最適化令嬢



第28話
『女神の警告』

1285年10月下旬、カレントリア王国宰相府。
ソルダ・サイリスタは書斎の椅子に座り、右足首を台の上に乗せていた。44歳の宰相は、傍らに立てかけられた杖を見つめている。息子リアクトルが「第3補助導線くん」と名付けたその杖は、推し活自損事故の証だった。

窓の外は夕暮れ時。オレンジ色の光が、書斎の本棚を照らしている。ソルダは足首の包帯を見下ろし、小さく溜息をついた。
「自分で敷いた配線に引っかかるとは」彼は呟く。「情けない」

机の上には、未処理の書類が山積みになっている。だが彼は手を伸ばさず、ただ窓の外を見ていた。足の痛みが引くまで、しばらく安静にしているよう医師に命じられていた。

ふと、古い記憶が蘇る。1265年8月、王宮送電点検室。あの日、彼は29歳の女性技術員と出会った。エミッタ・ファリテーナ。冷静で知的で、技術を愛していた女性。

「技術者同士の共鳴」ソルダは呟いた。
アークオム王が予言した通りだった。現場で、配線を前に話す彼女の言葉には、理屈を超えた何かがあった。そして彼は、抗えなかった。

あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。技術談義から始まった会話が、いつの間にか個人的な話になり、そして気づいた時には、ほんの一夜だけ電流が流れていた。

「私は国と結婚した男」ソルダは自嘲気味に笑う。「そう言いながら、結局」

その後、エミッタは姿を消した。円満退去という形で、王宮を去った。ソルダは何も知らされなかった。彼女が妊娠していたことも、息子を一人で育てていたことも、19年間知らなかった。

足首がズキリと痛む。ソルダは顔をしかめた。「ゼウスの雷か」彼は呟く。

書棚から、古い神話の本を取り出す。ギリシャ神話。ページをめくり、アンキセスの物語を探す。美の女神アプロディーテーと契りを結んだ人間の男。彼は女神の警告を破り、秘密を口外し、ゼウスの雷に撃たれて足が不自由になった。

「私は秘密を口外したわけではない」ソルダは本を閉じる。「ただ、推しを追いかけただけだ」彼は杖を見る。「それでも雷は落ちた」

扉がノックされる。「父上、入ってもいい?」リアクトルの声だった。

「ああ、入れ」ソルダは本を机に戻す。

19歳の息子が入室する。彼は父の足を見て、小さく笑った。「まだ痛む?」

「少しな」ソルダは答える。「お前の贈り物のおかげで、何とか歩けているが」

「第3補助導線くんね」リアクトルは椅子に座る。「父親という第3の回路、とか言ってたけど」

「お前は物理的事実だと一蹴しただろう」ソルダは苦笑する。

「だって本当のことじゃん」リアクトルは肩をすくめる。「2本の足で歩けないから、3本目が必要なだけ」

二人は笑った。リアクトルは父の書棚を見回す。「神話の本?珍しいね」

「ああ」ソルダは答える。「少し、思い出していたんだ」

「何を?」

ソルダは一瞬躊躇した。だが息子の真っすぐな視線に、嘘はつけなかった。「お前の母親のことだ」

リアクトルの表情が変わる。「エミッタのこと?」

「ああ」ソルダは頷く。「彼女は、強い女性だった」彼は窓の外を見る。「私が知らないところで、お前を一人で育てた」

「母さんは、父上のことを何も言わなかった」リアクトルは静かに言う。「ただ、遺品にS.T.のイニシャルを残しただけ」

「それも、アークオム王の許可があったからだろう」ソルダは答える。「王は、すべてを知っていた」

リアクトルは黙っている。ソルダは続ける。「ギリシャ神話に、アプロディーテーという女神がいる」彼は本を手に取る。「美の女神だ。彼女は人間の男、アンキセスと契りを結び、息子を産んだ」

