最適化令嬢
第57話
『査定の時間』
ソルダは最初の原稿を手に取った。
「では、一つ目。『放課後のテスト勉強会(図書室)』」彼は数ページめくった。「これは...オームの法則バトルだな」
リミッタは頷いた。「はい。理論と実践の対立を描きましたわ」
ソルダは原稿を読み進めた。
「この公式、現場じゃ役に立たねえよ!」
「あなたの頭脳が非効率なだけですわ!」
トランス会長が「図書室でオームの法則バトルしないで……!」と胃を痛めながら止めに入る。
ソルダは眼鏡を外した。「リミッタ、これは技術論争だ」
「はい」
「胸キュン要素が、全くない」
リミッタは少し目を見開いた。「でも、理論と実践が噛み合う瞬間は」
「それは技術者として面白いだけだ」ソルダは首を振った。「読者の6割を占める10代~20代女性には、響かない」
「しかし」
「不採用」ソルダはきっぱりと言った。「官僚層(22%)は喜ぶかもしれないが、メインターゲットに刺さらない」
リミッタは少し俯いた。「...承知いたしました」
その表情に、わずかな落胆が浮かんでいた。
ソルダは、それを見逃さなかった。しかし、編集長として、譲れない線だった。
「次、二つ目」ソルダは原稿を取った。「『運命の席替え(最適化されたくじ引き)』」
彼はタイトルを見て、固まった。
「87.3%の確率で隣に座れるように最適化...?」
「はい」リミッタは答えた。「くじの材質、箱の形状、重力加速度、リアクトルの手の動きの癖を考慮した、物理学的に正確な数値ですわ」
ソルダは原稿を読み始めた。
リミッタは箱の底に指を滑らせた。わずかな凹凸がある。この微細な傾斜が、くじの配置に影響を与える。
「箱を傾けた時の角度は約5度。重力加速度を考慮すると、くじは左奥に集中する傾向がある」
寝癖の角度、手の汚れ具合、落書きの配線図。そういった些細な情報を、自然に観測できる距離に自分を配置する。
ソルダは原稿を置いた。
「リミッタ」
「はい」
「これ、完全にストーカーに見えるぞ」
リミッタは即座に反論した。「ストーカーではありませんわ!効率的な情報収集です!」
「87.3%の確率で隣に座れるように、くじ引きを操作する」ソルダは冷静に指摘した。「これを世間は何と呼ぶ?」
「...最適化」
「ストーカーだ」ソルダはきっぱりと言った。「しかも、後頭部観測記録まで書いてある。完全にアウトだ」
リミッタは少し頬を染めた。「でも、わたくしは本当に観測していましたわ。事実です」
「事実でも、出版できない事実がある」ソルダは原稿を脇に置いた。「不採用。絶対に出版できない」
「...」リミッタは何も言わなかった。
ソルダは、彼女の表情を見た。
少し悔しそうな顔。
「リミッタ」ソルダは静かに言った。「これは、君の一番の本音じゃないか?」
「...はい」リミッタは小さく答えた。「授業中、前の席の後頭部を見る。それが、わたくしの欲しかった日常でした」
ソルダは、胸が痛んだ。
しかし、編集長として、これは譲れなかった。
「三つ目」ソルダは次の原稿を取った。「『体育祭の借り物競走』」
彼は原稿を読み始めた。
借り物競走で、リアクトルが引いたお題が「一番高圧に耐えられる絶縁体」。
「お前の論理(防壁)が一番頑丈だろ!」とリミッタの手を引いてゴールへ全力疾走する。
ソルダは読み進めた。
リミッタは走った。彼に手を引かれたまま、グラウンドを全力で駆ける。
風が髪を揺らす。観客席から歓声が上がる。
ただ、リアクトルの手の温かさだけが、確かに感じられた。
ソルダは原稿を置いた。
「これは良い」
リミッタは顔を上げた。「では、採用ですか?」
「『一番高圧に耐えられる絶縁体』」ソルダは頷いた。「最高の比喩だ。物理学と少女漫画の王道を両立している」
「ありがとうございます」リミッタは少し笑った。
「ただし」ソルダは電話機を取った。「トランスの承認が必要だ」
「え?」
