第75話
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昼休み終了を告げる鐘の音が盛大に鳴る。
にもかかわらず、奴隷達は熱心にホーエンハイムの手元を見ていた。
「『太陽』はこう書く」
ホーエンハイムは地面に木の棒で文字と絵を書き連ねながら、懇切丁寧に文字の読み書きを行っていく。
「こうか?」
「そうそう。これが『月』」
「ねぇ『魚』はどう書くの?」
まだ年端もいかない子供に聞かれて、木の棒をガリガリと走らせる。
「こうだよ。こう書くと『魚を三匹捕まえる』」
ホーエンハイムの隣で覗き込む浅黒い肌の女性が、
「こう?」
真似をするように木の棒を動かす。
人間としての資格をはく奪され、奴隷として買われた彼らにとって教育は必要のないもの。
そこには文字の読み書きも含まれており、既に習得済みのホーエンハイムに憧憬の眼差しを向ける。
「やっぱ読み書きできるってのはいいよな」
「ああ。上の奴らに仕事でごまかされる事も少なくなるしな」
彼らは幼い頃に金で買われ、まともな教育を受ける権利すらなく、ひたすら肉体労働を強いられてきた。
だというのに、二十三号はこの場にいる誰よりも読み書きができている。
「おまえ、いつの間にどこで読み書き覚えたの?」
奴隷の一人が率直な疑問をぶつけると、ホーエンハイムは得意げな笑顔ではぐらかす。
「秘密!」
一通り読み書きを教えたところで、今度は数字の計算。
「明日は二ケタの数字の計算をやろうか」
「おお、頼むぜ!」
その時、昼休み終了を過ぎてもいっこうに戻ってこない奴隷達を見つけた主人が大声で怒鳴りつけた。
「こらーーーー!!こんな所で油売ってたのか、貴様ら!!」
見つかってしまった奴隷達は大慌てで駆け出し、自分達の仕事場へと戻る。
主人は手前にいたホーエンハイムの服を持ち上げ、厳しく問いつめた。
「クズどもめ!メシ抜きにされたいか!」
「うわっ……た!!ご主人、すみません!!」
怒り顔の主人がふと地面に視線を移すと、先程までホーエンハイムが教えた文字がそのままになっていた。
「…おまえ、文字が書けるのか?」
「はぁ…まぁ、読み書き計算はひと通り」
「これは驚いた。そうか……最近、奴隷達に妙な知識が付いたと思ってたが、おまえが教えてたのか」
最近の奴隷達の様子に合点がいき、驚きを露にする主人。
それを見たホーエンハイムは何かを考え込むように無言になると、こんな提案を持ちかけた。
「読み書きだけでなく錬金術もちょっとかじってますよ、ご主人。俺を助手にどうですか?」
そして、ただの奴隷から錬金術の助手と出世したホーエンハイムは錬金術の基本的な実験道具一式が並んでいる研究室にいた。
「『全てのものは一から作り出され、全てのものは一へと帰って行く』」
四方の壁面を錬金術関連書籍が収まった書架で埋め尽くされ、手にしていた本の文面を目で追う。
「『すなわち、一は全』。『一により全があり、一の中に全がある。『一が全を含まなければ全は無なり』』」
奴隷から錬金術の助手へとなった彼の身なりはすっかり変わっていた。
身体の汚れは清められ、粗末な衣服から小奇麗な服装を着ている。
そんなホーエンハイムの様子を、フラスコの中からホムンクルスは観察していた。
<すっかりいっぱしの錬金術師だな、ホーエンハイム>
「まだまだ助手の域を出ないよ。ご主人の腕前にはほど遠い」
<…………>
押し黙るホムンクルスをよそに、ホーエンハイムはぼんやりとページを眺め、口を開く。
「おまえには感謝してるよ」
もう何度目かになる感謝の思いが口からこぼれ、本を開いたまま傍らのテーブルの上に伏せ、フラスコを持って研究室から出た。
研究室を出て、ホーエンハイムとホムンクルスはクセルクセスの閑散とした風景を遠目に眺める。
<何が?>
「知識をくれたおかげで、こうしていい暮らしができてる。奴隷だった頃が懐かしいよ」
夕日に燃え上がる街並みは、あの頃と変わらない。
