最適化令嬢



第18話
『ティールームの女王』

ソルフィア暦1288年、秋。グラヴィス宮。

三帝均衡会議の開幕から二ヶ月が経過していた。表の会議場では、シェライト王がヒノノギ博士への嫉妬で磁場を暴走させ、ソルダ宰相が推し活衣装対決に興じている。各国首脳が社交と政治的マウント合戦に明け暮れる中、真の外交は別の場所で進行していた。

グラヴィス宮東棟、三階ティールーム。

「リアクトル」リミッタは静かに命じた。「電磁シールドを最大出力で」

「了解」リアクトルは配線盤に手を置いた。彼の周囲に、目に見えない電磁ノイズ遮断の物理防壁が展開される。この部屋への通信ハッキングは、完全に不可能になった。

リミッタは21歳になっていた。1286年に執筆した学園パロディで、泥臭い青春への渇望を完全に昇華して以来、彼女の実務能力は研ぎ澄まされていた。もう、ノイズは必要ない。彼女は完璧に最適化された、最強の実務の女王だった。

「トランス様」リミッタは夫に振り返った。「ゼルフィア特区代表が到着しますわ。お茶の準備を」

「分かった」トランスはティーセットを整えた。26歳。博士課程3年目。妻の裏外交を完璧にサポートする、変圧器としての役割を果たしていた。

扉がノックされた。リミッタは優雅に微笑んだ。「どうぞ」

入ってきたのは、ゼルフィア特区の特命大使、エインベルド・グリュドルアだった。50代の老練な外交官。しかし、リミッタの前では、彼も一介の駒に過ぎなかった。

「リミッタ様」エインベルドは深々と頭を下げた。「お招きいただき、光栄です」

「お座りくださいませ」リミッタは椅子を勧めた。「本日は、ゼルフィアの未来についてお話ししたいと思いますの」

エインベルドは座った。リミッタは彼にティーカップを差し出した。優雅な仕草。完璧な笑顔。しかし、その瞳には、冷徹な計算が宿っていた。

「エインベルド様」リミッタは言った。「ゼルフィアは、現在ソルフィアの特区という扱いですわね」

「はい」エインベルドは頷いた。「シェライト王の支配下にあります」

「それは、不満ではありませんこと?」リミッタは尋ねた。

エインベルドは一瞬、躊躇した。しかし、リミッタの瞳を見て、観念した。「正直に申し上げます。ゼルフィアは、独立を望んでいます。しかし、軍事力も経済力もソルフィアに依存している現状では……」

「ならば」リミッタはティーカップを置いた。「わたくしが、ゼルフィアに『最恵国待遇』を与えましょう」

エインベルドは目を見開いた。「最恵国待遇……それは」

「ええ」リミッタは微笑んだ。「他国が得た最良の条件を、自動的にゼルフィアも享受できる権利。さらに、カレントリアからの優遇的なエネルギー供給契約。これがあれば、ゼルフィアは経済的にソルフィアから自立できますわ」

「しかし」エインベルドは困惑した。「なぜ、あなたがそこまで」

「わたくしは、ゼルフィア出身ですもの」リミッタは静かに言った。「16歳で売り飛ばされた、ソレラント公爵家の令嬢。6年前、シェライト王はわたくしを『ヒノノギ博士のつなぎ姿で猫と戯れる7時間の映像』と交換で、カレントリアへ送りました」

エインベルドは息を呑んだ。

「推し活の取引材料」リミッタの笑顔が、僅かに冷たくなった。「その『属国の小娘』が、今や宰相府の裏を掌握し、各国の要人を骨抜きにする実務の女王になりましたの。そして、祖国ゼルフィアに、特権をもたらす」

「つまり」エインベルドは理解した。「復讐ですか」

「いいえ」リミッタは首を振った。「最適化ですわ。ゼルフィアが強くなれば、カレントリアも強くなる。三国のパワーバランスが整えば、世界は安定する。わたくしは、ただ最適解を実装しているだけですの」

エインベルドは頭を下げた。「分かりました。ゼルフィアは、あなたの提案を受け入れます」

「では」リミッタは書類を取り出した。「こちらに署名を。秘密協定ですわ。表の会議では、この内容は一切触れません。全ては、最終日に『光均衡協定』として発表されますの」

