最適化令嬢
第38話
『第3補助導線くん』
夕暮れの病院で、一人の父親が、ようやく息子の元へ向かおうとしていた。19年遅れて。そして、推し活で自爆した情けない姿で。
しかし、運命の回路はそう簡単には繋がらなかった。決死の覚悟で開けた病室のベッドで、リアクトルは鎮静剤の影響で深く、静かに眠っていたのだ。結局、ソルダは松葉杖をついたまま寝顔を数分見つめることしかできず、情けない足取りで病室を後にした。その後も政務処理と怪我の不自由さが重なり、まともに会うタイミングを逃したまま、リアクトルは退院の日を迎えてしまったのである。
ソルフィア暦1285年10月14日、午後8時27分。イオン宮、宰相府の小休憩室。
ソルダ・サイリスタは、ソファに座っていた。右足は高く上げられ、クッションで固定されている。靭帯軽損傷。推し活で自爆した結果だ。彼は眼鏡を外し、目を閉じていた。疲れていた。体も、心も。
扉が開く音がした。ソルダは目を開けた。リアクトル・ファリテーナが、部屋に入ってくる。19歳。軍の制服を着た若い技術兵。そして、自分の息子。
「失礼します」リアクトルは淡々と言った。
手には医療キットを持っている。「宰相の足首、経過観察の時間です」
ソルダは何も言えなかった。「ああ」としか答えられない。
リアクトルは無言でソファの前に膝をついた。ソルダの右足首を確認する。腫れは引いてきているが、まだ痛む。
リアクトルは医療キットからアイシングパックを取り出した。古いパックを外し、新しいものに交換する。冷たい感触。ソルダは小さく息を吸った。次に、サポーターの締め付けを調整する。無言で、淡々と。
親子だと判明してまだ数週間。感動的な対話の前に、父親が推し活で自爆した。この状況で、何を話せばいいのか。ソルダは口を開いた。
「すまない、リアクトル君」彼は言った。「いや、その」
まだ『息子よ』と呼ぶのに慣れていない。言葉が出てこない。
リアクトルは手を止めなかった。アイシングパックを固定しながら、淡々と尋ねた。
「謝るのはどちらに対してですか?」彼の声は冷静だった。「19年間存在に気づかなかったことですか?」
ソルダの息が止まった。リアクトルは続けた。
「過去の書類の名簿を見落としていたことですか?」サポーターを締め直す。「昨年の『隠し子疑惑』を完全否定したことですか?」
アイシングパックの角度を調整する。「それとも」彼は顔を上げた。
「ヒノノギ博士を観測しようとして全力ダッシュし、自分で敷いたケーブルに自分で躓いて靭帯を損傷したことですか?」
ソルダは言葉を失った。急所を全部刺された。しかも淡々と。理詰めで。容赦なく。
「ぜ、全部だ」彼はようやく答えた。
「特に最後のは、父親として」声が震える。「いや、宰相としてあるまじき」
リアクトルは小さくため息をついた。
「別にいいですよ」彼は言った。
手元の計器を確認しながら。「否定されてたのも、知らなかったんだから当然です」アイシングパックの温度を測る。
「過去の回路がどうであれ、今、こうして繋がっていればそれでいいんです」
ソルダはハッとした。「リアクトル」彼は呟いた。
「君は」眼鏡を外す。
目頭を押さえる。「なんて、なんて優しい」
リアクトルは医療キットから別の道具を取り出した。一本の杖だ。しかし、普通の杖ではない。グリップ部分に何か巻かれている。
「はい、これ」彼はソルダに差し出した。「今日から2週間、宰相の移動用インターフェースです。グリップ部分に反動吸収材を巻いておきました」
ソルダは杖を受け取った。軽い。しかしグリップ部分はしっかりしている。「ありがとう」彼は言った。「これは?」
リアクトルは真顔で答えた。「命名、『第3補助導線』くんです」
彼は杖を指差した。「宰相の頼りない足回りをバイパスして、姿勢制御を補助します。絶対に手放さないでくださいね」
ソルダは杖を見つめた。「第3補助導線」彼は呟いた。