変わったのは自分だけだ。
ホーエンハイムはこの国に奴隷としてやって来てからの日々を思い出す。
なんと言っても強く思い出されるのは、フラスコの中に入ったホムンクルスとの出会いだ。
<なんの、礼を言うのはこちらの方だ。私がこの世に生まれる事ができたのは、君が血をくれたからだ。言い換えれば親だな>
「まだ家庭を持ってないのにもう子持ちか、俺は」
ホムンクルスから紡がれる真摯な想いに対し、ホーエンハイムは肩を震わせて笑い飛ばす。
ホムンクルスはあからさまに怪訝な声を出した。
<家庭ねぇ…人間は不便だな。そうやってコミュニティーを持って繁殖せねば種を存続できない>
「繁殖とか言うな」
全く、このホムンクルスの言い方は身も蓋もない。
ホーエンハイムは顔をしかめて抗議し、笑い合える仲間や隣で支え合える家族の大切さを告げる。
「おまえから見たらバカバカしいかもしれないけどよ。家族とか仲間とか、そういうものに幸せってのがあったりするんだよ、俺達人間は」
誕生時から知能が高いホムンクルスは人を思いやる気持ちや人を愛する気持ちなどの感情を理解していないようで、間延びした相槌を打つ。
<ふーん。そんなものかねぇ>
「じゃあ、おまえの幸せってなんだ?」
錬金術の実験中に偶然、生まれたホムンクルスはフラスコの中でしか生きられず、限りなく無力に近い存在。
容れ物から出ると死んでしまうそれは、せめてフラスコの中から出られるよう願った。
<そうだな…贅沢は言わないが、まずはこのフラスコから出られる身になれば幸せかな。この容れ物から出ると、私は死んでしまうから>
その時、錬金術の師匠であり奴隷の主人がホーエンハイムの姿を見つけ、叱責する。
「おい!また研究所から連れ出したのか、ホーエンハイム」
ホムンクルスが名付けた"ホーエンハイム"の名前は、彼が錬金術の助手となった時にそれが宣告した。
実際に彼と関わりの深いホムンクルスが使い続け、次第に他の人間の間にも馴染んでいく。
「ホムンクルスに用がある。よこせ」
「すみません」
おずおずといった手つきでフラスコを渡すと、師匠は用件を伝えて踵を返す。
「国王が話があるそうだ」
<ほう?>
その窺うような声をあげて、ホムンクルスは国王の待つ謁見室へと連れていかれた。
(王が?なんだろう?)
一人、残されたホーエンハイムは身体の力を抜くと手摺に寄りかかり、疑問符を浮かべた。
<不老不死?>
天井も壁も見えない、暗闇に包まれた空間に、ホムンクルスの声が響き渡る。
その暗がりからホムンクルスを生み出した錬金術師の他に身分の高い神官がじっと無言のまま、自分を見つめているのがわかった。
鋭利な光を宿す彼らの目は見えたものの、フードをかぶっているせいで相手の顔までは見えなかった。
国王がそれを呼び出した理由は不老不死。
永遠を生きようとする権力者の願いに、溜め息をつく。
<はぁ…どうして権力と栄華を極めた奴はそっちに行くのかねぇ…>
「口を慎め、ホムンクルス。クセルクセス王の御前であるぞ」
「無礼をはたらけば、そのフラスコ叩き割る!」
そんなふうに諌める神官達へ、ホムンクルスは冷静に反論する。
<へぇ、言うねぇ。君達、たまたま偶然この私を造る事ができたのに。ここで私に何かしたら叩き割られるのは君達の頭ではないのか?>
ホムンクルスの指摘に、ぐ…と忌々しげに歯噛みする神官達。
「ムダ話はいい」
すると、上座に座る一人の老人の言葉に、紛糾していた場が静まり返った。
声を発したのは、豪奢な服装に身を包んだ老人であった。
しかし、その顔色は病的なまでに悪く、身体はひどく痩せ細っており、もう長くないことは一目でわかる。
この老人こそ、100万人以上の国民の頂点に立つクセルクセス国王である。
「不老不死、できるのか、できないのか」
どこか切羽詰まった表情で窪んだ目を伏せ、玉座に置く手はブルブルと震えている。
<老いによる焦りか。悲しいね、クセルクセス王>
