最適化令嬢



16歳の令嬢に下された政略婚命令。
それは世界秩序を組み替える回路の起動だった。

———


第1話
『理不尽な通告』

ソレラント公国、ソルフィア暦1282年春。エラスタンス公爵邸の窓から見える中庭では、クリスタル原石を積んだ馬車が午後の陽光を反射していた。リミッタ・エラスタンス・ソレラントは、父の執務室に呼ばれた理由をまだ知らなかった。

「娘よ、お前に重要な任務がある」アルケイオン・エラスタンス・ソレラント公爵は、机の向こうから静かに告げた。

彼の手元には、見慣れない紋章が押された封蝋の文書があった。

「カレントリア王国、サイリスタ家への嫁入りだ」

リミッタの青い瞳が一瞬だけ揺れた。しかし彼女は感情を表に出さず、背筋を伸ばしたまま答えた。

「カレントリア、ですか」彼女は静かに続けた。「サイリスタ家とは、現在のカレントリアにおいて実質的な実権を握っていると噂される、王政技術顧問ソルダ・サイリスタ氏の一族でしょうか」

「よく知っているな」アルケイオンは感心したように頷いた。「正確には、彼の甥であるトランス・サイリスタ殿との婚姻となる」

彼は文書を指先で軽く叩いた。「既にシェライト陛下の特例承認も下りている。ソレラント公国と、我がエラスタンス家の未来のためだ」

リミッタは内心で状況を整理し始めた。カレントリア王国は、1280年にシェライト陛下が国境に建設した「マグネティック・カーテン」によって封鎖された敵対国だ。ソレラント公国はゼルフィア特区内の自治領であり、その宗主国はソルフィア王国。特区の貴族が他国に嫁ぐには、シェライト王の特例承認が絶対に必要なはずだが、なぜその承認が下りているのか。

「父上」リミッタは静かに問うた。「シェライト陛下が、敵対国への婚姻を許可なさるとは思えません。カレントリアとソルフィアは、壁で完全に断絶しているはずです」

「それでも、承認は下りた」アルケイオンは文書を彼女の前に置いた。「理由は私にも分からん。だが、これは我が一族にとって大きな機会だ」

彼は娘の目を見つめた。「お前の才能は、ソレラントだけに留めておくには惜しい。カレントリアの中枢で、お前の『制御・最適化』の力を発揮してほしい」

リミッタは文書に目を落とした。そして、彼女の瞳が鋭く細まった。シェライト王の紋章と、ただの技術官僚に過ぎないはずのソルダ審議官の署名が、対等の位置に並んでいる。

「これは」リミッタは文書を凝視した。「なぜ、一介の技術顧問の署名が、シェライト陛下の紋章と並んでいるのですか?」

彼女は冷静に続けた。「ソルダ氏は、カレントリアの宰相ではないはずです。正式な肩書きは『王政技術顧問』。国家間の婚姻を承認する権限など、持っていないはずですが」

アルケイオンは娘の鋭さに驚きを隠さなかった。「その通りだ。だが、この文書には彼の署名がある」彼は肩をすくめた。「カレントリアでは、ソルダ氏が実質的にすべてを動かしていると聞く。肩書きなど、些細なことだろう」

リミッタは文書から目を離さなかった。「いいえ、些細ではありません」

彼女は静かに言った。「シェライト陛下は、形式と権威を何よりも重んじる方です。そのような陛下が、正式な権限を持たない官僚の署名を、ご自身の紋章と並べて特例承認を成立させる」

彼女は父を見つめた。「何かが、おかしい」

「おかしかろうと、承認は下りている」アルケイオンは文書を指差した。「お前はこれを疑問に思うかもしれんが、私には分かる。これは、ソルダ氏がシェライト陛下から引き出した『何か』の結果だ」

彼は目を細めた。「その『何か』が何なのかは知らん。だが、それほどの力を持つ男の一族に、お前を組み込むことができるのは、我が家にとって幸運だ」

リミッタは深呼吸をした。「承知いたしました」

彼女は顔を上げた。「いつ出立いたしますか?」

「来月だ。それまでに準備を整えてくれ」アルケイオンは立ち上がった。「母上にも話を通してある。彼女と相談するといい」

リミッタは一礼し、執務室を出た。廊下を歩きながら、彼女は内心で呟いた。「カレントリア。敵対国。一介の技術顧問。そして、シェライト陛下の特例承認」彼女は窓の外の光る鉱石を見つめた。「ソルダという男、何を使ってシェライト陛下を動かしたのか」



母フラクシアの居室は、公爵邸の東棟にあった。リミッタがノックすると、優雅な声が応えた。

「どうぞ」

部屋に入ると、フラクシア・エラスタンス・ソレラントが紅茶のカップを置いて微笑んだ。

「リミッタ。聞いたわね」彼女は娘に椅子を勧めた。「カレントリアへの嫁入り」

「はい」リミッタは椅子に座った。「母上は、この婚姻をどう思われますか?」

フラクシアは紅茶を娘に注ぎながら答えた。「正直に言えば、驚いたわ。シェライト陛下が承認なさるとは思わなかった」彼女は目を細めた。「でも、承認が下りた以上、何か理由があるのでしょうね」

