最適化令嬢



第48話
『絶縁体の定義』

体育祭当日。秋空の下、グラウンドには全校生徒が集まっていた。

リミッタは本部席で、タブレットを操作していた。画面には全校生徒の運動能力データが表示されている。50メートル走のタイム、握力、持久走の記録。すべてを数値化し、最適な競技配置を計算済みだ。

「会長、こちらが本日のクラス別戦力分析ですわ」彼女はトランスに資料を渡した。「我がクラスは、リレーと綱引きで1位を取れば、総合優勝確率92.7%です」

「ありがとう、リミッタ」トランスは資料を受け取りながら、また胃を押さえた。「でも、体育祭って、もっとこう、楽しむものじゃないかな」

「効率的に優勝することが、最も楽しいですわ」リミッタは微笑んだ。

午後、借り物競走が始まった。

グラウンドの中央に、くじ引きの箱が置かれている。各クラスの代表者が順番に走り、箱からお題を引いて、該当する「借り物」を探してゴールに戻る競技だ。

「次、2年A組、リアクトル!」

「チッ、面倒くせえ」リアクトルは舌打ちしながらスタートラインに立った。

ピストルの音。

リアクトルは全力で走り出した。泥だらけのスニーカーが地面を蹴り、一直線に箱へ向かう。

彼は箱に手を突っ込み、くじを引いた。

紙を開く。

『一番高圧に耐えられる絶縁体』

「は?」リアクトルは眉をひそめた。「何だこれ、理系すぎるだろ」

観客席から笑い声が上がる。いかにもカレントリア王立技術高校らしいお題だ。

リアクトルは周囲を見回した。絶縁体。電流を通さない物質。ゴム、プラスチック、セラミック。しかし、「一番高圧に耐えられる」となると。

彼の視線が、本部席のリミッタに向いた。

優雅に座り、タブレットを操作している彼女。完璧に整えられた栗色の髪、一切の隙がない姿勢、誰にも流されない論理の鎧。

リアクトルは駆け出した。

本部席へ向かって、全力疾走。

「おい、令嬢!」

リミッタは顔を上げた。「何ですの、急に」

「お前だ」リアクトルは彼女の手を掴んだ。「お前の論理(防壁)が一番頑丈だろ!」

「え?」

リアクトルはリミッタの手を引いて、ゴールへ走り出した。

「ちょっと、何をして!」リミッタは抗議したが、彼の手は離れない。

「絶縁体だよ!お前ほど高圧に耐えられる絶縁体、この学校にいねえだろ!」リアクトルは振り返らずに叫んだ。「誰の圧力にも流されねえ、完璧な絶縁体!」

リミッタは目を見開いた。

絶縁体。電流を通さない物質。外部からの電圧に耐え、決して流されない存在。

それが、彼女の比喩。

「走れ、令嬢!」リアクトルは手を強く握った。

リミッタは走った。彼に手を引かれたまま、グラウンドを全力で駆ける。

風が髪を揺らす。観客席から歓声が上がる。トランス会長が何か叫んでいるが、聞こえない。

ただ、リアクトルの手の温かさだけが、確かに感じられた。

泥だらけの、傷だらけの、現場で働く者の手。

その手が、今、彼女を引いている。

少女漫画で見た、あの展開。

「一番好きな人」のお題で手を引かれるヒロイン。

いや、違う。これは絶縁体。物理学の比喩。ただの技術用語。

しかし、リミッタの心臓は、計算できない速さで鳴っていた。

「もうすぐゴールだ!」リアクトルが叫んだ。

ゴールテープが見える。そこで、リアクトルは初めて彼女の手を離した。

「行け!」

リミッタは一人でゴールテープを切った。

審判の笛が鳴る。

「2年A組、1位!」

観客席が沸いた。リミッタはゴール地点で立ち止まり、息を整えた。

リアクトルが駆け寄ってくる。「やったな、令嬢。お前のおかげで勝てたぜ」

「わたくしのおかげ?」リミッタは彼を見た。「あなたが勝手に引っ張っただけですわ」

「だって、絶縁体といえばお前だろ」リアクトルは笑った。「誰にも流されねえ、頑固な論理の塊」

リミッタは少し頬を染めた。「それは、褒め言葉として受け取りますわ」

「褒めてるよ。お前の論理、嫌いじゃねえし」リアクトルは手を差し出した。「ハイタッチ」

リミッタは戸惑った。ハイタッチ。共学の生徒たちがよくやる、あの動作。

彼女は恐る恐る手を上げ、リアクトルの手に合わせた。

パン、と音がした。

「よし、これで我がクラス、優勝に近づいたな」リアクトルは満足そうに笑った。

リミッタは自分の手を見た。さっきまでリアクトルに握られていた手。そして今、ハイタッチをした手。

温かさが、まだ残っている。

「令嬢、どうした?顔、赤いぞ」

「何でもありませんわ」リミッタは即座に答えた。「ただ、走ったので体温が上昇しただけです」

「そうか。なら、水分補給しとけよ」リアクトルは本部席へ戻っていった。

リミッタは一人、グラウンドに残された。

彼女は手を握りしめた。

絶縁体。電流を通さない物質。決して流されない存在。

