最適化令嬢
第3話
『結納品』
ソルフィア暦1281年冬。ソルフィア王国首都エルレクサ、王立研究所。ヴェルメ・リガーゼは、執務机の前で一通の極秘通信文を眺めていた。差出人は、カレントリア王国王政技術顧問ソルダ・サイリスタ。宛先は、ソルフィア王国国王シェライト・エレム・ソルフィア陛下。
「陛下宛の親書が、なぜ私の机に」ヴェルメは眉をひそめた。
封蝋は破られておらず、シェライトの目にはまだ触れていない。つまり、これは事前検閲を経ている。彼は通信文を手に取り、王宮フェロナイト宮へと向かった。
◇
フェロナイト宮の謁見室。シェライトは玉座に座り、ヴェルメが差し出した通信文を受け取った。
「カレントリアの技術顧問から?」彼は封蝋を破った。「壁で封鎖した敵国から、何の用だ」
「内容は確認しておりません」ヴェルメは静かに答えた。「ただ、外交暗号による極秘ルートで届いたものです」
シェライトは通信文を読み始めた。そして、彼の紫紺の瞳が僅かに揺れた。「なんだと」彼は呟いた。「ヒノノギの、失われた7ヶ月間の映像データ?」
ヴェルメは表情を変えずに尋ねた。「陛下、内容は?」
「ソルダが、取引を持ちかけてきた」シェライトは通信文を握りしめた。「1280年、ヒノノギがカレントリアで研修を受けていた際の監視カメラ映像。特に、6月の中央整備工場での実地研修中、つなぎ姿で猫と戯れている超高画質映像データを、私に提供すると言っている」
ヴェルメは内心で驚愕した。「陛下、それは」
「見返りは」シェライトは通信文を読み続けた。「ゼルフィア特区ソレラント公国の令嬢、リミッタ・エラスタンス・ソレラントを、彼の甥トランス・サイリスタの妻として迎える特例承認書へのサイン、だと」
ヴェルメは冷静に状況を整理した。「つまり、陛下が特区の貴族を敵国に嫁がせることを承認する見返りに、ヒノノギ氏の映像データを提供する、と」
「そうだ」シェライトは通信文を机に置いた。「馬鹿げている。一介の技術顧問が、国家間の婚姻など。カレントリアの国政を動かしているのは、保守派の『摂政評議会』のはずだぞ」
「表向きは、そうです」ヴェルメは静かに指摘した。「しかし、我が国の情報部によれば、現在のカレントリアにおいて摂政評議会は単なる舞台装置に過ぎません。若きヴォルティス王は『Let It Flow』の哲学で実務のすべてを最適化し、その結果……」
ヴェルメは眼鏡を指で押し上げた。「全ての国家予算、インフラ計画、外交文書の裏の決済を、このソルダ・サイリスタという男が一人で回しているとのこと。彼はただの技術顧問ではありません。カレントリアの血流を完全に掌握している『影の宰相』です」
シェライトの紫紺の瞳が、再び通信文へと落とされた。「……つまり、この裏取引は、カレントリアという国家の『実体』からの直接交渉ということか」
彼は玉座の肘掛けを指で叩いた。「だが、なぜ今この取引を?カレントリアとソルフィアは、壁で完全に断絶している。なぜ敵国の令嬢を、わざわざ引き入れる必要がある」
「記録によれば、ソルダ氏の甥トランス・サイリスタは、来年で20歳。カレントリアの成人年齢です」ヴェルメは手帳を開いた。「ソルダ氏には『回路は流れる前に設計を完了させておかねばならない』という技術者としての哲学があるとか」
「つまり」シェライトは目を細めた。「甥が成人する前に、最高の妻を確保しておきたい、ということか」
「おそらく」ヴェルメは頷いた。「リミッタ嬢は、ソレラント公国エラスタンス家の令嬢。『制御・復元・最適化』の天才と聞きます。ソルダ氏にとって、彼女はサイリスタ家という電気回路に組み込むべき最高の『最適化装置』なのでしょう」
シェライトは深呼吸をした。「だが、見返りがヒノノギの映像データとは」彼は通信文を再び手に取った。
「しかも、つなぎ姿で猫と戯れている姿だと?」