年を経て身体も弱り、老いによる恐怖を感じている国王の焦りを察したホムンクルスは、にぃっ、と笑った。
<いいよ。不老不死の法を教えてやろう>
数日後、クセルクセス国では大規模な工事が至るところで開始された。
全長何十キロにもなるほど――それでもまだ続く――壕を掘り起こし、多くの人夫 が駆り出された。
「なんの工事だい?でっかいねぇ」
「灌漑 用水路だよ」
通りすがりの老夫婦の疑問に、壕を掘り起こす人夫は笑顔で答える。
「国王の命で国中に水路を張り巡らせてるんだ」
「本当かい。うちの畑も恩恵にあずかれるかな。さすが、クセルクセス王。わしら下々の事もよくお考えだ」
「頑張ってくださいね」
聡明な国王の命令と言われ、
「早くできるといいな」
「あとで差し入れしましょうか」
すっかり信じている老夫婦が去ると、先程までの笑顔は消えた。
どこか気の毒そうに流し目を送り、他の人夫と共に工事を続行する。
皆が寝静まり、掘削の音も途切れた夜遅い時間。
遠くに、馬が蹄 を蹴立てて外を通り過ぎ、眠気が吹き飛ばされた。
夜中に、狭い村の内で馬を飛ばす者などいるはずが――。
再び、意識を喚起させる叫びが、
「わあっ」
「キャアア」
老人の鼓膜を僅か、震わせる。
彼は寝起き特有のぼんやりとした頭で、のそりと起き上がった。
「なんだ、騒がしい」
外の様子を見るべく扉を開けると、そこには灼熱が広がっていた。
轟、と。
周囲のあちこちから炎が渦を巻いて燃え上がり、住居を瞬時に火の海へと変えていく。
そして、馬に跨った謎の集団が闊歩し、逃げ惑う人々を次々と殺していく。
顔の半分を白い布で隠し、見た目から人物の判断をつけるのが難しい。
その時、こちらを覗き込む眼差しに男が振り返った。
「あんた、用水路の……!!」
振り返った拍子に隙間から覗く頬の傷が、昼間に話しかけた人夫だと気づいてしまい、
「ひっ!!」
老夫婦の住居に侵入してきた。
老夫婦は、全身の血が引いていくのを感じた。
「あ……」
「ああ……」
燃え盛る火を受けてぎらりと輝くその刃が、自分達の終わりを告げる。
目撃者を始末した後、男達は油を振り撒いて火を放つ。
一つの村が焼かれていくのを遠目に、男は後ろに控える部隊に指示する。
「一人も逃がすな」
「はい」
地図上に印が刻まれた箇所をまっすぐつながれた錬成陣が描かれた紙を見つめ、淡々と計画を実行する。
「次は……」
村人は粉々の消し炭となり、村は焼け落ちて、なくなった。
その日、国民は早朝から浮き足立ち、騒然としていた。
というのも朝から、とある信じがたい話題で持ちきりだったからだ。
その真偽を考察する国民の議論は、いっこうに収まる気配を見せない。
そして、その話題の尽きぬ内容とは――。
「北のボダス村が一晩で消えたってさ」
「なんで?」
「賊に襲われたんじゃないかって」
「一人残さず殺されて、無残なものだったそうよ」
辺境の集落がまるまる一つ壊滅したというではないか。
起こった悲劇の噂は早くも広がっているらしく、周囲の会話から聞こえる辺境の集落の壊滅に、ホーエンハイムの表情は険しい。
「ひどい話だ。ボダス村が賊にやられて皆殺しだとさ」
<へぇーー。大変だねぇ>
痛ましい表情で消沈するホーエンハイムの言葉に相槌を打つホムンクルス。
フラスコの中、獲物を狙う肉食獣のように息を潜めて。
自身が願うその時を待つ。
永遠不滅の命。
不老不死の呪をホムンクルスから聞いた時、大勢の国民の命を奪うことへの躊躇はしたが……無慈悲に訪れる死を目前にして、国王はホムンクルスの知恵を聞き入れた。
実際には、命には限りがある。
人は誰もが死ぬ。
だが、国王は生への執着から民を犠牲にする選択をした。
「急げ…早く……」
乾いた薄い唇が、用水路の完成を急かす。
両目の下には濃い隈 。
頬も痩せこけて、人相がやつれていた。
どこか狂気じみた表情で、神殿に大きく飾られた大壁画を見つめる。
「早く……!!」