しかし、今のわたくしは。

「流されそうでしたわ」リミッタは小さく呟いた。

彼の手の温かさに。彼の笑顔に。彼の、何の計算もない真っ直ぐな言葉に。

リミッタは深く息を吐いた。

「これは、ただの体育祭ですわ。ただの借り物競走」彼女は自分に言い聞かせた。「少女漫画のような展開など、幻想です」

しかし、心臓は、まだ速く鳴っていた。

本部席に戻ると、トランスが待っていた。

「リミッタ、大丈夫?」彼は心配そうに聞いた。

「ええ、問題ありませんわ」リミッタは涼しい顔で答えた。「むしろ、これで我がクラスの優勝確率は94.1%に上昇しました」

「そうじゃなくて」トランスは胃を押さえた。「君、今、すごく楽しそうだったから」

「楽しそう?」リミッタは首を傾げた。「わたくしが?」

「うん。手を引かれて走ってる時、笑ってたよ」

リミッタは固まった。

笑っていた?わたくしが?

「そんなはずは」彼女は否定しようとした。しかし、言葉が続かない。

確かに、あの瞬間。

リアクトルに手を引かれて走っている時。

心が、軽かった。

「会長、それは」リミッタは言葉を探した。「ただの、生理的反応ですわ。運動によるエンドルフィンの分泌です」

「そうだね」トランスは優しく笑った。「そういうことにしておこう」

体育祭は続いた。リレー、綱引き、すべて計算通りに進み、リミッタのクラスは総合優勝を果たした。

閉会式。

優勝トロフィーを受け取ったのは、クラス代表のリアクトルだった。

「やったぜ、みんな!」彼はトロフィーを掲げた。

クラスメイトたちが歓声を上げる。リミッタも、静かに拍手をした。

しかし、彼女の視線は、リアクトルの手元に向いていた。

トロフィーを掴むその手は、少し前まで、自分を引いていた手。

リミッタは手帳を開いた。そこに、新しい記録をつける。

『体育祭、借り物競走。観測対象に「絶縁体」として選ばれる。物理学的に正確な比喩。感情的な意味はない』

彼女はペンを止めた。

感情的な意味はない。

本当に?

リミッタは手帳を閉じた。

夕暮れのグラウンドで、リアクトルがクラスメイトたちと笑っている。泥だらけの顔で、トロフィーを掲げて。

リミッタは小さく微笑んだ。

「絶縁体、ですか」彼女は呟いた。「悪くない比喩ですわね」

しかし、その絶縁体は、少しずつ、ほんの少しずつ。

電流を通し始めていた。

リアクトルという名の、予測不能な電流を。

【令嬢Vあとがき】
わたくしリミッタが、この小説の執筆意図について簡潔に記録しておきますわ。
この「借り物競走」のエピソードは、編集会議で最も激しい議論を呼びました。
ソルダ伯父様は「これは採用すべきだ。胸キュン要素が完璧だ」と主張しましたが、トランス様(婚約者)が「僕の目の前で、僕の婚約者と僕の従弟が手を繋いで走る話を、全国に出版するのは胃が持たない」と強く反対したのです。
結果、このエピソードは本編から削除され、「幻の第3話」として封印されました。
しかし、わたくしにとって、この「借り物競走」は極めて重要な意味を持っています。
「一番高圧に耐えられる絶縁体」
この比喩は、わたくし自身の本質を的確に表現しています。16歳で政略結婚し、あらゆる圧力と期待に耐えながら、決して自分の論理を曲げなかったわたくしは、まさに「絶縁体」でした。
しかし同時に、この比喩には二重の意味がありました。
絶縁体は、電流を通さない。つまり、誰とも深く繋がらない。
リアクトルに手を引かれて走った時、わたくしは初めて「電流が流れる」感覚を知りました。彼の手の温かさが、わたくしの論理の防壁を、ほんの少しだけ透過したのです。
少女漫画の「一番好きな人」というお題で手を引かれる展開を、物理学のダジャレで照れ隠ししながら実装した。これがわたくしの精一杯の「青春」でした。
トランス様は、このエピソードを読んで、「君が笑ってたって書いてあるけど、本当?」と聞いてくださいました。
わたくしは答えました。
「ええ。あの時、確かに笑っていましたわ。生まれて初めて、計算外の出来事を、楽しいと思いましたもの」
トランス様は優しく微笑んで、こう言いました。
「それが青春だよ、リミッタ」
この原稿を、没原稿として封印するか、それとも特別版として出版するか。わたくしはまだ決めかねています。
しかし一つだけ確かなことは、あの体育祭の瞬間が、わたくしの「3年目のノイズ」の始まりだったということです。
リミッタ・エラスタンス・ソレラント(サイリスタ)
1286年10月宰相府の執務室にて
追記:トランス様がこの原稿を読んで、また胃薬を飲みました。「没にしてくれて本当に良かった」とのことです。愛しい方ですわね。


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