「理由」リミッタは紅茶を一口飲んだ。「それが分かりません。しかも、文書にはソルダ氏の署名がありました。彼はまだ宰相ではない。ただの技術顧問です」

彼女は眉をひそめた。「なぜ彼の署名が、シェライト陛下の紋章と対等に並んでいるのか」

「それは」フラクシアは微笑んだ。「あなた自身がカレントリアで確かめればいいわ」

彼女は続けた。「ソルダ氏は、表の肩書きこそ技術顧問だけれど、裏ではカレントリア全体を回している『影の宰相』よ。彼が何を使ってシェライト陛下を動かしたのか、それを知ることができれば、あなたはカレントリアでの立場を確立できるわ」

リミッタは母の言葉を反芻した。「影の宰相」。肩書きは技術顧問でも、実質的に国を動かす存在。そのような男が、なぜシェライト王を動かすことができたのか。

「母上」リミッタは静かに言った。「私は、カレントリアで何をすべきでしょうか」

「まずは、サイリスタ家を知ることね」フラクシアは手帳を開いた。「現在の実権者ソルダ・サイリスタ氏は、電力管理技術の専門家。彼の弟ダラフは『抑制・制限』の担当で、暴走する兄を理詰めで止める役割を担っている」

彼女は続けた。「そして、あなたの婚約者となるトランス・サイリスタは、ダラフの息子。『変換・調整』の職人と呼ばれているわ」

リミッタは情報を整理した。「つまり、サイリスタ家は一族全体で『完璧な電気回路』として機能している、と」

「その通り」フラクシアは頷いた。「そして、あなたはその回路に『最適化装置』として組み込まれるのよ」

彼女は娘の手を取った。「リミッタ。これは理不尽な婚姻かもしれない。でも、あなたならきっと、この状況を最高の結果に変えられるわ」

リミッタは母の手を握り返した。「ありがとうございます、お母様」彼女は立ち上がった。「準備を始めます」



居室を出て、自室に戻る途中、リミッタは再び中庭の馬車を見つめた。光る鉱石、Lichtstein。ソレラント公国の富の源泉であり、エラスタンス家の誇りだ。この鉱石のように、自分もカレントリアで光を放つことができるだろうか。

彼女は窓に映る自分の顔を見つめた。16歳の令嬢。ゼルフィアの光を宿す琥珀色の瞳。そして、感情を排して状況を最適化する冷徹な頭脳。

「カレントリア王国、サイリスタ家」リミッタは呟いた。「ソルダという男が、何を使ってシェライト陛下を動かしたのか」

彼女は窓から離れた。「そして、どんな理不尽な環境でも、私は最適化してみせる」

自室に戻り、リミッタは旅の準備を始めた。衣装、書籍、そして父から譲り受けた電気回路の設計図。カレントリアは「電流の国」だ。そこで生きるには、電流の流れを理解し、制御する必要がある。



夜、リミッタは窓辺に座り、星空を見上げた。ソレラント公国の夜空は美しい。しかし、来月にはこの空ともしばらく別れることになる。

「トランス・サイリスタ」彼女は婚約者の名を口にした。「あなたは、どんな人なのでしょうか」

答えは、風に消えた。リミッタは静かに目を閉じた。未知の国、未知の一族、未知の夫。すべてが不確定要素だ。しかし、不確定要素を最適化するのが、彼女の役割だ。

春の風が、窓から吹き込んできた。リミッタは深呼吸をした。「私は、制御・復元・最適化を司る者」彼女は静かに誓った。「どんな回路でも、必ず機能させてみせる」



翌朝、リミッタはソレラント公国の図書館を訪れた。カレントリア王国の歴史、サイリスタ家の系譜、電流技術の基礎理論。すべてを頭に叩き込む。準備は、最適化の第一歩だ。

司書が彼女に一冊の本を手渡した。『カレントリア王国電力史』。リミッタはページをめくった。そこには、サイリスタ家の名が何度も登場していた。「電流を制御する一族」「抑制と変換の技術」「国家の回路を支える存在」。

「なるほど」リミッタは呟いた。「私が組み込まれるのは、単なる一族ではない。カレントリア全体の『制御システム』なのね」

彼女は本を閉じた。「そして、その頂点に立つソルダという男。彼が何を使ってシェライト陛下を動かしたのか」

彼女は窓の外の光る鉱石を見つめた。ソレラント公国の光が、カレントリアの電流と出会う日は、もうすぐだ。そして、その日、彼女は裏取引の真相を知ることになる。

リミッタ・エラスタンス・ソレラント、16歳。彼女の人生の転換点が、静かに近づいていた。


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