最適化令嬢



第33話
『知られざる回路の帰還』シーン0-4
-暗闇の廊下-

ソルフィア暦1285年3月17日、午後7時42分。イオン宮の廊下は静まり返っていた。

リアクトル・ファリテーナは、巡回を装って宰相府の廊下を歩いていた。工具箱を手に、足音を殺して進む。今日、父が小休憩室にいるはずだ。補佐官たちの勤務記録を三日かけて調べ上げた。午後7時半から8時の間、執務室の補佐官が帰宅する。その時、照明を消す。彼の計画通りなら、休憩室の照明も連動して消える。

「あとは、タイミングだけだ」リアクトルは呟いた。
心臓が激しく打っている。手のひらに汗が滲んだ。
「落ち着け。ただの配線修理だ。偶然通りかかっただけだ」

執務室の扉が見える。その奥に、休憩室がある。母の日記に書かれていた場所。19年前、父と母が出会った王宮で、今、自分が父に会おうとしている。

リアクトルは廊下の角に身を潜めた。執務室の扉が開く音が聞こえる。補佐官の足音。書類を抱えた男が出てくる。
「お疲れ様でした」補佐官が誰かに声をかけた。
返事は聞こえない。そして、パチッという音。

照明が消えた。

リアクトルの体が震えた。
「来た」彼は工具箱を握りしめた。
数秒後、休憩室からも物音がする。椅子が動く音。足音。そして扉が開く気配。

「今だ」リアクトルは廊下に踏み出した。
暗闇の中、休憩室の扉から一人の男が出てくる。メガネをかけた、中年の男。ソルダ・サイリスタ。カレントリア王国宰相。そして、自分の父。

「おっと!」リアクトルはわざと足を止めた。「す、すみません、足元が見えなくて」
彼は声を上げた。内心で叫ぶ。来た。本当に来た。父だ。目の前にいるのは、父だ。

「いや、こちらこそ」ソルダは落ち着いた声で答えた。
「照明が落ちて、誰か修理を呼ばねばならないね」彼はメガネを押し上げた。
暗闇の中でも、その仕草が見える。

リアクトルは息を整えた。
「照明系トラブルですか?」彼は工具箱を持ち上げた。「あ、実は僕、技術兵なんです。見ましょうか?」
ようやく会えた。声を聞けた。同じ空気を吸っている。この人が、父なんだ。

「助かるよ」
ソルダは小さく頷いた。「どこの部署かな?」彼は尋ねた。
声は穏やかで、しかし確かな響きがある。技術者の声だ。

リアクトルは姿勢を正した。「雷撃第5分隊技術補佐官、リアクトル・トニトルスです」彼は名乗った。
名乗った。父に、初めて名前を伝えた。トニトルスという称号で。ファリテーナという姓は、まだ隠したままで。

ソルダの表情が変わった。「トニトルス」彼は繰り返した。
「雷鳴、か。若いのに、名誉称号を持っているのだね」彼の声に、わずかな驚きが混じっている。「優秀な技術兵なのだろう」

「ありがとうございます」リアクトルは答えた。
認めてもらえた。技術者として。それだけで、胸が熱くなる。
「すぐに確認します」彼は工具箱を開けた。
懐中電灯を取り出し、天井を照らす。

ソルダは後ろに下がった。
「頼むよ」彼は言った。「この休憩室、よく使うのでね」

リアクトルは脚立を広げた。天井の配線カバーを外す。自分で細工した回路が露出する。
「旧式の配線ですね」彼は言った。「恐らく、隣の執務室と連動してしまっているようです」
嘘ではない。ただ、自分がそう設計しただけだ。

「連動?」ソルダが尋ねた。「そんな構造だったのか」

「古い王宮建築には、よくあることです」リアクトルは答えた。
工具を手に、配線を調整する。実際には何も変えていない。ただ、時間を稼いでいるだけだ。父と同じ空間にいる時間を。

ソルダはリアクトルの手元を見ていた。
「見事な手つきだな」彼は言った。「どこで学んだ?」

リアクトルの手が止まった。
「母から」彼は答えた。「基礎を教わりました」
声が震えそうになる。抑える。
「母も、昔は王宮で配線の仕事をしていたので」

「そうか」ソルダは静かに頷いた。「技術者の家系なのだね」
彼の声に、何かが混じっている。懐かしさのような、遠い記憶を探るような。

リアクトルは配線を元に戻した。この若者、妙に懐かしい気配がする。ソルダはそう感じていた。でも、なぜだろう。初めて会ったはずなのに。声も、仕草も、どこか既視感がある。

「これで大丈夫です」リアクトルは脚立から降りた。「旧式の配線構造で、連動してしまっていたようです。応急処置をしておきました」
彼は照明のスイッチを入れた。光が戻る。休憩室が明るくなった。

ソルダの顔が、はっきりと見えた。メガネの奥の目。穏やかで、しかし鋭い。技術者の目だ。リアクトルは胸が詰まった。これが、父の顔。19年間、一度も見たことのなかった顔。

「助かったよ」
ソルダは微笑んだ。「ありがとう、トニトルス君」彼は手を差し出した。

リアクトルはその手を握った。父の手。温かい。確かな握力。
「いえ」彼は答えた。
声が震えないように、必死に抑えた。「では、失礼します」

ソルダは頷いた。「また何かあれば、頼むよ」彼は言った。

リアクトルは工具箱を持ち、部屋を出た。廊下に出る。扉が閉まる。彼はその場に立ち尽くした。足が震えていた。会えた。父に会えた。声を聞いた。手を握った。同じ空間で、同じ電流について話した。

「母さん」彼は小さく呟いた。「会えたよ。父さんに」
目頭が熱くなる。涙が滲む。でも、笑っていた。
「優秀だって、言ってもらえた」

廊下の照明が、静かに彼を照らしていた。カレントリア王国の王宮で、父と子は初めて言葉を交わした。19年の時を超えて。暗闇の中で、光が戻ったときに。

リアクトルは歩き出した。工具箱を握りしめて。胸の中で、何かが温かく灯っている。これでいい。まずは、技術者として認めてもらえた。「息子です」なんて、今は言えない。でも、いつか。いつか、父が自分で気づいてくれたら。あるいは、何かの偶然で、真実が明かされたら。

その時まで、自分はこの電流を守り続ける。父が気づかなかった、19年前に流れた電流を。

春の夜、イオン宮の廊下で、知られざる回路が静かに接続された。


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