「陛下」ヴェルメは静かに言った。「この取引、お受けになるおつもりですか?」
シェライトは沈黙した。彼の脳裏に、ヒノノギの姿が浮かんだ。失われた7ヶ月間。1280年4月から11月まで、ヒノノギがカレントリアで過ごした時間。その間の詳細な映像は、シェライトの手元には一切ない。そして今、その映像が目の前にぶら下がっている。
「陛下」ヴェルメは再び声をかけた。「冷静に判断なさってください。これは明らかに、ソルダ氏の策略です」
「分かっている」シェライトは呟いた。「だが」
彼の瞳が揺れた。つなぎ姿のヒノノギ。猫と戯れる姿。その映像が、今、自分の決断一つで手に入る。
「ゼルフィアの令嬢一人で、この記録が得られるならば」シェライトは呟いた。「ソレラント公国など、特区の片隅の小国だ。リミッタという娘がどれほど優秀だろうと、所詮は他国に嫁ぐだけ。私の支配下から離れるだけだ」
ヴェルメは内心で警告を発した。「陛下、しかし」
「ヴェルメ」シェライトは立ち上がった。「ソルダに返信を送れ。『取引を受け入れる。映像データを先に提供せよ。確認後、特例承認書にサインする』と」
ヴェルメは静かに頷いた。「承知いたしました」
彼は手帳に記録を書き込んだ。「ソルフィア暦1281年12月15日。シェライト陛下、カレントリア王政技術顧問ソルダ・サイリスタとの極秘取引を承認。見返り:ヒノノギ氏の映像データ。代償:ゼルフィア特区貴族の敵国への婚姻承認」
◇
ソルフィア暦1282年1月。カレントリア王国、王政技術顧問局。ソルダ・サイリスタは、外交暗号通信で届いたシェライトの返信を読み、眼鏡の奥の目を細めた。
「釣れたな」彼は呟いた。執務室の奥では、弟ダラフ・サイリスタが書類を整理していた。
「兄上」ダラフは冷静に尋ねた。「本当に、あの映像データを渡すのですか?」
「ああ」ソルダは頷いた。「1280年の研修記録、特に6月の整備工場での監視カメラ映像。ヒノノギ氏がつなぎ姿で公用車を修理し、迷い込んだ猫を抱き上げている超高画質映像だ」
彼は満足げに続けた。「シェライトにとっては、垂涎の一品だろう」
「しかし」ダラフは眉をひそめた。「それは我が国の監視記録です。敵国の王に渡すなど」
「国益は損ねていない」ソルダは即座に答えた。「あれはただの研修記録だ。技術情報は一切含まれていない。ただ、ヒノノギ氏が猫と戯れているだけの映像だ」
彼は眼鏡を押し上げた。「それと引き換えに、私はゼルフィア特区最高の頭脳を手に入れる」
ダラフは深く息をついた。「リミッタ・エラスタンス・ソレラント嬢、ですか」
「そうだ」ソルダは立ち上がった。「エラスタンス家は『制御・復元・最適化』を司る一族。彼女は16歳にして、複雑な電気回路の設計図を一目で理解し、最適化案を提示できる天才だ」
彼は窓の外を見つめた。「トランスが成人する前に、彼には最高の制御回路が必要だ。サイリスタ家という電気回路を、完璧に機能させるために」
「兄上の計算は理解しました」ダラフは静かに言った。「しかし、シェライト陛下が後で気づいたら」
「気づく頃には遅い」ソルダは冷笑した。「リミッタ嬢は既にカレントリアに嫁いでいる。そして、彼女の能力を知った時、シェライトは自分がどれほど愚かな取引をしたか理解するだろう」
◇
ソルフィア暦1282年2月。ソルフィア王宮フェロナイト宮、シェライトの私室。
シェライトは、ソルダから送られてきた映像データを再生していた。画面には、つなぎ姿のヒノノギが公用車のエンジンルームを覗き込み、工具を手に作業している姿が映っていた。そして、整備工場に迷い込んだ一匹の猫が、ヒノノギの足元に近づく。
ヒノノギは作業を止め、猫を抱き上げた。猫は彼の腕の中で大人しくしている。ヒノノギは僅かに微笑み、猫の頭を撫でた。
シェライトは画面を凝視した。彼の紫紺の瞳が、深紅に変わった。
