磁場のない教室で
磁場のない教室で ―ランチタイム編―
春の日差しが校舎を包む昼休み、ヒノノギはようやく一人の時間が持てると胸をなでおろしていた。入学して二週間、シェライトの「磁場」から逃れる時間はほとんどなかった。
「よし、購買で何か買って…」
ヒノノギは財布を確認しながら廊下を歩いた。計画は簡単だった。購買でパンを買い、誰も来ない裏庭のベンチで食べる。そして残りの時間は量子力学の教科書を読む。完璧だ。
「おい、ヒノノギ!」
背後から聞こえた強い声に、ヒノノギの体は一瞬固まった。振り向く必要もなく、その声の主がシェライト・エレム・ソルフィアだと分かっていた。
振り向くと、シェライトは堂々とした足取りで近づいてきた。制服のボタンを二つ外し、黒色の髪が春の日差しに輝いている。
「どこへ行くつもりだ?」シェライトが命令するような口調で尋ねた。
「購買で昼食を買って、裏庭で…」
シェライトはヒノノギの言葉を遮り、彼の腕をつかんだ。「そんな下々の者がするようなことはやめろ。カフェテリアだ」
「でも僕は一人で…」
「黙れ。私の側にいることが、君の特権だと分からないのか?」
ヒノノギの言葉は廊下に残されていった。シェライトは彼の腕を強く引きながら、もうカフェテリアへの階段を上り始めていた。
「シェライト殿下!お願いです、僕は本当に…」
「何度言えば分かるんだ。そんな呼び方はやめろと言っただろう」シェライトの目が鋭く光った。「ここでは私はただのシェライトだ。しかし、お前に命令する権利は変わらない」
ヒノノギは抵抗したかったが、シェライトの手には絶対的な力があった。まるで強力な磁石に引き寄せられるように、彼の足は勝手に動いていた。
「カフェテリアは混んでて…」
「問題ない。私のために席は常に用意されている」
カフェテリアのドアを開けると、そこは学生たちで溢れかえっていた。しかし中央付近には不思議と空いたテーブルがあり、そこにはすでに人が座っていた。
「ヴェルメ、連れてきたぞ」
そこに座っていたヴェルメは穏やかに微笑んだ。三年生のヴェルメ・リガーゼだ。白い制服に白衣を羽織り、学校公認の「科学研究推進委員長」のバッジを胸に付けていた。
「ヴェルメ、こいつが例の天才一年生だ。私が話していたヒノノギ・レーゼシュライツだ」
ヴェルメはゆっくりと立ち上がり、手を差し出した。「やっと会えましたね、ヒノノギ君。あなたの量子光学の理論、とても興味深く読ませていただきました」
ヒノノギは渋々握手した。「あ、ありがとうございます…」
「座れ」シェライトはヒノノギの肩を強く押した。「今日の食事は王宮シェフ監修のビーフストロガノフだ。お前は光栄に思うべきだ」
ヒノノギは従うしかなかった。周囲の学生たちが彼らのテーブルを見ている。ヴェルメに向ける視線は尊敬の念に満ちていたが、シェライトへの視線は明らかな恐怖と羨望が入り混じっていた。そして彼ら二人と一緒にいるヒノノギ自身への視線は…好奇心と同情だった。
「シェライト殿下はあなたのことをよくお話されていますよ」ヴェルメがコーヒーを啜りながら言った。「量子エンタングルメントの研究、発展させてみませんか?学校の設備を使うといいでしょう。私が特別に許可を出します」
「え、あ、ありがとうございます」
「遠慮など不要だ」シェライトが横から強い口調で言った。「君は私が選んだ者だ。この学校の資源は私のものであり、私が許せば君のものでもある」
ヒノノギはフォークを動かしながら考えた。確かにこの学校の設備は最高級だ。実験室も図書館も、祖父の私設研究所すら及ばないほど充実している。
「少し考えさせて…」
彼の言葉が終わる前に、シェライトが突然テーブルを叩いた。「今日の物理の授業、共同実験のパートナーを決める日だ」
「それで?」ヒノノギは不安を感じた。
シェライトの目が支配的に輝いた。「当然君は私と組む。量子と磁場の最強コンビだ。拒否権など存在しない」
「え、でも僕はまだ…」
「もう担当教官には命じてある。文句はあるか?」
「勝手に決めないでください!」ヒノノギは思わず声を上げた。カフェテリアが一瞬静かになる。
シェライトの表情が一瞬冷たくなった。「お前、今、私に命令したのか?」
ヴェルメが静かに咳払いをした。「シェライト殿下、彼はまだ慣れていないのでしょう。少し時間をおかれては?」
シェライトは数秒ヒノノギを鋭く見つめた後、表情を和らげた。「よかろう。だが覚えておけ、ヒノノギ。私の選んだ道は最終的に君のためになる。王立科学賞を手に入れられるのだぞ」
ヒノノギは言葉を失った。王立科学賞は若き科学者の憧れだった。
「わ、分かりました…物理の実験、一緒にやりましょう」
シェライトの顔に勝利の表情が浮かんだ。「当然だ。私の命令に逆らえるはずがない」
ヒノノギはため息をついた。「はい…」
「食べ終わったら直ちに図書館へ向かう。実験計画を立てるぞ」
「え、でも次の授業までまだ…」
「問題ないですよ」ヴェルメが微笑んだ。「担当教師には私から話しておきます。研究は時に授業より重要ですからね」
ヒノノギはもう逃げ場がないことを悟った。自分は磁場に囲まれた自由電子のように、シェライトの軌道の中で回り続けるしかないのだろう。
「あの、ちょっとトイレに…」突然、ヒノノギは立ち上がった。
「行って来い」シェライトは高圧的に言った。「だが5分以内に戻らなければ、私自ら探しに行くぞ」
ヒノノギは急いでカフェテリアを出た。廊下に出たところで安堵のため息をついたが、すぐに後ろから足音が聞こえた。
「本当にトイレか?」シェライトの冷たい声だ。
振り向くと、シェライトは腕を組み、冷笑を浮かべていた。
「図書室はあっちだ」彼は反対方向を指差した。「逃げるつもりだったのか?」
「い、いえ、そんな…」
「嘘をつくな」シェライトが一歩近づき、ヒノノギの顎を掴んだ。「私の磁場から逃れられると思ったのか?」
ヒノノギは息をのんだ。シェライトの目には危険な光が宿っていた。
「もう一度言おう。お前は私が選んだ者だ。どこに行こうと、私の軌道内を回り続けるのだ」
ヒノノギは震える声で答えた。「はい、シェライト…」
シェライトは満足げに微笑み、ヒノノギの手首をつかんだ。「よろしい。さあ、図書室へ行くぞ」
二人は図書室へと向かった。シェライトの磁場に引き寄せられるヒノノギ。彼の頭には「王立科学賞」という言葉と、シェライトの青いブルーホールのような瞳が焼き付いていた。
この「磁場」から完全に逃れることは、本当に不可能なのだろうか?
