最適化令嬢



第26話
『沈黙の契約』

イオノスフィア宮の最奥部、導電性の壁に囲まれた内密の部屋。外部からの盗聴を完全に遮断する静電シールドが施された空間に、エミッタ・ファリテーナは一人立っていた。29歳の技術者は、テーブルの上に置かれた小さな瓶を見つめている。透明な液体が、微かに光を反射していた。

扉が静かに開く。アークオム・エレクトラム・カレントリア二世が、護衛も付けずに入室した。44歳の王は、いつもの華美な装飾を排した質素な服装をしていた。「エミッタ・ファリテーナ」彼は静かに呼びかける。「よく来てくれた」

「陛下」エミッタは膝をついた。だが王は手を上げてそれを制する。「その必要はない。今日は王と臣下としてではなく、二人の人間として話がしたい」

エミッタはゆっくりと立ち上がった。彼女の視線は、再びテーブルの小瓶に向かう。

王はそれに気づき、苦い笑みを浮かべた。「ああ、あれか。古い慣習だな」彼はテーブルに近づき、瓶を手に取る。「寵遇枠に属する者が王以外の男と関係を持った場合、二つの選択肢が与えられる。毒を飲んで名誉ある死を選ぶか、王宮を去り二度と戻らぬか」

「存じております」エミッタの声は落ち着いていた。「私は後者を選びます」

「そうだろうな」アークオムは瓶を元の位置に戻した。「君のような優秀な技術者を、こんなものに殺させるわけにはいかん。それに」彼は椅子を引いて座る。「君が去ることは、私にとっても好都合だ」

エミッタは驚いた表情を見せた。王は続ける。「ヴォルティスという正規の継承者が生まれた以上、予備の血統枠は不要だ。むしろ危険ですらある」彼はエミッタの腹部に視線を向ける。「特に、その子の父親が私の愛弟子であるソルダ・サイリスタだとすればな」

エミッタの顔が強張った。王は手を上げる。「責めているのではない。むしろ感謝している」彼は立ち上がり、窓の外を見た。「ソルダは優秀だが、不器用だ。彼に君との関係を知らせれば、必ず責任を取ろうとする。そうなれば、カレントリアは最高の人材を失う」

「陛下は」エミッタは静かに問う。「すべてをご存知だったのですか」

「もちろんだ」アークオムは振り返った。「君とソルダが送電点検中に接触したことも、その後一夜の通電があったことも。王宮の警備記録は、私の目を逃れられない」彼は微笑む。「だから私は、何も見なかったことにした」

エミッタは唇を噛んだ。王は続ける。「君が妊娠を申告した時、私は三つの選択肢を考えた。第一、君を毒で処分する。第二、ソルダを追放する。第三、君を円満退去させ、すべてを闇に葬る」彼はテーブルの小瓶を指差す。「この瓶は儀式用の小道具だ。中身はただの水だ」

エミッタは息を呑んだ。アークオムは説明を続ける。「古い法では、寵遇枠の汚染は毒による処刑と定められている。だが私は、そんな野蛮な方法を取りたくない」彼は別の書類をテーブルに置く。「だから、君には生きて王宮を去ってもらう。そして、私はこの瓶を儀式として残すことで、保守派の顔を立てる」

「では」エミッタは震える声で問う。「私は本当に、去ることができるのですか」

「できる」アークオムは頷いた。「ただし、条件がある」彼は書類を開く。「第一、ソルダには一切告げないこと。第二、地方で静かに暮らすこと。第三、その子が成長した時、もし父を探すようになったら、その時は王室が支援する」

エミッタの目が見開かれた。王は続ける。「君の息子は、優秀な技術者の血を引いている。いずれ国家にとって貴重な人材になるだろう。だから私は、その成長を見守りたい」彼は別の書類を示す。「地方の電装会社に王室補助金を出す。その会社が君を技術顧問として雇用し、年間30万ソルムの報酬を支払う。表向きは正当な雇用契約だ」

「陛下」エミッタは涙を堪えた。「なぜそこまで」

「ソルダのためだ」アークオムは真剣な表情で答える。「彼は私の愛弟子であり、カレントリアの未来だ。だが同時に、君も優秀な技術者だ」彼は微笑む。「そして君の息子も、きっと優秀になる。私は三人とも失いたくない」

