磁場のない教室で
磁場のない教室で
ソルフィア暦1276年4月。
ソルフィア中央統合高等学校の新入生として初めて割り当てられた寮の部屋に立ったとき、ヒノノギ・レーゼシュライツはすでに自分の半分の人生が終わったような気がした。
「何だこれは」
部屋は想像以上に広かった。中央に仕切りがあるものの、明らかに二人用の豪華な空間だった。片側の壁には巨大な周期表が貼られ、もう片側の壁には王国の地図と王族の系図が飾られていた。どちらが自分のスペースなのか、一目瞭然だった。
「やあ、新入り」
振り向くと、そこには制服の上着を脱ぎ、ネクタイも緩めた少年が立っていた。顎を少し上げ、茶色がかった黒い髪を後ろに流すポーズは、どこか練習したような自然さがあった。
「シェライト・エレム・ソルフィア。二年生だ。君が新しいルームメイトなんだね」
ヒノノギは一瞬、言葉を失った。写真でしか見たことのない王子が、生身の人間として目の前に立っている。しかも王子といえば厳重な警護が付くはずだが、この部屋にはシェライトとヒノノギしかいない。
「こ、この度は、お目にかかれて光栄でございます。初めてのご挨拶となりますが、何卒よろしくお願い申し上げます、王子殿下」
ヒノノギは咄嗟に頭を下げた。祖父フェリレンから「身分の高い人間に会ったら腰を低くせよ」と言われていたからだ。
その言葉を聞いた瞬間、シェライトの表情が一瞬だけ曇った。だが、すぐに明るい笑顔に戻る。
「そんな堅苦しい挨拶はいらないよ。ここでは私も二学生だ。『シェライト』でいい。それに、君の評判は聞いているよ、ヒノノギ・レーゼシュライツ」
シェライトはヒノノギの肩に手を置いた。
「理系の神童、ヘッジファンドの大物フェリレン・シディロス・フェアルシュトックの孫。8歳の時に光るエレクトロマグネットのコンテストで優勝した天才少年...興味深い人物だと思っていた。実際に会えて嬉しいよ」
その手に触れた瞬間、ヒノノギは不思議な感覚に襲われた。まるで磁場の中に入り込んだような、引き寄せられるような感覚。シェライトの目が深い青で、まるでブルーホールのように彼を吸い込もうとしていた。
「寮は全室二人部屋なんだ。でも心配しないで、私は静かな方だから。君の研究の邪魔はしないよ」
シェライトは軽やかに話し続けた。
「それより、明日から電磁気学の授業が始まるんだ。私は磁性体や磁場に興味があるんだよ。君の量子光学の知識と私の磁場の研究...何か面白いことができるかもしれないね」
ヒノノギは深い青の瞳から視線を外せずにいた。自分が自由電子で、シェライトが磁場のように彼を引き寄せているような不思議な感覚。彼はそれを振り払うように頭を振った。
「わ、分かりました。シェライト...さん。でも僕は光子エンタングルメントと量子電磁力学が専門で、磁場よりも光学の方が...」
「詳しく聞かせてよ」シェライトが一歩近づいてきた。「君の理論、面白そうだ。ねえ、今夜は食堂に一緒に行かないか?三年の先輩でヴェルメ・リガーゼという優秀な男がいるんだ。彼も君に会いたがっている」
「え、でも僕はまだ荷物を...」
「大丈夫、後でいくらでも時間はある」シェライトは自然な流れでヒノノギの手を取り、ドアに向かって歩き始めた。「さあ、行こう。この学校で君は輝くことになる。私が保証するよ」
これはまずい、とヒノノギは思った。シェライトの瞳の中に映る自分の姿が、まるで磁力線に沿って動く鉄粉のように見えた。この先の学校生活でこの磁場から逃れられる気がしない。しかし同時に、不思議と心地よい感覚もあった。
廊下を歩きながら、シェライトは滔々と学校の説明を始めた。「ここはね、科学と政治が出会う場所なんだ。私はいずれ王になる。でも科学の力なしでは、正しい統治はできない。だから君のような才能が必要なんだ」
「僕の才能?」
「そう」シェライトは立ち止まり、真剣な表情でヒノノギを見つめた。「君と私で、この国の未来を変えよう」
夕日に照らされた廊下で、ヒノノギは自分がこの先三年間、この磁場から逃れられないことを確信した。それは恐ろしくもあり、同時に不思議と心躍る予感でもあった。
部屋に残した荷物のことは、もうどうでもよかった。
それから一週間後、ヒノノギは学校の屋上で一人佇んでいた。シェライトの「磁場」から一時的に逃れるために見つけた隠れ家だった。
「ここにいたのか」
振り向くと、シェライトが立っていた。制服の襟元に金色のバッジが光っている。
「隠れてもムダだよ、ヒノノギ。自由電子の軌道は、いつも磁場に支配されるものさ」
そう言って笑うシェライトの目には、何か危険な光が宿っていた。ヒノノギは思わず一歩後退った。
「君と私で作る未来のために、まずは学園祭の実行委員をやってくれないか?」
ヒノノギは絶望的な気分で、ため息をついた。この三年間が終わるまで、本当に長い道のりになりそうだった。
