を纏っている。
「曹操を、理解することは、きっとお前には難しい」
「っ、…でも!」
真っ向からの否定に、その通りだとわかっていても劉備は声を荒げた。無理だと分かっていても、諦めたくはなかったから。
「劉備は、正義の反対にあるのは何だと思う?」
「…そりゃあ、董卓みたいな悪とか」
「ふふ、まあそうだよな。うん、俺もずっと昔は、そう思ってた頃があったよ」
懐かしそうに、青年はまた微笑む。
「でも、違うよ」
「え?」
「正義の反対にあるのは、別の誰かの正義だ」
その言葉と、向けられた強い瞳に劉備は雷に打たれたような感覚を覚えた。正義の反対は、別の誰かの正義。そんなこと、劉備は考えたこともなかった。
「忘れるな。正義の反対は別の誰かの正義だ。誰かの理想の反対は、また別の誰かの理想。勇気の反対にあるのは、別の誰かの勇気。これは、誰かが間違っているとか、正しいとか、そういうのじゃないんだよ、意味はわかるな?」
「…うん」
すとんと、青年の言葉が胸に落ちる。つっかえていた物が取れたような、そんな感覚。小さく頷く劉備に、青年は嬉しそうに笑って頭を撫でた。その手があんまり優しくて、何だか少し泣きそうになる。あたたかい。
「多分お前の正義と、曹操の正義が少し違うだけなんだよ。どっちも何も間違ってない。だけどそれは、言葉で言ったって説得しようとしたってきっと意味がない。その剣を交えて、初めてわかる」
それはつまり、曹操との戦いは避けられないということだろうか。不安そうな顔をしたのだろう、劉備を見て青年は安心させるようにその手をとった。
「大丈夫、お前はさ、曹操の痛みを理解することができないとしても、大切な人を亡くしたという痛みは、わかるだろう?」
「ぁっ、」
それなら、劉備にも痛いほどにわかる。曹操が大事な部下を亡くしたのと同じように、劉備は過去、母と親友を失った。失う痛みならば、劉備にも理解できる。
「だから大丈夫だ。まずはちゃんと休んで、もう一度考えて。きっと分かり合える。だってまだ、みんな生きてる」
できるだろうか、自分に。
「できるよ、だってお前も」
龍の名を継ぐ者なのだから。
そんな青年の言葉を最後に目を覚ます。ゆっくりと起き上がれば、傍で様子を見ていたらしい張飛が少し驚いて、嬉しそうに劉備に抱き着いた。
「劉備!よかった目ぇ覚めたんだな!」
「いたっ、張飛、痛い!」
ひとしきり抱きついて思い出したように孫堅たちを呼んでくると言って走って行ってしまった張飛の背を静かに見送る。あれほど感じていた焦燥感は身を潜め、いっそどこか清々しい気分さえした。さっきまで見ていた夢のおかげだろうか。
「…あれ、どんな夢、見てたっけ」
何故だろう、思い出せないけれど、劉備はもう、自分の力で立ち上がれる気がした。
「…劉備と曹操っていうのは、どの世界でもぶつかり合う運命なのかなぁ」
「どの世界のお前も甘い考えなだけだろう」
劉備が去った後、小さく呟く青年の後ろからまた別の声が響く。青年はその声がすることをわかっていたのか特に驚く素振りも見せず、ゆっくりと立ち上がって振り返る。
「またそういうことを…しょうがないだろ、あっちの世界の俺、まだあんなに子供なんだぞ」
「戦いに年など関係あるものか…だが、まぁ…どうせ同じような結果になるのだろうな、あいつのあの目は」
「なんで?」
「強い意志を宿した目だ。あちらの私は、きっとあれに勝てないだろうな」
その瞳はどこか優しい。そんな様子に青年は嬉しそうに笑った。
「…お前が優しいから、俺が勝てたのと同じみたいに?」
「…勝手に言っていろ、いい加減戻るぞ」
「なんだよ、拗ねたのか?本当のことしか言ってないぞ」
「黙れ」
そんな、違う世界の龍と鳳凰の話。