あれから数十年後――用水路に偽装した錬成陣を国土全域に描き、血の紋を刻む――随分、時間がかかった。
その間にも国王の体調は崩れ、ついにはベッドに寝たきり状態となり、弱り切っている。
「陛下。用水路が完成しました」
「念願の錬成陣がこれで……」
ついに用水路が完成したという報 せと共に神官達が歩み寄ると、国王はビクンと跳ね起き、虚ろな目つきを向ける。
「うむ…長かった…ようやくだ」
その全身には年齢を超えた疲労と衰弱の感が強い。
肌は活気が失せてかさつき、以前よりも痩せ細っている。
かつては国民に慕われ、名君として名高かった聡明さを失い、くすんでいた。
「これで良いのだな、ホムンクルスよ」
<問題無い。王は不老不死になれるよ>
「錬成陣に使われた村々の者は気の毒だったが、これで……」
死が自分の身体を際限なく手招きしていく恐怖を感じながら、国王の理性は完全に常軌を逸していた。
そんな国王の言葉に、神官達は笑みを浮かべる。
「聡明な陛下の下、我らクセルクセス国民は永遠の安寧を得る事でしょう」
「さぁ、儀式を始めましょう」
ついに全ての準備が整い、不老不死の儀式を呼びかける。
荘厳な鐘の音が鳴り響き、国王は神殿へと足を踏み入れた。
しかし、今日の神殿は以前と全く異なる姿に変わり果てていた。
床に敷かれた絨毯、四隅に置かれた松明 。
そして、中央に鎮座する杯 状の容れ物。
錬金術師や神官が固唾を呑んで見守る中、国王はナイフで指を軽く切り、容れ物に血を入れる。
「すごいな。国王が不老不死になるんだ」
フラスコを持って待機するホーエンハイムは、隠し切れない興奮を滲ませて世紀の瞬間を見届ける。
この時、錬金術師に弟子入りした青年は歳相応に皺が刻まれ、髭も生えていた。
「世紀の瞬間だ…!!」
ホムンクルスだけが全てを見透かすような、不気味な笑みを浮かべ、その場をニヤニヤと睥睨する。
にもかかわらず、奴隷達は熱心にホーエンハイムの手元を見ていた。
「『太陽』はこう書く」
ホーエンハイムは地面に木の棒で文字と絵を書き連ねながら、懇切丁寧に文字の読み書きを行っていく。
「こうか?」
「そうそう。これが『月』」
「ねぇ『魚』はどう書くの?」
まだ年端もいかない子供に聞かれて、木の棒をガリガリと走らせる。
「こうだよ。こう書くと『魚を三匹捕まえる』」
ホーエンハイムの隣で覗き込む浅黒い肌の女性が、
「こう?」
真似をするように木の棒を動かす。
人間としての資格をはく奪され、奴隷として買われた彼らにとって教育は必要のないもの。
そこには文字の読み書きも含まれており、既に習得済みのホーエンハイムに憧憬の眼差しを向ける。
「やっぱ読み書きできるってのはいいよな」
「ああ。上の奴らに仕事でごまかされる事も少なくなるしな」
彼らは幼い頃に金で買われ、まともな教育を受ける権利すらなく、ひたすら肉体労働を強いられてきた。
だというのに、二十三号はこの場にいる誰よりも読み書きができている。
「おまえ、いつの間にどこで読み書き覚えたの?」
奴隷の一人が率直な疑問をぶつけると、ホーエンハイムは得意げな笑顔ではぐらかす。
「秘密!」
一通り読み書きを教えたところで、今度は数字の計算。
「明日は二ケタの数字の計算をやろうか」
「おお、頼むぜ!」
その時、昼休み終了を過ぎてもいっこうに戻ってこない奴隷達を見つけた主人が大声で怒鳴りつけた。
「こらーーーー!!こんな所で油売ってたのか、貴様ら!!」
見つかってしまった奴隷達は大慌てで駆け出し、自分達の仕事場へと戻る。
主人は手前にいたホーエンハイムの服を持ち上げ、厳しく問いつめた。
「クズどもめ!メシ抜きにされたいか!」
「うわっ……た!!ご主人、すみません!!」
怒り顔の主人がふと地面に視線を移すと、先程までホーエンハイムが教えた文字がそのままになっていた。
「…おまえ、文字が書けるのか?」
「はぁ…まぁ、読み書き計算はひと通り」
「これは驚いた。そうか……最近、奴隷達に妙な知識が付いたと思ってたが、おまえが教えてたのか」
