最適化令嬢
第47話
『最適化された偶然』
リミッタは教室の隅で、小さな箱を観察していた。来週の席替えで使用するくじ引きの箱だ。担任が準備室に置いたまま忘れていたものを、彼女は「確認」という名目で借り出していた。
「材質は厚紙。内寸は縦18センチ、横12センチ、深さ10センチ」彼女は手帳に数値を記録した。「くじは折り畳まれた紙片。質量は約0.8グラム」
放課後の教室には誰もいない。リミッタは箱を逆さまにして、くじをすべて取り出した。一枚一枚を丁寧に広げ、折り目の癖を確認する。
「リアクトルは出席番号14番。引く順番は中盤」彼女はノートに簡単な図を描いた。「わたくしは22番。後半組ですわね」
彼女は箱の底に指を滑らせた。わずかな凹凸がある。この微細な傾斜が、くじの配置に影響を与える。
「箱を傾けた時の角度は約5度。重力加速度を考慮すると」リミッタは計算を始めた。「くじは左奥に集中する傾向がある」
彼女はくじを元通りに折り、箱に戻した。ただし、特定の順序で。リアクトルが引くタイミングで、彼の手が自然に伸びる位置に、「斜め後ろ、窓側」のくじを配置する。そして自分が引くタイミングでは、「リアクトルの隣、または斜め後ろ」のくじが取りやすい位置に来るように。
「確率87.3%」リミッタは満足げに微笑んだ。「これなら、十分ですわ」
翌週の月曜日、ホームルームの時間。
「それでは席替えを始めます」担任教師が箱を持って教室に入ってきた。「出席番号順に引いてください」
生徒たちが次々とくじを引いていく。リミッタは自分の席で、静かに手帳を開いていた。そこには教室の座席配置図が描かれており、すでに何人かの名前が記入されている。
「14番、リアクトル」
「はい」リアクトルは面倒くさそうに立ち上がり、箱に手を突っ込んだ。適当につかんで引き抜く。
「窓側、後ろから3列目」
リミッタの手帳に、素早く印がつけられた。計算通りだ。
くじ引きは続く。リミッタは一人一人の結果を手帳に記録していく。そして、自分の番が近づいてきた。
「22番、リミッタ」
「はい」彼女は優雅に立ち上がり、箱の前に立った。
箱の中には、まだ数枚のくじが残っている。リミッタは一瞬だけ箱の中を見て、左手前のくじを取った。
紙を開く。
「窓側、後ろから2列目」
リアクトルの斜め後ろ。完璧だ。
リミッタは何食わぬ顔で席に戻った。手帳には、新しい座席配置が完成している。自分の席から、リアクトルの後頭部が完璧に視界に入る位置。
「よし、これで決まりだな」担任が座席表を黒板に書き始めた。「では、新しい席に移動してください」
生徒たちが椅子と机を持って移動し始める。リミッタは自分の荷物をまとめ、新しい席へ向かった。
窓側、後ろから2列目。
彼女が椅子に座ると、視線の先にリアクトルの背中があった。泥だらけの作業着の襟、少し伸びた黒髪、無造作についた寝癖。
リミッタは教科書を開き、何食わぬ顔でページをめくった。しかし、視線は教科書ではなく、前の席の後頭部に向いている。
授業が始まった。数学教師が黒板に数式を書いていく。
リアクトルはノートに何かを書いている。いや、書いているというより、落書きに近い。配線図らしきものが、教科書の余白に描かれている。
リミッタは小さく息を吐いた。授業中に落書きとは、非効率の極みだ。しかし、その手元を見ているのは、不思議と退屈ではない。
彼の手は泥で汚れている。爪の間に黒い油が詰まっていて、指先には小さな傷がいくつもある。現場で働く者の手だ。
リミッタは自分の手を見た。綺麗に整えられた爪、傷一つない指先。インクの染みすらない、書類仕事だけをする手。
「リミッタさん」
突然、教師の声が響いた。
「はい」彼女は即座に顔を上げた。
「黒板の問題、解いてもらえますか」
「承知いたしました」リミッタは立ち上がり、黒板の前に立った。チョークを取り、淀みなく解答を書いていく。
座席に戻る時、リアクトルの席の横を通った。彼のノートが見えた。やはり落書きだ。しかし、その配線図は妙に正確で、実用的な設計になっている。
リミッタは席に座り、再び教科書を開いた。しかし、目はまた前の席に向いている。
昼休み。
トランス会長が教室に入ってきた。「リミッタ、生徒会の書類を」
「はい、こちらに」リミッタは鞄から完璧に整理された書類を取り出した。
トランスは書類を受け取りながら、リミッタの席を見た。そして、前の席のリアクトルを見た。そして、また胃を押さえた。
