磁場のない教室で



磁場のない教室で ―門限の夜編―

ソルフィア中央統合高等学校の土曜日。珍しく学校行事もなく、完全な自由時間だった。ヒノノギにとって、シェライトの「磁場」から逃れられる貴重な一日。

朝、ヒノノギは部屋のシェライトがまだ寝ているうちに静かに抜け出した。目的は明確だった。エルレクサ市街地で量子光学の新刊を探し、祖父から送られてきた小切手で自分の実験器具を買い、そして何より、シェライトから離れた時間を満喫すること。

市街地の専門書店「フォトンリーディング」は、ヒノノギの天国だった。最新の量子物理学の論文集から実験指南書まで、あらゆる科学書籍が並んでいる。

「これは…!」

ヒノノギは興奮して手を伸ばした。『アドバンスト・フォトニック・エンタングルメント』、待望の改訂版だ。さらに奥の棚には『光子数制御と量子ランダムウォーク』もあった。

時間は瞬く間に過ぎていった。書店を出たときには既に夕方になっていた。しかし計画はまだ半分だ。次は実験器具店「エクスペリメンタル・ファクトリー」へ向かった。

「レンズミラー、分光器、そして…」

買い物リストを一つ一つ確認しながら、ヒノノギは店内を回った。自室に小さな実験スペースを作るための機材だ。シェライトに頼らず、自分だけの研究を進めるための最低限の道具。

店を出たとき、空はすっかり暗くなっていた。腕時計を見ると21時30分。

「まだ大丈夫、門限は22時だ」

ヒノノギは重い買い物袋を両手に抱え、学校へ向かうバスに乗った。頭の中は今日手に入れた本の内容と、これから始める実験のことでいっぱいだった。シェライトのことは完全に忘れていた。

学校に到着したのは21時55分。正門から急いで寮に向かい、21時58分に寮の玄関に到着した。

「よし、間に合った!」

ホッとしながら自室のドアを開けると、そこには腕を組んで立つシェライトの姿があった。窓から差し込む月明かりに照らされた彼の表情は、まるで鋼のように冷たかった。

「遅い」

シェライトの一言に、部屋の温度が一気に下がったように感じた。

「でも、門限前に戻ってきましたよ?」ヒノノギは買い物袋を床に置きながら答えた。「今、21時58分です」

シェライトは冷笑を浮かべた。「門限?ああ、学校の門限なら確かに22時だな」

彼はゆっくりとヒノノギに近づいた。

「だが、お前には別の門限がある。シェライト・ルールだ。お前の門限は20時だ」

「は?何言ってるんですか?そんなルール聞いたことない!」

シェライトの笑みが広がった。「知らなかったのか?私の選んだ者には特別なルールが適用される。これは最初の日に言っただろう?」

「言ってません!それに、そんな一方的なルールに従う義務はありません!」

ヒノノギは反論したが、シェライトはまるで子供をあしらうように首を横に振った。

「義務?面白いことを言う。君は私の磁場に引き寄せられた自由電子だ。どこに行こうと、最終的に私の軌道の中を回るしかない」

「それは違います!僕には自由があります。あなたの勝手な命令に従う必要はない」

シェライトの目が危険に輝いた。「そうか?では考えてみろ。君がこの学校にいられるのは誰のおかげだ?」

「それは…僕の実力です」

「半分正解だ。確かに君の実力は認めるが、この『ソルフィア中央統合高等学校』は王家と国家の共同事業だ。つまり、半分は私の学校だ」

ヒノノギは言葉に詰まった。確かにその通りだった。

「それだけじゃない」シェライトは続けた。「お前が利用している最新の実験室設備、図書館の限定資料、すべて私の許可があってこそだ。先週のウィーデマン教授の特別授業も、私が手配したものだ」

「でも、それは…」

「さらに言おうか?お前の祖父フェリレンの研究所の土地、実は王家の所有地を特別に貸与しているのだ。もし私が一言言えば…」

「やめてください!」ヒノノギは思わず叫んだ。

シェライトの笑顔が広がった。「分かったようだな。君の自由は、私が許している範囲でしかないのだ」

ヒノノギは震える手で額を押さえた。シェライトの言うことはすべて事実だった。彼は完全に論破されていた。

「では、改めて訊こう」シェライトは一歩近づいた。「お前の門限は何時だ?」

ヒノノギは歯を食いしばった。「…20時です」

「そして今日、お前は何時に戻ってきた?」

「21時58分…です」

「つまり?」

「門限…違反です」

シェライトは満足そうに頷いた。「よろしい。罰則としては…そうだな、明日の日曜日、私の実験の手伝いをしてもらおう。一日中だ」

ヒノノギの肩が落ちた。明日も自由な時間は取れないのか。

「分かりました…」

シェライトは優雅に手を伸ばし、ヒノノギの顎を掴んだ。「ルールを破った罰だと思え。だが心配するな、お前の才能を無駄にはしない。明日の実験は王立科学賞に関わる重要なものだ」

彼の言葉に、ヒノノギは少し顔を上げた。科学賞?

「何の実験ですか?」

シェライトの目が勝利の色で輝いた。「光子と磁場の相互作用だ。お前の専門分野だろう?」

ヒノノギは思わず興味を示してしまった。「それは…確かに興味深いテーマですね」

「だろう?」シェライトはヒノノギの肩に手を置いた。「お前の反抗心は理解できる。自由電子はそうあるべきだ。だが、私の磁場の中でこそ、お前の才能は最大限に発揮される」

彼の言葉には不思議な説得力があった。ヒノノギは混乱していた。シェライトは確かに傲慢で支配的だが、彼の下での研究環境は間違いなく恵まれていた。

「今日買ってきた本を見せてみろ」

シェライトはヒノノギの買い物袋を指さした。ヒノノギは渋々、新しく購入した量子光学の書籍を取り出した。

「ふむ、『アドバンスト・フォトニック・エンタングルメント』か。良い選択だ」シェライトは本のページをめくりながら言った。「明日の実験に役立つだろう」

彼は本をヒノノギに返しながら、不思議な表情を浮かべた。

「ヒノノギ、お前の才能は本物だ。私はそれを見出し、育てようとしている。自由電子のように自分の道を進みたいのは理解できる。だが忘れるな、最も美しい電子の軌道は、最適な磁場の中で描かれるものだ」

その言葉に、ヒノノギは反論できなかった。科学的な比喩で語られると、なぜか説得力があった。

「明日の実験、8時に実験室に来い。寝坊するな」

シェライトはそう言って、自分のベッドに向かった。ヒノノギは重いため息をつきながら、新しい本を机に置いた。窓から見える月明かりの下、彼は思った。

この「磁場」は本当に自分のためになるのだろうか?それとも、自分を閉じ込める檻になるのだろうか?

答えを見つけられぬまま、ヒノノギはベッドに横たわった。明日また、シェライトの磁場の中で一日を過ごすことになる。


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