磁場のない教室で



磁場のない教室で ―寮名改変編―

入学式の一週間前、ソルフィア中央統合高等学校の職員室は緊張感に包まれていた。テーブルを挟んで二人の人物が向かい合っている。片方は王族の威厳を纏ったシェライト・エレム・ソルフィア、もう片方は寮の長年の管理者であるラインハルト・フォルガー寮監だ。

「繰り返しますが、シェライト殿下」フォルガー寮監は眼鏡の奥の目を細めながら言った。「『セントラル・レジデンス』は創立以来60年の歴史を持つ名門寮です。突然の改名は前例もなく、手続き的にも…」

「前例?」シェライトは椅子に深く腰掛け、余裕の表情を浮かべた。「私自身が前例となる。ソルフィア王国初の王子が通う寮だという前例を作るのだ」

フォルガー寮監は額の汗を拭った。シェライトが通常の高校生活を送ることを決めたことは既に大きな波紋を呼んでいた。王族専用の教育プログラムを拒否し、一般学生と同じ環境で学ぶと宣言したのだ。だがそれだけでは飽き足らず、今度は寮の名前まで変えようとしている。

「殿下、『フェロマグネット・レジデンス』という名称は…あまりにも…」

「あまりにも何だ?」シェライトの声が冷たくなった。

「あまりにも…特定の学問分野に偏っています。本校は総合校でして、文系の学生も多数…」

「人生は磁場だ、フォルガー」シェライトが遮った。「すべての才能ある学生が、私の磁場によって最高の軌道を描く。それがこの寮の使命だ」

フォルガー寮監は首を振った。「理事会の承認なしに寮名を変更することはできません。手続きだけでも3ヶ月は…」

「3ヶ月?」シェライトは軽蔑するように笑った。「私が必要としているのは3日だ」

「しかし校則では…」

「校則?」シェライトは立ち上がると、窓辺に歩み寄った。「校則第17条、例外条項を読んだことがあるか?」

フォルガー寮監は口を開いたが、言葉が出なかった。

「『特別な状況下において、理事会が速やかに召集できない場合、学校の発展に寄与する緊急措置は、校長および関係部署の責任者の承認を得ることで暫定的に実施できる』」シェライトは暗唱した。「そして今、状況は特別だ。ヒノノギ・レーゼシュライツが入学するからな」

「ヒノノギ…?あの量子光学の…?」

「そう、彼だ」シェライトの目が輝いた。「彼のためにこの寮は最高の環境でなければならない。彼は私の磁場の中で最高の軌道を描くべき存在だ」

フォルガー寮監はますます混乱した。「ですが、一生徒のために寮名を…」

「一生徒ではない」シェライトの声にはこれ以上の反論を許さない響きがあった。「未来のソルフィア王国を支える天才だ。そして彼の才能は私の磁場によって初めて開花する」

「殿下、理事会の許可なしに…」

そのとき、ドアがノックされ、学校の事務局長が入ってきた。

「失礼します。シェライト殿下、校長がお呼びです」

シェライトは満足げに微笑んだ。「ちょうどいい。校長と話をしよう」

フォルガー寮監は最後の抵抗を試みた。「殿下、伝統ある寮の名前を変えることは…」

「伝統?」シェライトは寮監に向き直った。「私はこれから新しい伝統を作る。ヒノノギとともに」

その夜、フォルガー寮監は自室で頭を抱えていた。机の上には新しい寮のロゴ入りの書類が積まれている。どうしてこんなことになったのか。数時間前までは想像もできなかった展開だった。

翌朝、職員室での会議。

「決定事項の確認を」校長が静かに言った。

「はい」ヴェルメ・リガーゼが立ち上がった。彼は三年生ながら、学生理事として会議に参加していた。「校則第17条の例外条項に基づき、セントラル・レジデンスは今日よりフェロマグネット・レジデンスと改称されます。これに伴い、寮のロゴ、備品、書類等も順次変更されます」

フォルガー寮監は言葉を失った。昨日の夕方、校長室からの緊急召集があり、気づけば全てが決まっていた。シェライトは校長を説得しただけでなく、学生理事のヴェルメまで味方につけていたのだ。

「異議はありますか?」校長は寮監を見た。

フォルガー寮監は口を開こうとしたが、シェライトとヴェルメの視線を感じ、言葉を飲み込んだ。

「…ありません」

「素晴らしい」シェライトは満足げに言った。「では今日から、フェロマグネット・レジデンスの新時代の幕開けだ」

会議後、廊下でフォルガー寮監がヴェルメに声をかけた。

「君は分かっていないんだ、リガーゼ君。シェライト殿下の『磁場』というのは、単なる科学的な概念ではない。彼は…」

「私は十分理解しています、フォルガー先生」ヴェルメは穏やかに微笑んだ。「彼の『磁場』とは、才能を引き寄せ、最適な軌道で動かす力のこと。特にヒノノギ・レーゼシュライツという電子のために用意された磁場です」

フォルガー寮監は驚いた。「君も…?」

「私も彼の磁場の一部です」ヴェルメは眼鏡を押し上げた。「彼の計画は、単なる名前変更よりもはるかに壮大なものですよ」

フォルガー寮監はその場に立ち尽くした。何かが始まろうとしている。そして自分にはそれを止める力はない。

入学式前日、ヒノノギ・レーゼシュライツは初めて寮の前に立った。

「フェロマグネット・レジデンス…?」彼は首を傾げた。「なんだか物理っぽい名前だな…」

彼は肩をすくめて入口に向かった。名前なんて、どうでもいいことだ。ここでの3年間、静かに研究に打ち込めればそれでいい。

しかしヒノノギは知らなかった。彼がこの寮に足を踏み入れた瞬間から、シェライトの「磁場」の中を回る「電子」としての運命が始まることを。

入口の向こうでは、すでにシェライトが待ち構えていた。

「ようこそ、ヒノノギ・レーゼシュライツ。ここが君の新しい軌道の始まりだ」


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