最適化令嬢
第58話
『伯父の贖罪』
ソルダは、机の上に広げられた原稿の山を見つめていた。
『放課後のテスト勉強会』
『運命の席替え』
『体育祭の借り物競走』
『放課後の自転車二人乗り』
『学園祭』
『体育館裏での告白』
六つの原稿。合計3万字。
リミッタが、16歳で奪われた青春を取り戻そうとした、必死の記録。
ソルダは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「リミッタ」彼は静かに言った。「君は、本当は何が書きたかったんだ?」
リミッタは、答えなかった。ただ、静かに俯いている。
ソルダは原稿を一枚一枚めくった。
「同世代の男子と机を並べて、一つの問題について言い合う」という、ごく普通の共学の日常。
「授業中、前の席の後頭部を見る」という行為は、ごく普通の女子高生が当たり前に享受している特権。
「泥臭くて速くて少し危険な乗り物」に、同級生の男子と乗る。これこそが、彼女が求めていた「最高のノイズ(青春)」。
行間から、リミッタの本音が溢れている。
奪われた青春への、切実な渇望。
ソルダは、深く息を吐いた。
「16歳で政略結婚させた」彼は静かに言った。「それは、私も加担した」
リミッタは顔を上げた。
「伯父様」
「1282年」ソルダは目を閉じた。「推し活ロンダリング政略結婚」
あの日のことを、彼は鮮明に覚えている。
シェライト王の執務室。
机の上に置かれた、一本のUSBメモリ。
『ヒノノギ博士のつなぎ姿で猫と戯れる超高画質映像7時間分』
「これと引き換えに」ソルダは呟いた。「君の青春を売った」
リミッタは、何も言わなかった。
「君は16歳だった」ソルダは続けた。「これから共学に進学し、同級生と勉強し、体育祭で走り、学園祭で笑う。そういう、ありふれた日常を送るはずだった」
「しかし」
「しかし、私はそれを奪った」ソルダは原稿を見た。「推しの映像と引き換えに」
リミッタは、静かに俯いた。
「君は何も言わなかった」ソルダは続けた。「『わかりました』と言って、優雅に微笑んで、カレントリアへ嫁いだ」
「それが、わたくしの役割でしたから」リミッタは小さく答えた。
「役割...」ソルダは苦笑した。「君は、16歳の子供だったんだぞ」
「でも」
「でも、何も言わなかった」ソルダは立ち上がった。「君は、完璧に最適化された令嬢として、すべてを受け入れた」
彼は窓の外を見た。夜のカレントリアの街が、静かに広がっている。
「その代償が」ソルダは呟いた。「今、この原稿の山として、目の前にある」
リミッタは、何も言わなかった。
ソルダは、振り返った。
「リミッタ」彼は静かに言った。「君は、私を恨んでいいんだ」
「恨んでは、いませんわ」リミッタは首を振った。
「嘘だ」ソルダはきっぱりと言った。「この原稿が、その証拠だ」
彼は原稿を手に取った。
「87.3%の確率で隣に座れるように最適化する」ソルダは読み上げた。「後頭部観測記録。制御不能な加速度。わたくしの愛棒(I)になってくださいませ」
「これは」ソルダは原稿を置いた。「君の悲鳴だ」
リミッタは、少し目を潤ませた。
「悲鳴...」
「ああ」ソルダは頷いた。「声を上げられない君が、フィクションという形で叫んでいる」
リミッタは、俯いた。
「わたくしは」彼女は小さく言った。「ただ、書きたかっただけです」
「何を?」
「奪われた青春を」リミッタは顔を上げた。「もし、わたくしが普通の女子高生だったら、どんな日常を送っていたのか。それを、知りたかっただけです」
ソルダは、胸が締め付けられた。
「リミッタ」彼は静かに言った。「君は、何も悪くない」
「...」