「ねえ、リミッタ」トランスは小声で聞いた。「もしかして、くじ引き、何か細工した?」
「まあ、会長。何を仰いますの」リミッタは優雅に微笑んだ。「くじ引きは完全に公平でしたわ」
「でも、君の手帳に座席配置図が」
「事前の予測ですわ。確率論と統計学を用いた、単なるシミュレーションです」リミッタは手帳を閉じた。「偶然、的中しただけですわよ」
「87.3%の確率で、ね」トランスは諦めたように息を吐いた。「君、本当に怖いよ」
「褒め言葉として受け取りますわ」
トランスは書類を持って教室を出て行った。廊下で、また胃薬を取り出す音が聞こえた。
リミッタは再び手帳を開いた。そこには、リアクトルの観測記録が細かく記されている。
「午前9時17分、配線図の落書きを開始。10時05分、居眠りを開始。10時12分、教師に注意される。10時20分、再び落書き」
彼女はペンを走らせた。
「観測対象の行動パターンは予測可能。授業中の集中力持続時間は平均23分。その後、必ず落書きまたは居眠りに移行する」
リミッタは小さく笑った。これは研究だ。単なる観測記録だ。それ以上の何物でもない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は再びリアクトルの後頭部を見た。
寝癖が、少し可愛らしい角度で跳ねている。
リミッタは慌てて視線を教科書に戻した。頬が、わずかに熱い。
放課後。
リアクトルは真っ先に教室を出て行った。おそらく、また分電盤の点検だろう。リミッタは彼の背中を見送りながら、手帳に最後の記録をつけた。
「観測初日、成功。明日以降も継続する」
彼女は手帳を閉じ、鞄にしまった。窓の外では、夕日が校舎を赤く染めている。
「87.3%の確率で隣に座れるように最適化した」リミッタは呟いた。「これは、効率的な情報収集のためですわ。それ以外の何物でもない」
しかし、彼女の心臓は、少しだけ速く鳴っていた。
計算通りに事が進んだ時の満足感とは、少し違う種類の高揚感。
リミッタは窓の外を見た。校庭で、リアクトルが分電盤の前にしゃがんでいる。泥だらけの作業着で、工具を握っている。
「観測対象として、最適ですわ」彼女は自分に言い聞かせた。「ただの、研究ですもの」
しかし、その言葉は、少しだけ空虚に響いた。
翌日から、リミッタの観測記録は日々更新されていく。リアクトルの寝癖の角度、手の汚れ具合、落書きの配線図の精度。すべてが、彼女の手帳に記録されていった。
そしてリミッタは、次の席替えの時も、同じ計算を繰り返すことになる。
何度でも。
【令嬢Vあとがき】
この「席替え」のエピソードも、本編には収録されませんでした。理由は、編集長(ソルダ伯父様)から「ストーカーに見える」という的確すぎる指摘を受けたためです。
しかし、わたくしにとって、この「観測」は極めて重要な行為でした。
16歳で結婚し、同世代の男子との日常的な接触を奪われたわたくしにとって、「授業中、前の席の後頭部を見る」という行為は、ごく普通の女子高生が当たり前に享受している特権だったのです。
寝癖の角度、手の汚れ具合、落書きの配線図。そういった些細な情報を、自然に観測できる距離に自分を配置する。これは、決してストーカー行為ではありません。効率的な情報収集ですわ。
……と、執筆当時のわたくしは本気で思っていました。
87.3%の確率で隣に座れるように最適化する。今こうして文章にすると、明らかに常軌を逸した行動です。しかし、それが当時のわたくしにとっての「青春」でした。
トランス様は、この計算を見抜いていらっしゃいました。しかし、彼は何も言わず、ただ胃薬を飲むだけでした。その優しさに、わたくしは心から感謝しています。
リアクトルは、おそらく最後まで気づかないでしょう。彼は、自分の後ろの席にいる令嬢が、毎日自分の後頭部を観測していたなど、夢にも思わないはずです。
この小説は、伯父様の「ボツにするには惜しい。どこかで使え」という助言により、没原稿集として保管されています。いつか公開する日が来るのでしょうか。
その時には、もう少し冷静に、この「観測」を振り返ることができるかもしれませんわね。
リミッタ・エラスタンス・ソレラント(サイリスタ)
1286年10月宰相府の執務室にて
追記:87.3%という確率は、くじの材質、箱の形状、重力加速度、リアクトルの手の動きの癖を考慮した、物理学的に正確な数値です。決して、適当な数字ではありませんわ。