最近の奴隷達の様子に合点がいき、驚きを露にする主人。
それを見たホーエンハイムは何かを考え込むように無言になると、こんな提案を持ちかけた。
「読み書きだけでなく錬金術もちょっとかじってますよ、ご主人。俺を助手にどうですか?」
そして、ただの奴隷から錬金術の助手と出世したホーエンハイムは錬金術の基本的な実験道具一式が並んでいる研究室にいた。
「『全てのものは一から作り出され、全てのものは一へと帰って行く』」
四方の壁面を錬金術関連書籍が収まった書架で埋め尽くされ、手にしていた本の文面を目で追う。
「『すなわち、一は全』。『一により全があり、一の中に全がある。『一が全を含まなければ全は無なり』』」
奴隷から錬金術の助手へとなった彼の身なりはすっかり変わっていた。
身体の汚れは清められ、粗末な衣服から小奇麗な服装を着ている。
そんなホーエンハイムの様子を、フラスコの中からホムンクルスは観察していた。
<すっかりいっぱしの錬金術師だな、ホーエンハイム>
「まだまだ助手の域を出ないよ。ご主人の腕前にはほど遠い」
<…………>
押し黙るホムンクルスをよそに、ホーエンハイムはぼんやりとページを眺め、口を開く。
「おまえには感謝してるよ」
もう何度目かになる感謝の思いが口からこぼれ、本を開いたまま傍らのテーブルの上に伏せ、フラスコを持って研究室から出た。
研究室を出て、ホーエンハイムとホムンクルスはクセルクセスの閑散とした風景を遠目に眺める。
<何が?>
「知識をくれたおかげで、こうしていい暮らしができてる。奴隷だった頃が懐かしいよ」
夕日に燃え上がる街並みは、あの頃と変わらない。
変わったのは自分だけだ。
ホーエンハイムはこの国に奴隷としてやって来てからの日々を思い出す。
なんと言っても強く思い出されるのは、フラスコの中に入ったホムンクルスとの出会いだ。
<なんの、礼を言うのはこちらの方だ。私がこの世に生まれる事ができたのは、君が血をくれたからだ。言い換えれば親だな>
「まだ家庭を持ってないのにもう子持ちか、俺は」
ホムンクルスから紡がれる真摯な想いに対し、ホーエンハイムは肩を震わせて笑い飛ばす。
ホムンクルスはあからさまに怪訝な声を出した。
<家庭ねぇ…人間は不便だな。そうやってコミュニティーを持って繁殖せねば種を存続できない>
「繁殖とか言うな」
全く、このホムンクルスの言い方は身も蓋もない。
ホーエンハイムは顔をしかめて抗議し、笑い合える仲間や隣で支え合える家族の大切さを告げる。
「おまえから見たらバカバカしいかもしれないけどよ。家族とか仲間とか、そういうものに幸せってのがあったりするんだよ、俺達人間は」
誕生時から知能が高いホムンクルスは人を思いやる気持ちや人を愛する気持ちなどの感情を理解していないようで、間延びした相槌を打つ。
<ふーん。そんなものかねぇ>
「じゃあ、おまえの幸せってなんだ?」
錬金術の実験中に偶然、生まれたホムンクルスはフラスコの中でしか生きられず、限りなく無力に近い存在。
容れ物から出ると死んでしまうそれは、せめてフラスコの中から出られるよう願った。
<そうだな…贅沢は言わないが、まずはこのフラスコから出られる身になれば幸せかな。この容れ物から出ると、私は死んでしまうから>
その時、錬金術の師匠であり奴隷の主人がホーエンハイムの姿を見つけ、叱責する。
「おい!また研究所から連れ出したのか、ホーエンハイム」
ホムンクルスが名付けた"ホーエンハイム"の名前は、彼が錬金術の助手となった時にそれが宣告した。
実際に彼と関わりの深いホムンクルスが使い続け、次第に他の人間の間にも馴染んでいく。
「ホムンクルスに用がある。よこせ」
「すみません」
おずおずといった手つきでフラスコを渡すと、師匠は用件を伝えて踵を返す。
「国王が話があるそうだ」
<ほう?>
その窺うような声をあげて、ホムンクルスは国王の待つ謁見室へと連れていかれた。
(王が?なんだろう?)