「悪いのは、私だ」ソルダは自分の胸を叩いた。「推し活に目が眩んで、姪の青春を売った。この私だ」
リミッタは、首を振った。
「伯父様は、悪くありませんわ」彼女は言った。「あれは、国家間の政略です。誰かが犠牲にならなければならなかった」
「しかし、それが君である必要はなかった」
「でも」
「でも、何もない」ソルダは原稿を集めた。「私が、君を選んだ。推しの映像が欲しくて」
彼は、原稿を両手で抱えた。
「これらの原稿」ソルダは静かに言った。「全部、没にする」
リミッタは目を見開いた。「え?」
「出版できない」ソルダは首を振った。「ストーカーに見える内容、道路交通法違反、トランスの胃壁を破壊する展開。どれも、出版には向かない」
「では...」
「しかし」ソルダは原稿を大切に抱えた。「君の青春の記録として、私が保管する」
リミッタは、少し驚いた顔をした。
「保管...ですか?」
「ああ」ソルダは頷いた。「私の執務室の、一番大切な引き出しに」
彼は机の引き出しを開けた。
「いつか」ソルダは静かに言った。「君が本当に幸せになった時」
「本当に、幸せに?」
「ああ」ソルダは原稿を引き出しにしまった。「トランスと共に、完璧な夫婦として。もう、過去の揺らぎを必要としなくなった時」
リミッタは、静かに聞いていた。
「その時」ソルダは引き出しを閉じた。「この原稿を読み返して、笑えるようになるまで」
「笑える...」
「ああ」ソルダは微笑んだ。「『あの頃のわたくし、何を悩んでいたのかしら』と、笑えるようになるまで」
リミッタは、少し涙を浮かべた。
「伯父様」
「これは、君への贖罪だ」ソルダは静かに言った。「私が奪った青春の記録を、大切に保管する」
「でも、出版しなければ、印税は...」
「推し活資金など、どうでもいい」ソルダはきっぱりと言った。「君の幸せの方が、ヒノノギグッズより遥かに大切だよ」
リミッタは、小さく笑った。
「伯父様が、そんなことを仰るなんて」
「私だって、伯父だからね」ソルダは照れくさそうに頭を掻いた。「推し活中毒者である前に、一人の人間なんだ」
リミッタは、立ち上がった。
「ありがとうございます」彼女は深く頭を下げた。「わたくしの青春を、大切にしてくださって」
「いいんだ」ソルダは手を振った。「当然のことだよ」
リミッタは顔を上げた。
「では、本編の学園祭パートは?」
「それは採用する」ソルダは頷いた。「メイド喫茶と配線バトル。VとIの協働。これなら、胸キュン要素もあるし、官僚層も満足する」
「ありがとうございます」
「ただし」ソルダは付け加えた。「DNA検査・隠し子発覚シーンを追加する」
リミッタは目を見開いた。「伯父様の...?」
「ああ」ソルダは苦笑した。「自分の醜態も晒す。それが、君の青春を奪った代償だ」
リミッタは、少し笑った。
「伯父様は、本当に優しいですわね」
「優しくなんかない」ソルダは否定した。「ただの、贖罪だ」
二人は、しばらく黙っていた。
夜のカレントリア。静かな執務室。
机の引き出しには、リミッタの青春が眠っている。
「リミッタ」ソルダは静かに言った。「いつか、君が幸せになった時」
「はい」
「この原稿を、一緒に読もう」ソルダは微笑んだ。「そして、笑おう」
リミッタは、小さく微笑んだ。
「ええ。その日を、楽しみにしていますわ」
執務室の時計が、深夜0時を告げた。
長い編集会議は、こうして終わった。
出版される原稿、没にされる原稿。
しかし、すべてが、リミッタの大切な記録だった。
奪われた青春の、ささやかな代償。
ソルダは、引き出しに手を置いた。
「いつか、必ず」彼は呟いた。「君が笑える日が来る」
その日まで、この原稿を守り続けよう。
それが、推し活に溺れた伯父の、せめてもの贖罪だった。
