最適化令嬢



第49話
『制御不能な加速度』

放課後、校門の前。

リミッタは生徒会の書類を鞄に入れ、優雅に歩いていた。夕暮れの空がオレンジ色に染まり始めている。

「おい、令嬢」

振り向くと、リアクトルが奇妙な自転車にまたがっていた。

普通の自転車ではない。フレームに無骨なモーターが取り付けられ、後部には鉛バッテリーが括り付けられている。配線が雑に這い回り、ハンドルには手作りの制御スイッチが付いている。

「それは何ですの」リミッタは眉をひそめた。「自転車...ですか?」

「ああ。廃材で作った電動アシスト自転車だ」リアクトルは誇らしげに言った。「DC48V、出力500W。最高速度は時速35キロ出るぜ」

「違法改造ですわね」リミッタは即座に指摘した。「道路交通法では、電動アシスト自転車の出力は250W以下、時速24キロ以下と定められています」

「細かいこと気にすんな」リアクトルはハンドルを叩いた。「で、令嬢。お前、今日、宰相府まで歩いて帰るつもりか?」

「ええ、いつも通り」

「バカ言え。ここから40分かかるだろ。乗れよ、送ってってやる」

リミッタは自転車を観察した。二人乗りは明確な違法行為だ。しかも、この改造自転車は構造的に不安定で、モーターの配線も適切とは言えない。

しかし。

「わかりましたわ」リミッタは鞄を抱え直した。「では、お言葉に甘えさせていただきます」

リアクトルは驚いた顔をした。「マジか?てっきり断られると思ってた」

「効率的ですもの。40分の徒歩が10分に短縮できるなら、合理的な選択ですわ」リミッタは自転車の後部座席に目をやった。「ただし、安全運転を条件とします」

「おう、任せとけ」リアクトルはサドルに座り直した。「じゃあ、後ろ乗れ」

リミッタは慎重に後部座席に座った。スカートが乱れないように気をつけながら、両手で荷台の端を掴む。

「それじゃ落ちるぞ」リアクトルは振り返った。「ちゃんと俺の腰に掴まれ」

「え?」

「いいから。発進するぞ」

リアクトルはスイッチを入れた。

モーターが唸りを上げる。

次の瞬間、自転車が急加速した。

「きゃっ!」リミッタは思わずリアクトルの背中に手を回した。「速すぎますわ!」

「これが電動アシストの真骨頂だ!」リアクトルは笑った。

自転車は夕暮れの道を駆け抜ける。風が髪を揺らし、制服のリボンが翻る。リミッタはリアクトルの作業着を掴み、必死にバランスを取った。

「ちょっと、トルクの配分がおかしいですわ!」リミッタは叫んだ。「この加速度、モーターが過負荷になっています!」

「大丈夫だって!ちゃんと計算してある!」

「どこが計算ですの!配線が焼け焦げそうですわ!」

自転車は曲がり角に差し掛かった。リアクトルがハンドルを切る。

リミッタは思わずリアクトルの腰にしがみついた。彼の背中の温かさが、制服越しに伝わってくる。

泥と油の匂い。作業着の粗い布地。そして、モーターの金属的な音。

リミッタの心臓が、速く鳴った。

「怖いか?」リアクトルが聞いた。

「怖くはありませんわ」リミッタは答えた。「ただ、制御できないのが...不安なだけです」

「制御なんてしなくていいんだよ。たまには、流れに任せろ」

流れに任せる。

リミッタにとって、最も苦手な言葉。

彼女はいつも、すべてを計算し、予測し、最適化してきた。人生のどの瞬間も、完璧にコントロールされていた。

しかし、今。

この違法改造自転車の後部座席で、リアクトルの背中にしがみついている今。

何も制御できない。

加速度も、風の強さも、曲がるタイミングも。すべてが、彼の判断に委ねられている。

そして、それが。

不思議と、心地よかった。

「ほら、あそこ見ろ」リアクトルが指差した。

夕日が、丘の向こうに沈もうとしている。空は赤とオレンジと紫に染まり、雲が金色に輝いている。

「綺麗ですわね」リミッタは呟いた。

「だろ?この道、夕日が一番綺麗に見えるんだよ」

自転車は緩やかな下り坂に入った。モーターの音が少し静かになり、風だけが耳を撫でる。

リミッタは、リアクトルの背中に頭を寄せた。

「令嬢?」

「何でもありませんわ」彼女は小さく答えた。「ただ、少し、疲れただけです」

リアクトルは何も言わなかった。ただ、速度を少し落とし、安定したペースで走り続けた。

リミッタは目を閉じた。

風の音、モーターの振動、リアクトルの背中の温かさ。

これが、青春。

完璧に最適化された世界では、決して経験できなかった、泥臭くて速くて少し危険な瞬間。