「これは」彼は呟いた。「なんという」
映像は続いた。ヒノノギが猫を抱いたまま、同僚の整備士と会話している。つなぎ姿。無防備な笑顔。猫を撫でる手つき。すべてが、シェライトの知らないヒノノギだった。
「ソルダめ」シェライトは呟いた。「こんな映像を、よくも隠し持っていたな」
彼は映像を一時停止し、ヒノノギが猫を抱く瞬間を凝視した。そして、机の引き出しから特例承認書を取り出した。
「ゼルフィアの令嬢一人で済むなら、安いものだ」シェライトは呟いた。
彼はペンを取り、特例承認書にサインした。「リミッタ・エラスタンス・ソレラント、カレントリア王国サイリスタ家への婚姻、特例承認」。彼の署名と、王の紋章が文書に刻まれた。
◇
翌日、ヴェルメがシェライトの執務室を訪れた際、彼は机の上に置かれた特例承認書を見つけた。
「陛下」ヴェルメは静かに尋ねた。「既に、サインなさったのですか」
「ああ」シェライトは答えた。「映像は確認した。ソルダとの取引は成立だ」
ヴェルメは手帳を開き、淡々と記録を書き込んだ。「ソルフィア暦1282年2月20日。シェライト陛下、ゼルフィア特区ソレラント公国エラスタンス家令嬢リミッタの、カレントリア王国サイリスタ家への婚姻を特例承認。見返りとして受領:ヒノノギ氏のつなぎ姿映像データ」
彼はペンを止め、内心で呟いた。「陛下、推し活で外交を」
シェライトはヴェルメの視線に気づいた。「何か言いたそうだな」
「いいえ」ヴェルメは微笑んだ。「ただ、陛下のご決断が、カレントリアに最強の制御回路を送り込む結果になるかもしれない、と思っただけです」
「制御回路?」シェライトは眉をひそめた。「たかが16歳の令嬢だ。どれほど優秀だろうと、所詮は一人の人間に過ぎん」
「そうでしょうか」ヴェルメは手帳を閉じた。
「エラスタンス家は、記録・統治・秩序を司る一族です。リミッタ嬢は、その一族の『制御・復元・最適化』を担う存在」彼は続けた。「もし彼女がソルダ氏の推し活と国家戦略を完璧に捌く補佐官になれば、カレントリアの実務能力は飛躍的に向上するでしょう」
シェライトは沈黙した。そして、机の上の映像データを見つめた。つなぎ姿のヒノノギ。猫を抱く姿。その映像が、今、自分の手元にある。
「構わん」シェライトは呟いた。「この映像が手に入れば、それでいい」
ヴェルメは一礼し、執務室を出た。廊下を歩きながら、彼は手帳に追記した。「観測結果:シェライト陛下、推しの映像に完全に目が眩み、敵国に最強の人材を送り込む愚を犯す。後年、この取引が陛下自身に特大のブーメランとして返ってくる可能性、極めて高し」
◇
ソルフィア暦1282年3月。カレントリア王国、王政技術顧問局。
ソルダは、シェライトから送られてきた特例承認書を手に、満足げに微笑んだ。「完璧だ」彼は呟いた。「シェライトめ、推し活に目が眩んで、最高の才能を手放した」
ダラフは兄の背後で溜息をついた。「兄上、これは本当に正しい取引だったのですか?」
「正しいさ」ソルダは振り向いた。「私は推しのデータを売ったが、推しそのものは売っていない。カレントリアの国益も損ねていない。そして、甥っ子には最高の妻を確保した」
彼は眼鏡を押し上げた。「これ以上の取引があるか?」
ダラフは首を横に振った。「兄上には、敵いません」
ソルダは窓の外を見つめた。「リミッタ嬢、来月にはこちらに到着する」
彼は呟いた。「トランス、お前の人生に最高の制御回路が組み込まれる。楽しみにしていてくれ」
春の風が、窓から吹き込んできた。ソルダの手元には、シェライト王の紋章が押された特例承認書があった。そして、その承認書が、16歳の令嬢リミッタの運命を、ソレラント公国からカレントリアへと変えようとしていた。
推し活ロンダリング。敵国の王を推しの映像で釣り、最強の人材を手に入れる。それが、ソルダ・サイリスタという男の、老獪な外交術だった。