エミッタは深く頭を下げた。「ありがとうございます、陛下」

「礼には及ばん」アークオムは別の書類を取り出す。「これが退去申請書だ。通常は三ヶ月の審査が必要だが、私が直接承認する。一ヶ月で処理しよう」彼はペンを取り出し、自らサインする。「これで君は自由だ」

エミッタは書類を受け取った。その時、扉がノックされる。「入れ」アークオムが呼ぶと、初老の文官が入室した。「こちらは王室記録局長のセレスティウス」王が紹介する。「立ち会い人として、この契約を記録する」

セレスティウスは無言で頭を下げ、別のテーブルに座った。アークオムはエミッタに向き直る。「最後に一つだけ」彼は静かに言う。「君の息子に、父親の手がかりを残すことを許可する。イニシャル程度なら問題ない」

「S.T.」エミッタは呟いた。

「そうだ」アークオムは頷く。「ソルダ・サイリスタ。いずれ君の息子がその名を探し当てた時、私は彼を支援する。それが君への、そしてソルダへの私の約束だ」

エミッタは再び頭を下げた。「陛下のご恩は、一生忘れません」

「忘れてくれていい」アークオムは笑った。「むしろ、この会話があったことすら忘れてくれ。君は円満退去した元技術系愛妾で、私は何も知らない王だ」彼はテーブルの小瓶を指差す。「この瓶の儀式も、君が拒否したということで記録される」

セレスティウスが羊皮紙に何かを書き込む音が響く。アークオムは窓の外を見た。「エミッタ・ファリテーナ。君は強い女性だ。ゼノビアのように、帝国に抗って自由を勝ち取った戦う女王だ」彼は振り返る。「だから私は、君が自立して生きられるよう、盾を与える。だが盾の存在を、誰にも言ってはならない」

「わかりました」エミッタは答える。「私は一人で、息子を育てます」

「いや」アークオムは首を振った。「君は一人ではない。見えない回路で、王室と繋がっている」彼は微笑む。「ただしそれは、君にも息子にも気づかれない、静かな回路だ」

エミッタは初めて、微かに笑みを浮かべた。「陛下は、優しい方なのですね」

「優しさではない」アークオムは否定する。「政治だ。有能な人材を三人とも守る、冷徹な計算だ」彼は書類を整理する。「だが、それが結果的に君たちを守るなら、それでいい」

セレスティウスが立ち上がった。「記録完了いたしました」彼は羊皮紙を丸めて封印する。「この記録は、王室秘密文書庫に永久保管されます」

「よろしい」アークオムが頷く。「退室してよい」

文官が去った後、部屋には再び静寂が戻った。アークオムはエミッタに近づく。「最後にもう一つだけ」彼は小さな袋を差し出す。「これは年金の前払いだ。地方での生活が軌道に乗るまでの支援金として、500万ソルムを用意した」

エミッタは驚いて袋を受け取る。「こんなに」

「技術者としての退職金だ」アークオムは説明する。「10年間、王室電装部門で優秀な働きをしてくれた。当然の報酬だ」彼は窓に戻る。「それと、もう一つ」

「はい」

「君の息子が技術学校に入る年齢になったら、王立技術学校の特別奨学金制度を使え」アークオムは言う。「審査は形式的なもので、君の息子なら必ず通る。年間150万ソルムが支給される」

エミッタの目に涙が溢れた。「陛下」

「泣くな」アークオムは優しく言った。「これは施しではない。将来の優秀な技術者への投資だ」彼は振り返る。「カレントリアは、才能を無駄にしない国だ。たとえその才能が、図面にない回路から生まれたとしても」

エミッタは涙を拭った。「私は、陛下のご恩に報いる方法を知りません」

「報いる必要はない」アークオムは微笑んだ。「ただ、立派な息子を育ててくれ。それが私への最高の報酬だ」彼は扉に向かう。「では、行け。君の新しい人生が始まる」

エミッタは深々と頭を下げ、部屋を出た。一人残されたアークオムは、テーブルの小瓶を手に取る。「古い慣習か」彼は呟く。「こんなものに、優秀な人材を殺させるわけにはいかん」彼は瓶を窓の外に投げた。

静かな破砕音が響く。アークオムは空を見上げた。「ソルダよ。お前の息子を、私は守る」彼は呟く。「それが師としての、最後の贈り物だ」

窓の外、カレントリアの空に雷雲が流れていく。だが雷は落ちなかった。静電シールドが、すべての雷撃を地に逃がしていた。


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