磁場のない教室で
磁場のない教室で ―実験パートナー編―
物理実験棟の実習室は、入り口までがらんとしていたのに教室の中は人でいっぱいだった。入室した瞬間、ヒノノギの背筋に悪寒が走った。シェライトは教室のどこにいるのか。
幸いにも、彼は一番前の席におらず、後方の窓際で側近のような生徒たちと談笑していた。ヒノノギは安堵のため息をつき、目立たない中央付近の席に腰を下ろした。
「みなさん、席について」
トレヴァリス教授の声が響き、学生たちが素早く着席した。50代半ばの物理学者で、頑固だが公正な教師として知られていた。
「今日から始まる磁気光学効果の実験では、二人一組のペアで作業してもらう」トレヴァリス教授は黒板に『ファラデー効果』と書きながら説明した。「全10回の実習を通して、磁場と光の相互作用を観察し、データを分析してもらう」
ヒノノギの心臓が早鐘を打ち始めた。二人一組。シェライトの言葉が脳裏に浮かぶ。
「パートナー選びは公平に行いたい」トレヴァリス教授は小さな箱を取り出し、振ってみせた。「中には学籍番号を書いた紙が入っている。順番に二人ずつ引いてもらい、パートナーを決定する」
教室から安堵の小さな息が漏れた。公平なくじ引き。これならシェライトでも文句は言えないだろう。
「それでは前から順に—」
「教授」
冷たく澄んだ声が教室を支配した。シェライトが立ち上がり、優雅に一歩前へ出た。
「その方法は時間の無駄ではありませんか?」
「どういうことかな、シェライト君?」トレヴァリス教授は眉をひそめた。
「わたくしは既にパートナーを決めています」シェライトはまるで当然のことを言うように続けた。「ヒノノギ・レーゼシュライツと組みます」
教室が水を打ったように静まり返った。ヒノノギは凍りついたように硬直した。
「しかし、シェライト君」トレヴァリス教授は箱を指さした。「今日は公平なくじ引きで—」
「トレヴァリス教授」シェライトが穏やかに微笑んだ。「私とヒノノギは既に研究計画を立てています。光子と磁場の相互作用という、まさにこの実験のテーマに沿った内容です」
「それは結構だが、規則は—」
「規則?」シェライトの声が少し冷たくなった。「教授はもちろん、『ソルフィア中央統合高等学校設立宣言』の第7条をご存知ですよね?」
トレヴァリス教授の顔が強張った。
「『特に才能ある生徒の研究活動を最大限に支援し、既存のカリキュラムに柔軟な対応を行う』」シェライトはまるで暗記していたかのように引用した。「私とヒノノギの組み合わせは、まさにこの条項の実現ではありませんか?」
教室中の学生たちがこの攻防を固唾を呑んで見守っていた。
「さらに言えば」シェライトは続けた。「父…王は先日、この学校の実験設備の拡充に関する援助を検討していると聞いています。私たちの研究成果が王立科学賞を受賞すれば、さらなる支援も期待できるでしょう」
トレヴァリス教授の表情が揺らいだ。ヒノノギはこの機を逃すまいと立ち上がった。
「あの、トレヴァリス教授」彼は震える声で言った。「私は公平なくじ引きに参加したいと思います」
教室がざわめいた。シェライトの目が危険な光を放った。
「トレヴァリス教授」シェライトは声のトーンを変えずに続けた。「ヒノノギは謙虚な性格なので遠慮しているだけです。彼の量子光学の論文と私の磁場理論の組み合わせは、この実験にとって最適な条件を生み出します」
トレヴァリス教授は困惑した表情でヒノノギを見た。「レーゼシュライツ君、本当はどうしたい?」
ヒノノギが口を開こうとした瞬間、シェライトの目が彼を射抜いた。さあ、選べ。自由電子よ。その目はそう語りかけていた。
「私は…その…」
「ヒノノギ」シェライトの声は教室中に響いたが、その実はヒノノギにだけ聞こえるような錯覚を起こした。「我々の研究計画を説明してみるか?」
ヒノノギは喉が乾いたように感じた。シェライトが昨日話していた「王立科学賞」の響きが頭に戻ってきた。
「その…確かにシェライトさんと計画を立てていました。光子偏向と磁場の…」
トレヴァリス教授はため息をついた。「わかった。シェライト君とレーゼシュライツ君はペアとして認める。他の生徒はくじ引きで決定する」
シェライトの顔に勝利の笑みが広がった。ヒノノギは再び席に座り、肩を落とした。
「幸運だったな」
ヒノノギの背後でシェライトの声がささやいた。彼がいつの間に席を移動したのか、ヒノノギには気づけなかった。
「これで我々の研究は正式に始まる。光と磁場の出会いだ」
シェライトの指がヒノノギの肩に触れた。その接触は軽かったが、まるで重い鉄の鎖を掛けられたような感覚だった。
教室の他の生徒たちはくじ引きに集中しているようだったが、ヒノノギはちらりと周囲を見渡した。誰も彼らを見ていないように見えたが、生徒たちの緊張した背中が物語っていた。みな、シェライトの威圧感を感じ、故意に視線を避けているのだ。
「先生」シェライトはトレヴァリス教授に向かって穏やかに言った。「我々は明日から特別許可で実習時間外も実験室を使用させていただきます。ヴェルメ先輩から許可は取ってあります」
トレヴァリス教授はただ無言で頷いた。
ヒノノギはもう逃れられないことを悟った。シェライトの綿密な計画に、学校中が巻き込まれていた。校則も教師の権限も、シェライトの前では無力だった。
「放課後、図書館で詳細を詰めよう」シェライトは微笑んだ。「光子と磁場の美しいワルツを始めるぞ、ヒノノギ」
ヒノノギは黙って頷いた。自分はすでにシェライトの磁場の中で踊らされる電子なのだと、痛感していた。