一人、残されたホーエンハイムは身体の力を抜くと手摺に寄りかかり、疑問符を浮かべた。
<不老不死?>
天井も壁も見えない、暗闇に包まれた空間に、ホムンクルスの声が響き渡る。
その暗がりからホムンクルスを生み出した錬金術師の他に身分の高い神官がじっと無言のまま、自分を見つめているのがわかった。
鋭利な光を宿す彼らの目は見えたものの、フードをかぶっているせいで相手の顔までは見えなかった。
国王がそれを呼び出した理由は不老不死。
永遠を生きようとする権力者の願いに、溜め息をつく。
<はぁ…どうして権力と栄華を極めた奴はそっちに行くのかねぇ…>
「口を慎め、ホムンクルス。クセルクセス王の御前であるぞ」
「無礼をはたらけば、そのフラスコ叩き割る!」
そんなふうに諌める神官達へ、ホムンクルスは冷静に反論する。
<へぇ、言うねぇ。君達、たまたま偶然この私を造る事ができたのに。ここで私に何かしたら叩き割られるのは君達の頭ではないのか?>
ホムンクルスの指摘に、ぐ…と忌々しげに歯噛みする神官達。
「ムダ話はいい」
すると、上座に座る一人の老人の言葉に、紛糾していた場が静まり返った。
声を発したのは、豪奢な服装に身を包んだ老人であった。
しかし、その顔色は病的なまでに悪く、身体はひどく痩せ細っており、もう長くないことは一目でわかる。
この老人こそ、100万人以上の国民の頂点に立つクセルクセス国王である。
「不老不死、できるのか、できないのか」
どこか切羽詰まった表情で窪んだ目を伏せ、玉座に置く手はブルブルと震えている。
<老いによる焦りか。悲しいね、クセルクセス王>
年を経て身体も弱り、老いによる恐怖を感じている国王の焦りを察したホムンクルスは、にぃっ、と笑った。
<いいよ。不老不死の法を教えてやろう>
数日後、クセルクセス国では大規模な工事が至るところで開始された。
全長何十キロにもなるほど――それでもまだ続く――壕を掘り起こし、多くの
「なんの工事だい?でっかいねぇ」
「
通りすがりの老夫婦の疑問に、壕を掘り起こす人夫は笑顔で答える。
「国王の命で国中に水路を張り巡らせてるんだ」
「本当かい。うちの畑も恩恵にあずかれるかな。さすが、クセルクセス王。わしら下々の事もよくお考えだ」
「頑張ってくださいね」
聡明な国王の命令と言われ、
「早くできるといいな」
「あとで差し入れしましょうか」
すっかり信じている老夫婦が去ると、先程までの笑顔は消えた。
どこか気の毒そうに流し目を送り、他の人夫と共に工事を続行する。
皆が寝静まり、掘削の音も途切れた夜遅い時間。
遠くに、馬が
夜中に、狭い村の内で馬を飛ばす者などいるはずが――。
再び、意識を喚起させる叫びが、
「わあっ」
「キャアア」
老人の鼓膜を僅か、震わせる。
彼は寝起き特有のぼんやりとした頭で、のそりと起き上がった。
「なんだ、騒がしい」
外の様子を見るべく扉を開けると、そこには灼熱が広がっていた。
轟、と。
周囲のあちこちから炎が渦を巻いて燃え上がり、住居を瞬時に火の海へと変えていく。
そして、馬に跨った謎の集団が闊歩し、逃げ惑う人々を次々と殺していく。
顔の半分を白い布で隠し、見た目から人物の判断をつけるのが難しい。
その時、こちらを覗き込む眼差しに男が振り返った。
「あんた、用水路の……!!」
振り返った拍子に隙間から覗く頬の傷が、昼間に話しかけた人夫だと気づいてしまい、
「ひっ!!」
老夫婦の住居に侵入してきた。
老夫婦は、全身の血が引いていくのを感じた。
「あ……」
「ああ……」
燃え盛る火を受けてぎらりと輝くその刃が、自分達の終わりを告げる。
