最適化令嬢
第17話
『論理の仮面とフィクションの解放』
ソルフィア暦1286年、秋。
リミッタは執務室で、伯父ソルダの嘆きを聞いていた。
「リミッタ」ソルダは頭を抱えていた。「推し活資金が、底をついた」
「そうですか」リミッタは冷静に答えた。「では、密輸ルートの最適化による経費削減で対応しますわ」
「それでも足りない」ソルダは真剣だった。「ヒノノギ博士の新作論文集が来月発売される。限定版、特装版、通常版。全て購入しなければならない。さらに、グッズ展開も控えている」
「つまり」リミッタは計算した。「追加で150万ソルム必要と」
「そうだ」ソルダは彼女を見た。「リミッタ、何か良い案はないか」
リミッタは考えた。密輸ルートの最適化は限界に達している。新たな収入源が必要だ。そして、彼女の脳裏に、一つのアイデアが浮かんだ。
「伯父様」彼女は言った。「わたくし、本を書きますわ」
「本?」ソルダは首を傾げた。
「ええ」リミッタの瞳が輝いた。「実録ベースのラノベですわ。『推しの映像と引き換えに敵国に売られた16歳の私ですが、電子回路の知識で宰相府を最適化していたら裏社会の女王になっていました』。タイトルは長い方が売れますもの」
「それは」ソルダは考えた。「確かに面白そうだが……」
「印税は全額、伯父様の推し活資金に」リミッタは畳み掛けた。「さらに、特装版には特別付録をつけますわ。読者層の6割は10代から20代女性。彼女たちが求めるのは、痛快な実務無双と……」
リミッタは一瞬、言葉を止めた。そして、静かに続けた。
「共学の青春ラブコメですわ」
ソルダは頷いた。「分かった。出版社は私が手配しよう」
リミッタは微笑んだ。完璧な計画。推し活資金の確保。16歳で自分を女子高に押し込んだ大人たちへの腹いせ。そして……。
彼女は心の奥底で、もう一つの目的を隠していた。
◇
その夜、リミッタとトランスの私室。
「トランス様」リミッタは夫に告げた。「これから執筆活動を始めますわ。深夜の作業になりますけれど、よろしいですか」
「もちろん」トランスは笑った。「君の才能を活かせるなら、何でも応援するよ」
「ありがとうございますわ」リミッタは執筆用のデスクに向かった。ノートパソコンを開く。白紙のドキュメント。
彼女は深呼吸をした。そして、タイトルを打ち込んだ。
『カレントリア王立技術高校』
共学。同級生。泥臭い青春。16歳で奪われた、経験できなかった世界。
「これは……フィクションですわ」リミッタは自分に言い聞かせた。「ただの願望充足。安全な昇華。それ以上の何でもない」
彼女はキーボードを叩き始めた。
『リミッタ・エラスタンスは、カレントリア王立技術高校の2年生。生徒会執行部であり、完璧主義者の優等生。しかし、地下配線室で出会った泥だらけの特待生、リアクトル・ファリテーナとの出会いが、彼女の完璧な世界に亀裂を入れる』
リミッタの指が止まらない。現実では許されない設定。現実では経験できなかった展開。
『「うるせえ!繋がりゃいいんだよ!」リアクトルは配線を乱暴に繋いだ。「お前の理論なんて、現場じゃ役に立たねえ」
「役に立たない」リミッタは憤慨した。「オームの法則は物理学の基本ですわ。V=IRを無視して、どうやって安全な回路を作れると」
「V=IR」リアクトルは笑った。「じゃあ、お嬢様。Rが変動したら、Iはどう変わる?」
リミッタは息を呑んだ。抵抗値が変動する。電流が変化する。理論だけでは対応できない、現場の動的な変化』
リミッタは夢中でタイプした。画面の中で、リミッタとリアクトルは配線室で火花を散らす。オームの法則を巡る論争。感電事故。逆壁ドン。
「ああ……」リミッタは小さく息を吐いた。「この非最適解の心地よさ……」
現実では絶対にできない。既婚者が、義従弟と。しかし、フィクションの中なら。共学の高校生という設定なら。