「それで?」

「女神は男に警告した」ソルダは本を開く。「この秘密を誰にも言ってはならない、と。もし口外すれば、ゼウスの雷に撃たれて命を失うだろう、と」

リアクトルは父を見つめた。「エミッタと同じだね」

「そうだ」ソルダは頷く。「彼女は私に何も告げず、一人で去った。私のキャリアを守るために」彼は本を閉じる。「そして神話の女神のように、息子を一人で育てた」

「でも」リアクトルが指摘する。「アンキセスは秘密を口外したんでしょ?父上は?」

「私は口外していない」ソルダは答える。「だが、雷は落ちた」彼は足首を指す。「推しを追いかけた罰として」

リアクトルは笑った。「ゼウスじゃなくて、自分で敷いたケーブルに引っかかっただけでしょ」

「そうだな」ソルダも笑う。「神話の悲劇ではなく、推し活喜劇だ」

しばらく沈黙が流れた。リアクトルは立ち上がり、窓際に歩く。「父上」彼は振り返る。「エミッタのことを、愛していた?」

ソルダは驚いた表情を見せた。だが息子の真剣な眼差しに、正直に答えることにする。「わからない」彼は静かに言う。「あの時、私は24歳だった。技術者としての彼女に惹かれたのは確かだ。だが、それが愛だったのかどうか」

「今は?」

「今も、わからない」ソルダは答える。「19年間、彼女のことを忘れていた。いや、忘れようとしていた」彼は杖を見る。「だが、お前が現れて、すべてが蘇った」

リアクトルは父に近づく。「エミッタは、父上を愛していたと思う?」

ソルダは深く息をついた。「それも、わからない」彼は答える。「彼女は責任で結ばれる関係を望まなかった。だから、私に告げなかった」

「でも」リアクトルが言う。「イニシャルは残した」

「ああ」ソルダは頷く。「アークオム王の許可を得て、手がかりを残した」彼は息子を見る。「お前が、いつか私を見つけられるように」

リアクトルは椅子に座り直した。「アプロディーテーね」彼は呟く。「エミッタにぴったりだ」

「そうか?」

「うん」リアクトルは答える。「女神のように強くて、美しくて、一人で息子を育てた」彼は微笑む。「ただ、剣の代わりにスパナを持ってただけ」

ソルダは笑った。「技術畑のウォリアークイーンか」

「そう。ゼノビアみたいな」リアクトルが続ける。「でも、ローマ帝国に捕まらずに逃げ切った」

「逃げ切った、か」ソルダは呟く。「確かに、彼女は最後まで自由だった」

窓の外、夕日が沈みかけている。部屋はオレンジ色の光に包まれた。ソルダは再び神話の本を手に取る。「アプロディーテー」彼は小さく呟いた。「エミッタ」

リアクトルは父を見つめた。「父上、後悔してる?」

「何を?」

「あの時、アークオム王の勧めを断ったこと」

ソルダは長い沈黙の後、答えた。「後悔はしていない」彼は杖を見る。「私は国と結婚した男だ。それは今も変わらない」彼は息子を見る。「だが、もう一つの回路が、知らないうちに繋がっていた。それを19年後に知ることになった」

「第3の回路」リアクトルが言う。

「そうだ」ソルダは微笑んだ。「お前という、図面にない回路」

リアクトルは立ち上がった。「じゃあ俺は、その回路をちゃんと機能させる」彼は杖を手に取り、父に渡す。「まずは、この第3補助導線くんで、父上をしっかり支える」

ソルダは杖を受け取り、息子の手を握った。「ありがとう、リアクトル」

「どういたしまして」リアクトルは笑う。「アイネイアスだって、アンキセスを背負って逃げたんでしょ?俺もエミッタの息子として、父上を支えるよ」

「お前は本当に、彼女の息子だな」ソルダは言った。「冷静で、容赦なくて、そして強い」

リアクトルは扉に向かう。「夕食、準備するね」彼は振り返る。「推し活ダッシュは禁止だよ?」

「わかっている」ソルダは苦笑する。

息子が去った後、ソルダは再び一人になった。彼は窓の外を見ながら、小さく呟く。「アプロディーテー」そして、さらに小さく。「エミッタ」

神話の本を閉じる。美の女神は、愛した男を守るために沈黙を強いた。そして19年後、その沈黙が解かれた時、男は息子に支えられていた。

ソルダは杖を握りしめた。足の痛みは、まだ残っている。だが不思議と、心は軽かった。「女神の警告か」彼は呟く。「いや、女神の祝福だったのかもしれない」

窓の外、最後の夕日が沈む。部屋は暗くなったが、ソルダは灯りをつけなかった。ただ静かに、暗闇の中で女神の名を呟き続けた。

「アプロディーテー。エミッタ。ありがとう」

雷は、もう落ちない。ゼウスの怒りは、アークオム王という巨大なアースによって、地に逃がされていた。そして今、息子という第3の導線が、父を支えている。

ソルダは微笑んだ。神話は、こうして繰り返される。形を変えて、時代を超えて、人から人へと。


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