磁場のない教室で
磁場のない教室で ―シェライトのルール編―
新入生歓迎会の喧騒が遠のいた夕刻、ヒノノギは半ば強制的にシェライトの部屋に連れてこられていた。一般学生の寮室とは思えない広さと豪華さに、ヒノノギは言葉を失った。
「どうだ、我が居城は」シェライトは満足げに腕を広げた。
それは確かに「部屋」というよりは「居城」だった。天井は高く、床は艶やかな木材で、窓は床から天井まで伸びる大きなガラス窓で、カーテンは王家の紋章が刺繍された重厚な深紅のベルベット。そして部屋の中央には、白いテーブルクロスをかけた豪華なテーブルが用意されていた。
「これが『新入生歓迎会』?」ヒノノギは眉をひそめた。
テーブルの上には、寮食としては考えられない料理の数々が並んでいた。ローストビーフ、キャビア添えのブリニ、トリュフ風味のリゾット、そして高級シャンパンに見間違うような泡立つ飲み物(未成年のための代用品だろう)。
「シェライト版歓迎会だ」シェライトはグラスを掲げた。「通常の歓迎会は庶民のためのもの。君には特別な歓迎が相応しい」
部屋の片隅のソファでは、ヴェルメ・リガーゼが穏やかな微笑みを浮かべながら本を読んでいた。彼はシェライトの「家庭教師」という立場で同席しているらしいが、その実態はヒノノギには掴めなかった。
「さあ、座れ」シェライトはテーブルの前の椅子を示した。「私がお前をこの学校の新たな『磁場』に迎え入れる儀式を始めよう」
ヒノノギは渋々席に着いた。逃げても無駄だと悟っていた。
「素晴らしい料理ですね」ヒノノギは会話を逸らす意図で言った。「学校の食堂とは思えません」
「当然だ」シェライトは高らかに答えた。「王宮から特別に取り寄せた。シェフも君のために特別メニューを考案したのだぞ」
ヴェルメがソファから立ち上がり、静かにテーブルに近づいてきた。彼は一杯のお茶を手に取りながら、二人の会話を観察しているようだった。
「では、歓迎会の本題に入ろう」
シェライトは立ち上がり、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。それを丁寧に広げると、美しいカリグラフィーで何かが書かれていた。
「これが『シェライトの10大ルール』だ。お前がこの学校で私と共に過ごすための基本原則だ」
ヒノノギは警戒心を強めた。シェライトがこのような「ルール」を用意していたことは、彼の「計画性」を示していた。
「第一条」シェライトは朗々と読み上げ始めた。「ヒノノギ・レーゼシュライツは、シェライト・エレム・ソルフィアを主君と認め、その命令に従うものとする」
「え?」ヒノノギは思わず声を上げた。
「第二条」シェライトは無視して続けた。「ヒノノギの研究活動はすべてシェライトの監督下で行われ、その成果は共同名義とする」
「ちょっと待ってください」
「第三条、ヒノノギの外出には事前にシェライトの許可を得ること。平日の門限は19時、休日は20時とする」
「そんな理不尽な…」
「第四条、ヒノノギはシェライトの要請があれば、いかなる時間帯でも実験や研究の補助を行う義務を負う」
「義務?」
「第五条、ヒノノギの交友関係はシェライトの承認を受けること。特に他校の学生との接触は厳に禁ずる」
「冗談ですよね?」ヒノノギの声が張り詰めてきた。
「第六条、ヒノノギは週に一度、自身の研究進捗をシェライトに報告する義務を負う」
「もういい加減に…」
「第七条、ヒノノギが私的に行う実験はすべて事前にシェライトに申告し、承認を得ること」
「これは完全に越権行為です!」
「第八条、ヒノノギのスケジュールはシェライトの予定を最優先とすること」
「ありえません!」
「第九条、ヒノノギはシェライトの名誉を傷つける言動を慎むこと」
「はあ?」
「そして第十条」シェライトは満足げに紙を掲げた。「これらのルールに違反した場合、ヒノノギは『磁場調整』と称する特別指導を受けるものとする」
シェライトは読み終えると、紙をテーブルに置き、ペンをヒノノギに差し出した。
「さあ、署名しろ」
ヒノノギは立ち上がった。彼の手は震えていたが、その目は決意に満ちていた。
「私は署名しません」
部屋が静まり返った。シェライトの表情が一瞬凍りついた。
「何だと?」
「これらのルールには法的根拠も倫理的正当性もありません」ヒノノギは冷静に言った。「私はあなたのペットではありませんし、奴隷でもありません。私は自分の研究と時間を自分でコントロールする権利があります」
シェライトの目が危険な光を放った。「お前、私に反抗しているのか?」
「反抗ではありません。基本的人権の主張です」
ヒノノギは震える足を踏ん張らせた。祖父から教わった「王族に対しても毅然とせよ」という教えを思い出していた。
「面白い」シェライトが低く笑った。「自由電子は確かに自由に動きたがる。だが忘れるな、ヒノノギ。この学校での君の全ての特権は私が与えているものだ」
「それは違います。私はソルフィア中央統合高等学校の入学試験に合格して入学しました。あなたの『恩恵』ではありません」
「そうか?」シェライトが一歩近づいた。「では教えてやろう。お前の入学許可書に署名したのは誰だと思う?」
ヒノノギは言葉に詰まった。
「私だ」シェライトが勝ち誇ったように言った。「この学校の運営委員会の筆頭として。お前の入学も、お前の実験室の使用権も、すべて私の一筆で取り消すことができる」
「それは...権力の乱用です」
「権力?」シェライトが笑った。「これは単なる現実だ。強い磁場は弱い電子を引き寄せる。それが物理法則だろう?」
ヒノノギは握りしめた拳を震わせた。「だとしても、私は署名しません」
シェライトは眉をひそめた。「承知しているのか?このルールを拒否すれば、君の学校生活は非常に...困難になる」
「それでもいいです」
沈黙が流れた。ヴェルメが静かに咳払いをした。
「シェライト殿下」ヴェルメが穏やかに言った。「彼にはまだ時間が必要なのかもしれません。磁場の形成には段階があるものです」
シェライトはヴェルメを見つめ、何かを考えているようだった。
「なるほど」彼はゆっくりと頷いた。「焦りすぎたか」
シェライトはテーブルの上の紙を取り上げ、丁寧に折りたたんだ。
「ヒノノギ」彼は不思議と穏やかな声で言った。「今日のところはこの話はここまでにしよう。だが覚えておけ。お前はいずれ私の磁場の中で最も美しい軌道を描くことになる」
シェライトはグラスを掲げた。「乾杯しよう。新入生歓迎に」
ヒノノギは戸惑いながらもグラスを取り上げた。勝ったのか負けたのか、判断がつかなかった。
ヴェルメはテーブルに近づき、自分のグラスも掲げた。彼の表情は穏やかだったが、その瞳の奥には計算高い光が宿っていた。
「新入生歓迎に」三人は声をそろえた。
グラスを口に運びながら、ヒノノギの頭には一つの疑問が渦巻いていた。
シェライトは本当に「ルール」を諦めたのか?それとも単に戦略を変えただけなのか?
ヴェルメの静かな微笑みが、その答えを知っているようだった。
