最適化令嬢



第46話
『放課後の等価回路』

リミッタは図書室の一番奥の席で、物理の教科書を開いていた。静かな空間に、ページをめくる音だけが響く。窓から差し込む午後の光が、彼女の金色の髪を柔らかく照らしている。

「おう、令嬢」泥だらけの作業着を着たリアクトルが、遠慮なく隣の席に座り込んだ。「悪いが、明日の物理のテスト、教えてくれねえか。赤点取ったら部活停止なんだよ」

リミッタは教科書から視線を上げ、優雅に微笑んだ。「まあ、あなたがわたくしに頭を下げるなんて珍しいですわね」

「頭は下げてねえよ」リアクトルは不機嫌そうに鞄から教科書を引っ張り出した。ページは泥と油で汚れ、端が折れている。「で、どこからやればいい?」

「まずは基礎からですわ。オームの法則、V=IRは理解していて?」リミッタはノートに綺麗な図を描き始めた。

「そんなもん知ってるよ。電圧と電流と抵抗の関係だろ」リアクトルは教科書をパラパラとめくった。「でもこの問題、現場じゃ役に立たねえんだよな」

リミッタの手が止まった。「は?」

「だって実際の配線工事じゃ、こんな綺麗な回路なんて存在しねえもん。接触抵抗とか、ケーブルの劣化とか、そういう現場のノイズが全部入ってくるんだから」リアクトルは教科書の図を指差した。「この理想回路の計算、意味ねえじゃん」

リミッタの瞳が冷たく光った。「あら。では、あなたはこの問題が解けないと?」

「解けるけど、実用性がねえって言ってんだよ」

「解けないんですのね」リミッタは優雅にページをめくった。「あなたの頭脳が非効率なだけですわ。理論を理解していないから、応用ができない」

「はあ?」リアクトルは身を乗り出した。「俺は毎日現場で配線組んでんだぞ。お前の綺麗事の計算より、よっぽど実践的だ」

「実践だけで理論を軽視するから、赤点ギリギリなんですのよ」リミッタはノートに数式を書き連ねた。「理論があるから、効率的な設計ができる。あなたの泥臭い方法は、ただの力技ですわ」

「力技で何が悪い!」リアクトルは立ち上がりかけた。「現場は綺麗事じゃ回らねえんだよ!」

「静かに」冷たい声が響いた。

二人が振り向くと、トランス生徒会長が胃を押さえながら立っていた。彼の顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。

「図書室で、オームの法則バトルをしないでくれ」トランスは小さく呟いた。「頼むから。僕の胃がもたない」

「会長」リミッタは優雅に微笑んだ。「申し訳ございません。ただ、この生徒の理解力があまりにも非効率なもので」

「令嬢の計算が現場を無視してるって言ってんだよ!」リアクトルは譲らなかった。

トランスは深く息を吐いた。「二人とも、間違ってないよ。リミッタの理論も、リアクトルの現場感覚も、どちらも必要だ」彼は二人の間に座り、ノートを覗き込んだ。「だから、理論と実践を組み合わせて考えよう。それが一番効率的だろう?」

リミッタは少し目を細めた。「会長の仰る通りですわね」

「チッ」リアクトルは舌打ちしたが、席に座り直した。「わかったよ。で、どうやって解くんだ、この問題」

「まず、理想回路で計算してから、現場のノイズを補正項として加える」リミッタはノートに新しい式を書いた。「これなら、あなたの大好きな『現場感覚』も反映できますわ」

リアクトルはノートを睨んだ。「……なるほどな。理論ベースで、実測値を補正するのか」

「そういうことですわ。理論がなければ、補正の基準も定まりませんもの」リミッタはペンを置いた。「わかって?」

「ああ、わかった」リアクトルは教科書を引き寄せた。「じゃあ次、この問題も教えてくれ」

二人は静かに問題を解き始めた。リミッタが式を書き、リアクトルがそれを現場の感覚で検証する。トランスは二人の様子を見守りながら、小さく笑った。

「二人とも、息ぴったりだね」

「違いますわ」リミッタは即座に否定した。「単なる効率化ですわ」

「そうだな。ただの勉強だ」リアクトルも同意した。

しかしリミッタの心臓は、わずかに速く鳴っていた。同世代の男子と机を並べて、一つの問題について真剣に言い合う。これが、彼女が最も欲しかった日常の風景だった。

政略結婚で奪われた、ごく普通の共学の青春。

図書室の窓から、夕日が差し込んでいる。リミッタは横目でリアクトルを見た。彼は真剣な顔で教科書に向き合い、泥だらけの手でペンを握っている。

完璧に最適化された自分の世界に、初めて入り込んできたノイズ。

「おい令嬢、この式、ここ間違ってねえか?」リアクトルがノートを指差した。

リミッタは視線を戻した。「どこが間違っていると?」

「ここの抵抗値、並列接続だから逆数の和だろ。お前、単純に足してるじゃねえか」

リミッタは目を見開いた。本当だ。彼の指摘は正しい。

「……わたくしとしたことが」彼女は静かに消しゴムを取り出した。「指摘に感謝いたしますわ」

「へえ、令嬢も間違えるんだな」リアクトルは少し笑った。

「誰にでも計算ミスはありますわ」リミッタは涼しい顔で式を書き直した。しかし、頬が少しだけ熱い。

トランスは二人を交互に見て、また胃を押さえた。この二人、本当に勉強しているだけなのだろうか。それとも、何か別の回路が繋がり始めているのだろうか。

夕暮れの図書室で、三人の影が長く伸びていた。

【令嬢Vあとがき】
わたくしリミッタが、この小説の執筆意図について簡潔に記録しておきますわ。
このエピソードは、『カレントリア王立技術高校』本編には収録されませんでした。理由は単純です。ページ数の制約と、編集長(ソルダ伯父様)の「胸キュン要素が足りない」という指摘により、没となりましたの。
しかし、わたくしにとって、この「放課後の図書室」という舞台は極めて重要な意味を持っていました。
16歳で政略結婚した際、わたくしが最も奪われたのは「同世代の男子と机を並べて、一つの問題について言い合う」という、ごく普通の共学の日常でした。優雅なティーパーティーでも、華やかな舞踏会でもなく、ただの放課後の勉強会。それが、わたくしの最も欲しかった青春だったのです。
リアクトルという存在は、わたくしの完璧に最適化された世界に入り込んできた「ノイズ」でした。理論を軽視し、現場感覚だけで動く彼の姿勢は、論理的に見れば非効率の極みです。しかし、不思議なことに、彼の指摘はいつも的確でした。
わたくしが計算ミスをした時、それを指摘したのは婚約者のトランス様ではなく、泥だらけの彼でした。その事実が、わたくしの論理の鎧に、小さな亀裂を入れたのです。
この小説は、没原稿として封印されています。伯父様は「技術論争であり、胸キュン要素がない」と評価されました。
確かに、その通りかもしれません。
しかし、わたくしにとって、図書室で並んで問題を解く。それこそが、最高の胸キュンだったのです。
ただ、それは一般読者には伝わらない。
だから、没になった。
それでいいのです。
この記録は、わたくし個人の宝物として、伯父様の引き出しに保管されています。
いつか、わたくしが本当に幸せになった時、この原稿を読み返して、笑えるようになるまで。
リミッタ・エラスタンス・ソレラント(サイリスタ)
1286年10月宰相府の執務室にて


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