最適化令嬢
第30話
『知られざる回路の帰還』パート0-1
【第零部】知られざる回路の接続——偶然を装った必然
パート0-1:母の遺品と「S.T.」の発見
時期:ソルフィア暦1284年10月17日(グスタフ・キルヒホッフの没日)
場所:カレントリア王国南部・キャパシタス地方・エミッタの自宅
シーン0-1-A:母エミッタの死
秋の風が、カーテンを揺らしていた。エミッタ・ファリテーナは、ベッドの上で静かに息をしている。窓の外では、カレントリア南部特有の送電線が、淡い音を立てて電流を運んでいた。
リアクトル・ファリテーナは、母のベッドサイドに座り、その手を握っていた。18歳。雷撃第5分隊でトニトルスの称号を授与されてから、まだ数ヶ月。母にその報告ができたのは、せめてもの幸運だった。
「リアクトル……」エミッタの声は、かすかだった。「あなたは、強い子になったわね」
「母さん、喋らないで。体力を……」リアクトルは母の手を強く握った。痩せた手。かつて王宮で配線を引いていた、技術者の手。
「もう……いいのよ」エミッタは小さく笑った。「私の中だけで、守ってきたものは……」
「母さん……」
「もし、知りたいと思ったら……」彼女は息を整えた。「あの人の名は……ごめんなさい。言えなかった……でも、あなたなら……」
エミッタの言葉は、そこで途切れた。彼女の手が、リアクトルの手の中で静かに力を失う。心臓疾患。長く患っていた病が、ついに彼女の命を奪った。
享年48歳。カレントリアの南部地方の小さな家で、息子に看取られて、静かに息を引き取った。
リアクトルは母の手を握ったまま、動けなかった。窓の外で、送電線が低い音を立てている。電流は流れ続ける。止まることなく。
「……母さん……」彼は呟いた。「父の名……聞きたかった……」
シーン0-1-B:遺品整理——「S.T.」という手がかり
時期:ソルフィア暦1284年10月24日(葬儀から一週間後)
葬儀が終わり、一週間が過ぎた。リアクトルは母の部屋を整理していた。軍から休暇をもらい、一人で遺品を片付ける。小さな家。母と二人で暮らした、思い出の詰まった場所。
クローゼットの奥に、古い木箱があった。鍵はかかっていない。リアクトルはそれを取り出し、蓋を開けた。
中には、古い書類が丁寧に折りたたまれていた。黄ばんだ紙。インクの色も褪せている。彼はそれを広げた。
「……配線設計図……?」
それは王宮の配線図だった。1265年頃のもの。母がまだ王宮技術部にいた頃の記録。送電点検、分岐配電所、複雑な回路が描かれている。
そして、余白に走り書きがあった。
「S.T.」
二つのイニシャル。几帳面な文字で書かれている。その下に、小さく日付が記されていた。
「送電点検・分岐配電所・1265年8月」
リアクトルは設計図を見つめた。回路の引き方。配線の癖。どこかで見たような……いや、軍の教本で学んだ設計思想に似ている。効率的で、無駄がなく、美しい。
「……S.T.……誰だろう……」
彼は木箱の中を探った。他にも何か手がかりがあるはずだ。母が大切にしまっていたものなら、きっと意味がある。
そして、彼は見つけた。小さな日記帳。革装丁で、表紙には何も書かれていない。リアクトルはそれを開いた。
シーン0-1-C:母の日記の断片
日記は古く、ページの多くが空白だった。しかし、いくつかの日付には、母の手書きの文字が残されていた。
リアクトルは、最初の記述を見つけた。
1265年8月15日
「今日、送電点検で出会った技術官がいた。静かで、でも電流のように確かな人。名前は……ソルダ。彼との時間は、ほんの一瞬だったけれど……まるで回路が閉じたような、不思議な感覚だった」
リアクトルの手が止まった。
「……ソルダ……」
彼はその名前を、小さく繰り返した。聞いたことがあるような気がする。いや、聞いたことがあるはずだ。軍にいれば、誰もが知っている名前。
彼は次のページをめくった。
1266年5月18日
「リアクトルが生まれた。この子には、父の名を告げないと決めた。でも……この子の中に、きっと彼の電流が流れている」
リアクトルは日記を握りしめた。母が書いた自分の名前。そして、「父」という言葉。
「父……」
彼は立ち上がり、部屋の窓から外を見た。遠くに見える送電線。その向こうに広がるカレントリアの街。そして、王都コンダクタール。イオン宮がある場所。
「ソルダ……」彼は呟いた。「ソルダ・サイリスタ……」
カレントリア王国宰相。技術官僚として名高い男。スナバ回路の天才。王宮で「推し活宰相」として知られる人物。
リアクトルは日記を閉じ、配線設計図を見つめた。S.T.——ソルダ・サイリスタ。回路設計の癖。母が大切に保管していた図面。
「父……ソルダ・サイリスタ宰相……」
彼は声に出して言った。初めて口にする、父の名前。会ったこともない。声も聞いたことない。でも、母はずっと……この名前を、胸に秘めていたんだ。
リアクトルは窓の外を見つめた。送電線が風に揺れている。電流は流れ続ける。19年前に流れた電流が、今、自分の中で形になろうとしている。
「……会いたい……」彼は呟いた。「父に……会いたい……」
部屋には、母の遺品だけが静かに残されていた。配線図と、日記と、そして——19年間秘められてきた、名前。
リアクトルは決意した。父に会いに行こう。どんな形でもいい。たとえ名乗ることができなくても。せめて、顔を見たい。声を聞きたい。同じ電流を扱う技術者として、父がどんな人なのか、知りたい。
窓の外で、送電線が静かに音を立てている。電流の音。母が愛した音。そして、父が今も扱っているであろう、電流の音。
「……待ってて、母さん……」リアクトルは日記を胸に抱いた。「父に……会ってくる……」
秋の風が、カーテンを揺らした。