「私が19年間気づかなかった『父親』という第3の回路の比喩だろうか」深い意味を感じる。
息子が、自分に必要な回路を補助してくれている。
リアクトルは冷たく言った。「いえ、『2本の足でまともに歩けないから3本目が必要』という物理的な事実です」
彼は計器を閉じた。「深読みしないでください」
ソルダは黙った。
「はい」としか言えない。完全に、息子に負けている。
リアクトルはアイシングパックの固定を確認した。沈黙が流れる。ソルダは、この部屋を見回した。小休憩室。本棚、ソファ、コーヒーメーカー。そして、天井の配線。
「あの春」ソルダは少し躊躇いながら言った。
「この休憩室の配線が落ちた時」彼は天井を見上げた。「君が直してくれたな」
リアクトルの手が止まった。彼は手元の計器を見つめたまま答えた。
「気づきましたか」小さな声。「わざと連動するように細工しました」
彼は続けた。「そうでもしないと、一生あなたの視界に入れないと思ったので」
ソルダは痛む足首を見つめた。
「私は、見ようとしていなかった」彼は呟いた。
「君は、ずっとそこにいたのに」眼鏡を握りしめる。「本当に、愚かな父親だ」
リアクトルは氷嚢を少し強めに押し当てた。「痛いですか」彼は尋ねた。
ソルダは息を吸った。「ああ」彼は答えた。
「だが、この痛みは」足首を見つめる。「私に必要な負荷、レジスタンスだ」
リアクトルはクスッと笑った。小さく、でも確かに笑った。
「親父の背中って、もっと大きくて遠いものだと思ってました」彼は言った。「案外、足元がお留守なんですね」
ソルダは苦笑した。「技術者は、時に遠くの光ばかり見てしまう生き物だからな」彼は認めた。
そして、少し嬉しそうに続けた。「ところでリアクトル君、このサポーターだが」彼は右足を見た。「ヒノノギ博士を見上げるのに最適な『仰角15度』で足首をロックする機能を追加できないだろうか?」
リアクトルの表情が無表情に戻った。
「冷却パック、もう一つ追加しますね」彼は医療キットを開いた。「頭も冷やした方がよさそうです」
「いや、待て」ソルダは言った。
しかし遅かった。リアクトルは冷え冷えの氷嚢を、容赦なく足首に押し付けた。
「ひぎぃっ!?」ソルダは叫んだ。「ちょっ、レジスタンスが強すぎる!」
リアクトルは無表情に氷嚢を固定した。
「2週間、推し活は禁止です」彼は宣言した。「足首が治るまで」
ソルダは項垂れた。息子に、完全に制御されている。しかし、不思議と悪い気はしなかった。19年間、誰も自分を止めてくれなかった。推し活も、無茶な仕事も。でも今、息子が止めてくれている。冷たい氷嚢で。
「分かった」ソルダは言った。「君の言う通りにする」
リアクトルは医療キットを閉じた。
「では、20分後にまた確認に来ます」彼は立ち上がった。「それまで安静に」
「リアクトル」ソルダは呼び止めた。
息子が振り返る。「ありがとう」彼は言った。
「第3補助導線くん、大切にする」
リアクトルは小さく頷いた。「絶対に手放さないでくださいね」彼は言った。
そして、部屋を出て行った。
ソルダは一人、ソファに残された。右足は冷たいアイシングパックで冷やされている。手には、息子が作ってくれた杖。第3補助導線くん。
彼は杖を見つめた。19年間気づかなかった回路が、今、形になっている。遅すぎたかもしれない。でも、繋がった。春の暗闇の廊下で出会ってから、半年。ようやく、父と子の回路が接続された。
窓の外で、王都コンダクタールの送電線が静かに音を立てている。電流は流れ続ける。止まることなく。そして今、新しい回路が生まれた。父と子を結ぶ、第3の補助導線が。
ソルダは目を閉じた。足首は痛い。推し活は禁止された。でも、心は少し軽くなっていた。19年間の罪悪感が、少しだけ、氷のように溶け始めていた。
小休憩室で、一人の父親が、息子の優しさに包まれていた。冷たい氷嚢と、温かい言葉に。
