最適化令嬢
第23話
『去る理由』
ヴェルメは白衣のポケットから古い記録を取り出した。「エミッタ・ファリテーナの退去記録を精査すると、興味深い時系列が浮かび上がります」
ヒノノギが資料を受け取る。「1265年8月、王宮送電点検中にソルダと接触。1266年2月、妊娠判明。同年3月、円満退去申請。5月、地方でリアクトル出生」
「彼女は妊娠発覚から一ヶ月で決断している」ヴェルメが指摘する。「極めて迅速です」
ザクランが首を傾げた。「普通、父親に相談するよね?」
「それが最大の謎です」リーヴが金縁眼鏡を押し上げる。「法的には、父親への通知義務はない。でも人間として、告げないのは不自然だ」
シェライトが腕を組んだ。「考えられる理由は三つある」
第一の可能性:ソルダを守るため
「まずこれです」ヴェルメが最初の資料を広げる。「エミッタは当時29歳、技術員として10年のキャリアがあった。王室の政治構造を理解していたはずです」
ヒノノギが読み上げる。「寵遇枠所属者が王以外の男性と関係を持った場合、相手男性にも連座責任が及ぶ可能性がある」
「ソルダは当時24歳」ヴェルメが続ける。「若手官僚として将来を嘱望されていた。エミッタが妊娠を告げれば、ソルダのキャリアは終わる」
「最悪、追放か降格」リーヴが頷く。
「だから彼女は黙って去った」ザクランが呟く。「ソルダを巻き込まないために」
シェライトが低く言った。「自己犠牲としては筋が通る」
第二の可能性:リアクトルを守るため
「次にこれです」ヴェルメが別の記録を示す。「もしエミッタがソルダに告げ、二人で正式に結婚を申請したとします」
「王室の審査が入る」リーヴが即答する。
「その審査で何が起きるか」ヴェルメは冷徹に続ける。「まず、子の父親が本当にソルダなのか、それとも王なのか、DNA鑑定が行われる」
ヒノノギが眉をひそめた。「アークオム王は彼女と無通電だったはずだが」
「はず、です」ヴェルメが強調する。「でも形式上、寵遇枠に属していた以上、王の子である可能性を完全否定できない。そして王室は、王の血統問題には極めて神経質です」
「もし鑑定の結果、ソルダの子と判明しても」リーヴが続ける。「今度は『王の寵遇枠に手を出した罪』が浮上する。結局、ソルダもエミッタも、そしてリアクトルも、王室の監視下に置かれることになる」
ザクランが息を呑んだ。「それって実質、幽閉?」
「監視付き生活です」ヴェルメが頷く。「エミッタが最も恐れたのは、これかもしれません。自分の子が、生まれた瞬間から王室の管理対象になること」
シェライトが静かに言った。「だから彼女は、記録から消えることを選んだ」
「図面にない回路として」ヒノノギが呟く。「観測されなければ、干渉も受けない」
第三の可能性:プライドと自立
「そして最後に」ヴェルメは少し声のトーンを変えた。「これは推測ですが、エミッタ個人の意志の問題です」
ザクランが身を乗り出す。「どういうこと?」
「エミッタ・ファリテーナは優秀な技術者でした」ヴェルメが資料を示す。「王室電装部門で数々の実績を残している。彼女には技術者としてのプライドがあった」
「一夜の過ちで妊娠した」リーヴが続ける。「それ自体、彼女にとっては屈辱だったかもしれない」
ヒノノギが鋭く指摘する。「ソルダに告げれば、彼女は『助けを求める女性』になる」
「そう」ヴェルメが頷く。「でもエミッタは、自分の問題を自分で解決したかった。王室技術寵遇官として、技術者として、母として。誰にも頼らず、自分の力で息子を育てたかった」
シェライトが深く息をついた。「それは自立か、それとも孤立か」
「両方です」ヴェルメが答える。「彼女は自由を選んだ。でもその代償として、19年間の孤独も選んだ」