エインベルドは署名した。リミッタは満足そうに頷いた。

「ありがとうございますわ」彼女は立ち上がった。「では、お茶会はこれで終了ですわ。表の会議場へお戻りください。そして、何も知らないふりを」

エインベルドは去った。扉が閉まると、リミッタは深く息を吐いた。

「一人目、完了」彼女はトランスを見た。「次は、エンシアス代表ですわ」

「了解」トランスは新しいティーセットを準備した。

リアクトルは物理防壁を維持しながら、リミッタを見ていた。彼女は変わった。1286年以降、彼女は配線室に来なくなった。あの頃の、僅かな揺らぎは消えていた。今の彼女は、完璧に研ぎ澄まされた刃のようだった。

「リミッタ」リアクトルは静かに言った。「お前、強くなったな」

「当然ですわ」リミッタは微笑んだ。「最適化は、止められませんもの」

彼女の瞳に、もうあの頃の迷いはなかった。



その日、リミッタは五ヶ国の代表と秘密会談を行った。全てがティールームで。全てが優雅なお茶会の形式で。しかし、その内容は、世界の秩序を塗り替えるものだった。

夜、トランスとリアクトルとリミッタは、ティールームで一息ついていた。

「疲れた」トランスは椅子に座り込んだ。「今日だけで、何人と交渉したんだ」

「5人ですわ」リミッタは涼しい顔で答えた。「明日は7人の予定ですの」

「7人」トランスは頭を抱えた。「胃が痛い」

「トランス様」リミッタは心配そうに夫を見た。「胃薬をお持ちしましょうか」

「いや」トランスは笑った。「大丈夫。君が元気なら、それで十分だ」

リアクトルは窓の外を見ていた。表の会議場から、華やかな音楽が聞こえる。シェライト王の主催する夜会だ。

「なあ」リアクトルは振り返った。「表の連中、まだ踊ってんのか」

「ええ」リミッタは冷静に答えた。「『会議は踊る、されど進まず』ですわ。彼らが社交に興じている間に、わたくしたちは世界を動かす」

「すげえな」リアクトルは感心した。「お前、本当に最強だわ」

リミッタは彼を見た。泥だらけだった技術兵は、今や洗練された電導侯になっていた。つなぎではなく、正装。傷だらけの顔は、落ち着いた大人の表情になっていた。

「リアクトル」リミッタは言った。「あなたも、変わりましたわね」

「そうか?」リアクトルは首を傾げた。「俺は、相変わらず泥臭い現場上がりだけどな」

「いいえ」リミッタは微笑んだ。「あなたは、今や最強の『I(実装者)』ですわ。わたくしの設計(V)を、完璧に守り抜く物理防壁」

リアクトルは照れくさそうに笑った。「V×I=P、か。最大電力だな」

「ええ」リミッタは頷いた。「わたくしたちは、最強の相棒(ペア)ですわ」

トランスは二人を見ていた。妻と従弟。完璧な連携。命を預け合う信頼関係。そして、恋愛ではない、何か別の絆。

彼は胃が痛くなった。しかし、同時に安堵もしていた。1286年の、あの危うい空気は消えていた。今の二人は、プロフェッショナルな相棒だった。

「さて」リミッタは立ち上がった。「明日も忙しいですわ。トランス様、お休みになってください」

「うん」トランスは妻の手を取った。「リミッタ、本当にありがとう」

「何がですの?」リミッタは不思議そうに尋ねた。

「全部」トランスは笑った。「君がいてくれて、僕は幸せだよ」

リミッタは頬を赤らめた。「わたくしこそ、トランス様の妻で良かったですわ」

二人は部屋を出た。リアクトルは一人、ティールームに残った。

彼は窓の外を見た。月が美しい。1286年の秋、リミッタは何度も配線室に来ていた。あの頃、彼女は何かに揺れていた。しかし、今は違う。完璧に最適化されている。

「お前、本当に強くなったな」リアクトルは呟いた。「もう、俺みたいな『ノイズ』は必要ねえんだろうな」

彼は笑った。少し寂しかった。しかし、それでいい。彼女は前に進んでいる。それが、最適解なのだから。



1288年11月10日。三帝均衡会議最終日。ヒノノギの誕生日。

グラヴィス宮大会議場に、各国首脳が集まっていた。シェライト王、ヴォルティス王、サーマリス王、そしてゼルフィア女王ティンダリス。

「本日」シェライトが宣言した。「『光均衡協定』を締結する」

