最適化令嬢
第39話
『Let It Sit』
ソルフィア暦1285年10月17日、午前11時02分。カレントリア王国、鉄塔電飾計画制御室。
ソルダ・サイリスタは、制御室の端末の前に座っていた。右足は椅子の下に伸ばされ、サポーターで固定されている。第3補助導線くんは、椅子の横に立てかけてある。彼は端末の画面を見つめていた。鉄塔の電飾配置図。ソルフィア王国から送られてきた、ヒノノギ博士の遠隔指導による最終調整データ。
「宰相閣下、また立ち上がろうとしてます」技術員の声が聞こえた。
ソルダは反射的に立ち上がろうとして、右足に痛みが走る。「ぐっ」彼は座り直した。
その時、制御室の大型スクリーンにヴォルティス王のホログラムが映し出された。
「ソルダ」王の声が響く。「足ひねってるのに動きすぎ。ちゃんと座って仕事して~」
「陛下」ソルダは答えた。「しかし、鉄塔の最適観測位置を確認せねば」
「座ってできるでしょ」ヴォルティスは呆れた声で言った。「リアクトル、そこにいる?」
制御室の隅で配線を確認していたリアクトルが振り返った。
「はい、陛下」彼は答えた。
「宰相に座ってろって言っといて。あ、ステッカー送っとくから貼っといて」ヴォルティスは言った。「じゃ、頑張ってね~」ホログラムが消える。
数分後、リアクトルがソルダの椅子に近づいた。手には小さなステッカーが握られている。
「宰相、王からの指示です」彼は無表情で言った。「これ、貼っておきますね」
リアクトルはソルダの背もたれに、ステッカーをペタリと貼った。ソルダは振り返った。ステッカーには、こう書かれている。
『Let It Sit』
ソルダは目を瞬かせた。
「Let It Sit?」彼は繰り返した。「座ってろ、という意味か」
リアクトルは頷いた。「その通りです」彼は答えた。「2週間、安静が必要です」
ソルダは椅子に深く腰掛けた。『Let It Sit』。その文字を見つめる。そして、彼の脳内で、何かが起動した。推し活センサー。全開。
「Let It Sit」ソルダは呟いた。「Sit。S、I、T」彼の目が輝き始める。「S.I.T.」声が震える。「Solphia Institute of Technology」
リアクトルが嫌な予感を感じて振り返った。「宰相?」
ソルダは椅子のひじ掛けを撫で始めた。「Let It Sit。なんて素晴らしい言葉だ」彼は愛おしそうに呟いた。「S.I.T.。ソルフィア工科大学。博士が学び、数々の革新的な論文を生み出した、あの学び舎」彼は椅子の背もたれを撫でた。「この椅子は、博士の母校の象徴だ」
リアクトルは呆れた。「宰相」彼は言った。「椅子、撫でないでください。気持ち悪いです」
ソルダは聞いていなかった。「この椅子に座ることは、博士と同じ学び舎の精神を共有することだ」彼は椅子の座面を撫でた。「素晴らしい」
制御室のスクリーンに、別のホログラムが映し出された。ソルフィア王国から送られてきた、等身大のヒノノギ博士の映像。投影台の上に立つヒノノギが、無表情でこちらを見ている。
「配線の最終確認、完了しました」ヒノノギの声が響く。「そちらの状況は?」
ソルダは椅子から飛び上がろうとした。しかし足が痛む。
「博士!」彼は叫んだ。「ご指導ありがとうございます!」
ヒノノギは無表情のまま答えた。「いえ、業務です」彼は端末を確認している。「ところで、そちらの椅子を撫でているのは?」
ソルダは顔を赤らめた。「いえ、これは」彼は椅子から手を離した。「その」
ヒノノギは冷たく言った。「それはただの会議用備品ですが」
ソルダは即答した。「買い取ります!!」彼は叫んだ。「宰相府の執務室で一生座り続けたい!!」