ソルダは番号を押した。呼び出し音が数回鳴り、トランスが出た。
『もしもし、ソルダ伯父様?』
「トランス、今いいかな?」
『はい。何でしょう』
「リミッタの原稿について、確認したい」ソルダは原稿を見た。「体育祭の借り物競走。君の婚約者と君の従弟が、手を繋いで走る話だ」
電話の向こうで、沈黙が流れた。
『...手を繋いで?』
「ああ。リアクトルがリミッタの手を引いて、全力疾走する」
『...』
「これを全国出版しても、君の胃は大丈夫か?」
『...大丈夫じゃないです』トランスの声が震えていた。『僕の婚約者と僕の従弟が手を繋いで走る話を、全国に出版するのは、胃が...胃が...』
「わかった」ソルダは電話を切った。
リミッタは、期待に満ちた目でソルダを見ていた。
「却下だそうだ」
「...」リミッタの表情が、一瞬、曇った。
「トランスの胃壁が持たない」ソルダは原稿を脇に置いた。「これは、没原稿として保管する」
リミッタは何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
「四つ目」ソルダは次の原稿を取った。「『放課後の自転車二人乗り(魔改造モーター付き)』」
彼は原稿を読み始めた。
廃材のモーターとバッテリーで違法改造された「超加速電動アシスト自転車」。
DC48V、出力500W。最高速度35km/h。
「乗れよ令嬢!送ってってやる」
リミッタは落ちないようにリアクトルの背中にギュッと必死にしがみつく。
ソルダは読み進めた。
リミッタは、リアクトルの背中に頭を寄せた。
風の音、モーターの振動、リアクトルの背中の温かさ。
これが、青春。
ソルダは原稿を置いた。
「リミッタ」
「はい」
「これは、道路交通法違反を推奨する内容だ」
「...はい」リミッタは静かに答えた。
「カレントリア宰相府が、違法改造車両を推奨する本を出版することはできない」ソルダは冷静に言った。「不採用だ」
リミッタは、少し俯いた。
「でも」彼女は小さく言った。「これが一番...」
「一番?」ソルダは聞き返した。
リミッタは言葉を飲み込んだ。「...何でもありませんわ」
ソルダは、彼女の表情を見た。
いつもの完璧な笑顔ではなく、少しだけ寂しそうな顔。
「リミッタ」ソルダは静かに聞いた。「これが、君の一番書きたかった話なのか?」
リミッタは、少し考えた。
「...はい」彼女は小さく答えた。「制御不能な加速度。自分の完璧な制御が及ばない『泥臭くて速くて少し危険な乗り物』に、同級生の男子と乗る」
「それが?」
「わたくしが求めていた、最高のノイズでした」リミッタは静かに言った。「計算を手放し、予測を諦め、ただ流れに身を任せる」
ソルダは、黙って聞いていた。
「16歳で結婚してから、わたくしの人生はすべて計算され、最適化されてきました」リミッタは続けた。「しかし、あの自転車は違う。泥臭くて、速くて、少し危険で。そして、完全に制御不能」
「君は、それが欲しかった」
「ええ」リミッタは頷いた。「でも、現実には手に入らなかった。だから、フィクションの中で」
ソルダは、深く息を吐いた。
「リミッタ」彼は静かに言った。「この原稿は、出版できない」
「...承知しています」
「しかし」ソルダは原稿を丁寧に畳んだ。「これは、君の一番大切な記録だ」
リミッタは顔を上げた。
「だから、私が保管する」ソルダは原稿を引き出しにしまった。「いつか、君が本当に幸せになった時。この原稿を読み返して、笑えるようになるまで」
リミッタは、少し目を潤ませた。
「伯父様...」
「これは、君の青春の記録だ」ソルダは静かに言った。「出版はできないが、決して無駄ではない」
リミッタは、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
ソルダは、次の原稿を手に取った。
「では、五つ目。『学園祭(メイド喫茶と配線バトル)』」
長い夜は、まだ続いていた。