「なあ、令嬢」リアクトルが言った。「お前、たまには計算抜きで生きてもいいんじゃねえか?」

「計算抜き?」

「そう。すべてを予測しようとするんじゃなくて、たまには成り行きに任せる。そういうのも、悪くねえぞ」

リミッタは少し笑った。「それは、あなたらしい意見ですわね」

「だろ?俺は現場主義だからな」

「でも」リミッタは続けた。「今日は、あなたの言う通りにしてみますわ」

「マジか?」

「ええ。今日だけは、計算を忘れて、この制御不能な乗り物に身を任せます」

リアクトルは笑った。「よし、じゃあもう一回加速するぞ!」

「ちょっと、待って!」

しかし、リアクトルはスイッチを入れた。

モーターが再び唸りを上げ、自転車が加速する。

リミッタは悲鳴を上げながら、リアクトルの背中にしがみついた。

しかし、その顔は。

笑っていた。

夕暮れの道を、違法改造自転車が駆け抜ける。

二人を乗せて、夕日に向かって。

宰相府の前で、自転車は停止した。

「着いたぞ、令嬢」

リミッタは後部座席から降りた。少しふらつきながら、地面に足をつける。

「ありがとうございました」彼女は礼を言った。「効率的でしたわ」

「効率的、ね」リアクトルは笑った。「お前、本当にそう思ってるか?」

リミッタは少し頬を染めた。「...少なくとも、時間は短縮されました」

「時間以外は?」

「それは」リミッタは言葉を探した。「評価が、難しいですわ」

リアクトルは自転車にまたがった。「また送ってやるよ。この自転車、気に入ってくれたならな」

「気に入ったかどうかは」リミッタは視線を逸らした。「まだ、判断中ですわ」

「そうかよ」リアクトルは笑って、スイッチを入れた。「じゃあな、令嬢。また明日」

自転車が走り去る。モーターの音が遠ざかり、やがて消えた。

リミッタは一人、宰相府の前に立っていた。

彼女は自分の手を見た。さっきまで、リアクトルの背中を掴んでいた手。

まだ、温かさが残っている。

「制御不能」リミッタは呟いた。「でも、悪くありませんでしたわね」

彼女は鞄を抱え直し、宰相府の門をくぐった。

その夜、リミッタは手帳に新しい記録をつけた。

『違法改造電動アシスト自転車。DC48V、出力500W。最高速度35km/h。構造的に不安定だが、効率は良好。ただし、制御系統に改善の余地あり』

そして、最後に小さく書き加えた。

『二人乗り。心拍数の上昇を確認。原因不明』

リミッタはペンを置き、窓の外を見た。

夜空に、星が輝いている。

「また、乗せてもらいましょうか」彼女は小さく笑った。「研究のために、ですわ」

しかし、その笑顔は。

研究者のものではなく。

16歳の少女のものだった。

【令嬢Vあとがき】
この「自転車二人乗り」のエピソードは、編集会議で即座に却下されました。理由は、ソルダ伯父様の「道路交通法違反を推奨する内容は出版できない」という、極めて真っ当な指摘でした。
しかし、わたくしにとって、この「制御不能な加速度」は、最も重要な青春の記録でした。
16歳で結婚してから、わたくしの人生はすべて計算され、最適化されてきました。どこへ行くにも公用車か徒歩。すべてが安全で、予測可能で、完璧に制御されていました。
しかし、リアクトルの違法改造自転車は違いました。
泥臭くて、速くて、少し危険で。そして、完全に制御不能。
彼の背中にしがみついている間、わたくしは初めて「すべてを委ねる」という感覚を知りました。計算を手放し、予測を諦め、ただ流れに身を任せる。
それが、どれほど心地よいことか。
トランス様は、この原稿を読んで、「君が一番書きたかったのは、これじゃないか?」と仰いました。
その通りかもしれません。
席替えの計算も、体育祭の手繋ぎも。すべては、この「制御を手放す瞬間」へと繋がっていたのかもしれません。
しかし、この原稿は永遠に出版されないでしょう。道路交通法という壁は、わたくしの論理では突破できませんもの。
それでも、この記録を残しておきます。
いつか、わたくしが完璧な最適化から解放された時。
この原稿を読み返して、あの夕暮れの風を思い出すために。
リミッタ・エラスタンス・ソレラント(サイリスタ)
1286年10月宰相府の執務室にて
追記:リアクトルの自転車のモーター効率は約78%でした。改善の余地がありますわね。今度、最適化された設計図を渡してみましょうか。...いえ、やめておきます。あの泥臭さこそが、魅力なのですから。


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