ヒノノギのホログラムが一瞬フリーズした。「ご自由に」彼は答えた。そしてホログラムが消える。
リアクトルはため息をついた。「宰相、落ち着いてください」彼は言った。「それ、ただの椅子です」
ソルフィア暦1285年10月20日、午後2時35分。制御室。
ヴォルティス王が、今度は直接訪れた。制御室の扉を開けて入ってくる。「ソルダ」彼は声をかけた。「椅子、気に入ってくれたみたいで良かった」
ソルダは椅子に座ったまま頭を下げた。「陛下、ありがとうございます」彼は答えた。「この『Let It Sit』の精神、肝に銘じております」
ヴォルティスは椅子の背もたれのステッカーを見た。「ああ、あれね」彼は首をかしげた。「でもさ、ソルダ」
「はい?」
「"Sit"って、"Shit"に見えない?」ヴォルティスは無邪気に言った。「綴り一文字違いじゃん?面白くない?」
ソルダの動きが止まった。完全にフリーズ。血の気が引く。
リアクトルが慌てた。「陛下!」彼は叫んだ。「それは!」
しかし遅かった。ソルダの脳内で、フラッシュバックが始まっていた。
1809年1月28日。フランス、テュイルリー宮殿。ナポレオン・ボナパルトが、外交官タレーランに向かって叫んだ言葉。
《「お前は、絹の靴下を履いた糞(Shit)だ!」》
ソルダの顔が蒼白になった。もし、シェライト陛下がカレントリア王だったら。推し活で自爆して捻挫した自分を見て。間違いなく、こう言っている。
《『王室科学顧問解任!貴様は絹の靴下を履いたShitだ!!』》
ソルダは震えながら椅子に座り直した。「陛下」彼は呟いた。「ヴォルティス陛下で、本当に、良かった」
ヴォルティスは首をかしげた。「ん?なになに?褒められた?」
ソルダは涙目になった。「もし」彼の声が震える。「もしシェライト陛下が我が王だったら」彼は椅子を握りしめた。「今頃私は、"Shit"呼ばわりされて」息が苦しい。「宰相もクビで、推し活も禁止されて」彼は涙を流し始めた。「息子のことも」
ヴォルティスは慌てた。「えー?そんなことしないよ?」彼は言った。「だってソルダ有能だし。推し活も国益になってるし」彼は笑った。「Let It Flow♪」
ソルダは号泣し始めた。「陛下ぁぁぁ!!」彼は叫んだ。椅子を撫で回しながら。「『Let It Flow』で、『絹の靴下のShit』じゃなくて、本当に、良かった!!」
リアクトルは呆れた声で言った。「宰相」彼は呟いた。「椅子撫でながら泣いてます」
ヴォルティスは笑った。「ソルダって面白いね〜」彼は言った。「じゃ、椅子、大事にしてね〜」彼は手を振って制御室を出て行った。
ソルダは椅子に座ったまま、泣き続けた。第3補助導線くんを片手に握りしめ、もう片方の手で会議用のパイプ椅子を撫で回しながら。
リアクトルはため息をついた。「父上」彼は小さく呟いた。初めて、そう呼んだ。「あなたは、本当に、幸運な人です」
ソルダは涙を拭った。「ああ」彼は答えた。「息子にも、王にも、恵まれた」彼は椅子を見つめた。「そして、この椅子にも」
リアクトルは頭を抱えた。「椅子は関係ないです」彼は言った。「ただの備品です」
しかし、ソルダは聞いていなかった。『Let It Sit』のステッカーを愛おしそうに撫でながら、彼は微笑んでいた。S.I.T.。ソルフィア工科大学。博士の母校。そして、Shitではなく、Sitでいられる幸運。
カレントリア王国の制御室で、一人の宰相が、椅子と共に泣き笑いしていた。推し活と政治の狭間で、ようやく、小さな幸せを見つけて。
そして、19年遅れて繋がった父と子の回路は、これからも、静かに電流を流し続けるのだった。止まることなく。