ザクランが静かに言った。「それって、すごく寂しいよね」
三つの理由の統合
ヴェルメは三枚の資料を並べた。「おそらく、エミッタの決断にはこの三つすべてが絡んでいます」
ヒノノギが整理する。「ソルダのキャリアを守るため。リアクトルを王室の監視から守るため。そして自分自身のプライドのため」
「そして」ヴェルメが付け加える。「もう一つ、決定的な理由があったかもしれません」
「何だ」シェライトが問う。
「アークオム王の黙認です」ヴェルメは静かに言った。「エミッタの妊娠と退去を、王は知っていた可能性が高い」
リーヴが身を乗り出す。「証拠は?」
「退去申請が一ヶ月で承認されています」ヴェルメが記録を示す。「通常、寵遇枠からの退去には最低三ヶ月の審査期間が必要です。でもエミッタの場合、異例の速さで処理されている」
ヒノノギが鋭く言った。「誰かが便宜を図った」
「アークオム王です」ヴェルメが断言する。「王はエミッタに興味がなかった。そして彼女とソルダの関係も、おそらく知っていた。だから、静かに去る道を用意した」
ザクランが呟く。「じゃあ王様は、優しかったってこと?」
「優しさではない」シェライトが冷徹に答える。「政治的処理だ。スキャンダルを未然に防ぎ、有能な若手官僚を守り、そして不要な愛妾枠を整理した。一石三鳥だ」
「でも」ヴェルメが付け加える。「その政治的処理が、結果的にエミッタとリアクトルに自由を与えた。皮肉ですが」
エミッタの最終決断
ヒノノギが静かに言った。「つまり、エミッタは複数の理由で沈黙を選んだ。ソルダを守るため。息子を守るため。自分のプライドのため。そして王の黙認という逃げ道があったから」
「そして」ザクランが続ける。「もう一つ理由があるんじゃない?」
全員がザクランを見た。
「エミッタは、ソルダを愛してなかったんじゃないか」シェライトが静かに言う。「一夜の通電は、偶然の感情だった。だが人生を共にするほどの愛ではなかった」
沈黙が落ちた。
ヴェルメが小さく頷いた。「それも、あり得ます」
「だから彼女は告げなかった」シェライトは続ける。「告げれば、ソルダは責任を取ろうとする。だがエミッタは、責任で結ばれる関係を望まなかった」
ヒノノギが呟く。「愛のない回路は、接続すべきではない」
「でも」リーヴが指摘する。「それでもリアクトルには、父を知る権利があった」
「だから彼女は、手がかりを残した」ヴェルメが資料を示す。「遺品の中に、S.T.のイニシャルを」
ザクランが深く息をついた。「エミッタは、すべてを計算していた」
「そうです」ヴェルメが頷く。「自分が死んだ後、息子が父を見つけられるように。でも自分の生きている間は、その接続を断っていた」
「時限回路」ヒノノギが呟く。「遅延接続装置」
結論
ヴェルメは資料を閉じた。「エミッタ・ファリテーナがソルダに告げずに去った理由。それは単一の動機ではなく、複数の理性と感情が織り成した決断でした」
ザクランが静かに言った。「彼女は、誰も傷つけない方法を選んだんだね」
「でも」リーヴが付け加える。「結局、19年後に全員が傷ついた」
シェライトが冷徹に言った。「遅延は、痛みを消さない。ただ先送りするだけだ」
ヒノノギが最後に呟いた。「でも、その19年があったからこそ、リアクトルは優秀な技術者に育った。エミッタの決断は、間違いではなかったのかもしれない」
ヴェルメは微笑んだ。「回路は、予想外の経路で最適解に到達することがあります。エミッタの沈黙も、そうだったのでしょう」
ザクランが小さく笑った。「知られざる回路の、知られざる理由」
「そう」ヴェルメが頷く。「そして今、その回路は再接続された。19年の遅延を経て」