目撃者を始末した後、男達は油を振り撒いて火を放つ。
一つの村が焼かれていくのを遠目に、男は後ろに控える部隊に指示する。
「一人も逃がすな」
「はい」
地図上に印が刻まれた箇所をまっすぐつながれた錬成陣が描かれた紙を見つめ、淡々と計画を実行する。
「次は……」
村人は粉々の消し炭となり、村は焼け落ちて、なくなった。
その日、国民は早朝から浮き足立ち、騒然としていた。
というのも朝から、とある信じがたい話題で持ちきりだったからだ。
その真偽を考察する国民の議論は、いっこうに収まる気配を見せない。
そして、その話題の尽きぬ内容とは――。
「北のボダス村が一晩で消えたってさ」
「なんで?」
「賊に襲われたんじゃないかって」
「一人残さず殺されて、無残なものだったそうよ」
辺境の集落がまるまる一つ壊滅したというではないか。
起こった悲劇の噂は早くも広がっているらしく、周囲の会話から聞こえる辺境の集落の壊滅に、ホーエンハイムの表情は険しい。
「ひどい話だ。ボダス村が賊にやられて皆殺しだとさ」
<へぇーー。大変だねぇ>
痛ましい表情で消沈するホーエンハイムの言葉に相槌を打つホムンクルス。
フラスコの中、獲物を狙う肉食獣のように息を潜めて。
自身が願うその時を待つ。
永遠不滅の命。
不老不死の呪をホムンクルスから聞いた時、大勢の国民の命を奪うことへの躊躇はしたが……無慈悲に訪れる死を目前にして、国王はホムンクルスの知恵を聞き入れた。
実際には、命には限りがある。
人は誰もが死ぬ。
だが、国王は生への執着から民を犠牲にする選択をした。
「急げ…早く……」
乾いた薄い唇が、用水路の完成を急かす。
両目の下には濃い
頬も痩せこけて、人相がやつれていた。
どこか狂気じみた表情で、神殿に大きく飾られた大壁画を見つめる。
「早く……!!」
あれから数十年後――用水路に偽装した錬成陣を国土全域に描き、血の紋を刻む――随分、時間がかかった。
その間にも国王の体調は崩れ、ついにはベッドに寝たきり状態となり、弱り切っている。
「陛下。用水路が完成しました」
「念願の錬成陣がこれで……」
ついに用水路が完成したという
「うむ…長かった…ようやくだ」
その全身には年齢を超えた疲労と衰弱の感が強い。
肌は活気が失せてかさつき、以前よりも痩せ細っている。
かつては国民に慕われ、名君として名高かった聡明さを失い、くすんでいた。
「これで良いのだな、ホムンクルスよ」
<問題無い。王は不老不死になれるよ>
「錬成陣に使われた村々の者は気の毒だったが、これで……」
死が自分の身体を際限なく手招きしていく恐怖を感じながら、国王の理性は完全に常軌を逸していた。
そんな国王の言葉に、神官達は笑みを浮かべる。
「聡明な陛下の下、我らクセルクセス国民は永遠の安寧を得る事でしょう」
「さぁ、儀式を始めましょう」
ついに全ての準備が整い、不老不死の儀式を呼びかける。
荘厳な鐘の音が鳴り響き、国王は神殿へと足を踏み入れた。
しかし、今日の神殿は以前と全く異なる姿に変わり果てていた。
床に敷かれた絨毯、四隅に置かれた
そして、中央に鎮座する
錬金術師や神官が固唾を呑んで見守る中、国王はナイフで指を軽く切り、容れ物に血を入れる。
「すごいな。国王が不老不死になるんだ」
フラスコを持って待機するホーエンハイムは、隠し切れない興奮を滲ませて世紀の瞬間を見届ける。
この時、錬金術師に弟子入りした青年は歳相応に皺が刻まれ、髭も生えていた。
「世紀の瞬間だ…!!」
ホムンクルスだけが全てを見透かすような、不気味な笑みを浮かべ、その場をニヤニヤと睥睨する。