協定書が読み上げられた。グラファイトケージ技術の共有。三エネルギー技術協定(SJSC)の成立。そして、ゼルフィアへの最恵国待遇。

シェライトは顔色を失った。「ゼルフィアに最恵国待遇だと……誰がこんな条項を」

「わたくしですわ」声が響いた。

リミッタが立ち上がった。カレントリア代表団の一員として。21歳の若き実務家として。

「リミッタ」シェライトは彼女を睨んだ。「貴様、何を」

「6年前」リミッタは冷静に言った。「陛下は、わたくしを『ヒノノギ博士の映像』と交換で売り飛ばしました。推し活の取引材料として。16歳の少女を」

会場がざわめいた。

「その『属国の小娘』が」リミッタは微笑んだ。「6年間、宰相府の裏を掌握し、各国の要人を骨抜きにし、そして祖国ゼルフィアに特権をもたらしました。これが、陛下の推し活が生んだ歴史的ポンコツ判断への、究極のしっぺ返しですわ」

シェライトは言葉を失った。

ヴォルティス王は笑った。「素晴らしい。カレントリアは、最高の人材を得たようだね」

リミッタは頭を下げた。「ありがとうございますわ、陛下」

協定書が署名された。シェライトの独占野望は完全に崩壊した。ゼルフィアは経済的自立への道を歩み始めた。そして、カレントリアは最大の勝者となった。

全ては、ティールームで決まっていた。



会議後、グラヴィス宮控室。

リミッタはリアクトルと二人きりだった。トランスは別の用事で席を外していた。

「なあ」リアクトルが口を開いた。「お前、あのラノベ。『カレントリア王立技術高校』。あれって要するに……」

リミッタは彼を見た。

「お前、俺みたいな『泥臭いノイズ』に乱されたかったってことか?」リアクトルは真っ直ぐ尋ねた。

リミッタは一瞬、黙った。そして、微笑んだ。

「まあ、自意識過剰ですこと」彼女は優雅に答えた。「これはマーケティング戦略ですわ。読者層のニーズを逆算し、売上を最大化するためにあえて脚色を2割ほど加えただけですわ」

「そうかよ」リアクトルは笑った。

リミッタは彼だけに見える角度で、ほんのわずかに、かつての19歳の少女のような顔で、優雅に微笑んだ。

「本当に計算だけか、どうかしら?」彼女は言った。

リアクトルは息を呑んだ。

「でも」リミッタは続けた。「それは過去の話。今のわたくしには、トランス様という完璧なパートナーがいますわ。あなたは、わたくしの最強の『I(実装者)』。それ以上でも、それ以下でもありませんの」

「I」リアクトルは繰り返した。「電流、か」

「ええ」リミッタは頷いた。「V×I=P。最大電力を生み出す、唯一無二の相棒ですわ」

リアクトルは笑った。「食えねえ令嬢だ」

「当然ですわ」リミッタは微笑んだ。

二人は立ち上がった。リミッタは控室を出ようとして、振り返った。

「リアクトル」彼女は言った。「ありがとう」

「何がだよ」リアクトルは首を傾げた。

「全部」リミッタは優しく微笑んだ。「あなたがいてくれて、わたくしは強くなれましたわ」

そして、彼女は去った。

リアクトルは一人、控室に残された。彼は窓の外を見た。夕陽が美しい。

「サヨナラ、か」彼は呟いた。

少女の恋心への別れ。泥臭いノイズへの渇望への別れ。そして、最強の相棒(ペア)としての新しい関係への、スタート。



リミッタは廊下を歩きながら、トランスを探していた。夫。26歳。博士課程最終学年。来年の春には、博士号を取得する。そして、二人だけの新居へ移る。

「トランス様」リミッタは夫を見つけた。

「リミッタ」トランスは笑った。「お疲れ様」

「ええ」リミッタは夫の腕を取った。「帰りましょう。わたくしたちの部屋へ」

「うん」トランスは妻を抱きしめた。

二人は歩き出した。完璧に最適化された夫婦として。

リミッタの心の中で、泥臭い青春への渇望は完全に昇華されていた。フィクションの中で存分に生きた。だから、現実では迷わない。

彼女は最強の実務の女王。そして、トランスの妻。

それが、彼女の選んだ最適解だった。


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