彼女は書き続けた。DNA検査で「義理の従兄弟」と判明する展開。テニス部の最適化。文化祭での共同作業。泥だらけのリアクトルが、優しく微笑む場面。
「これは……ただのフィクション」リミッタは呟いた。「わたくしの願望を、安全に処理しているだけ」
しかし、彼女の頬は紅潮していた。心臓は高鳴っていた。
◇
深夜2時。リミッタは第3話まで書き上げた。画面の中で、リミッタとリアクトルは学園祭の準備をしている。照明トラブル。リアクトルが脚立から落ちそうになる。リミッタが支える。
『「大丈夫?」リミッタは心配そうに尋ねた。
「ああ」リアクトルは彼女を見た。距離が近い。「お前、意外と力あるんだな」
「当然ですわ」リミッタは頬を赤らめた。「あなたが倒れたら、照明計画が遅延しますもの」
「それだけか?」リアクトルは笑った。「俺が怪我したら、心配してくれねえのか」
リミッタは答えられなかった』
「ふふ……」リミッタは小さく笑った。「この展開、最高ですわね」
彼女は止まらない。第4話。第5話。リアクトルがバイクで迎えに来る場面。二人でコンビニに寄る場面。泥だらけのつなぎを着たリアクトルが、缶コーヒーを差し出す場面。
「わたくし、何を書いているのかしら」リミッタは我に返った。
しかし、画面の中の物語は、現実よりも鮮やかだった。16歳で奪われた青春。経験できなかった共学生活。泥臭い同級生との、無駄で非効率的な、しかし輝いていたであろう日々。
「これで、完璧ですわ」リミッタは満足そうに頷いた。「わたくしの『経験できなかった青春への渇望』は、これで安全に消費されました。フィクションという形で昇華。これが最適解ですわ」
彼女はファイルを保存した。
そして、ベッドで眠っているトランスを見た。夫。24歳。優しくて、真面目で、完璧なパートナー。
「わたくしは、トランス様の妻」リミッタは自分に言い聞かせた。「これは、ただのフィクション。現実とは別」
彼女はベッドに入った。しかし、眠れなかった。画面の中のリアクトルの笑顔が、まぶたの裏に焼き付いていた。
◇
1286年、晩秋。
リミッタの執筆ペースは加速した。毎晩、深夜まで書き続ける。トランスは心配したが、彼女は「推し活資金確保のため」と説明した。
「そう」トランスは笑った。「頑張ってね」
彼は妻の執筆の内容を知らなかった。知りたくもなかった。妻が楽しそうに書いている。それで十分だった。
リミッタは第10話まで書き上げた。画面の中で、リミッタとリアクトルは文化祭のクライマックスを迎えている。照明トラブルからの復旧。二人の完璧な連携。観客の歓声。
『「やったな」リアクトルは汗を拭いながら笑った。
「ええ」リミッタも微笑んだ。「あなたの実装がなければ、わたくしの設計は机上の空論でしたわ」
「お前の設計がなければ、俺の作業は行き当たりばったりだ」リアクトルは彼女を見た。「V×I=P。最大電力だな」
リミッタは頬を赤らめた。「物理の公式で口説くなんて、あなたらしいですわ」』
リミッタは画面を見つめた。V×I=P。電圧と電流の積が電力。理論と実装の融合。
「これは……」彼女は呟いた。「わたくしが求めていたもの……」
いや、違う。これはフィクション。現実ではない。
彼女は第11話を書き始めた。DNA検査の結果が出る場面。「義理の従兄弟」という設定。だから、恋愛は許される。
「なんて都合の良い設定かしら」リミッタは笑った。「でも、フィクションですもの。都合が良くて当然ですわ」
彼女は書き続けた。第12話。第13話。そして、第14話『コートの女王と二人の王子様』。テニスコートでの最終決戦。リミッタとリアクトルの完璧な連携。勝利。そして……。
『「リアクトル」リミッタは彼を見た。「あなたは、わたくしの『I(電流=実装者)』ですわ」
「I」リアクトルは笑った。「電流か。それとも……」
彼は言葉を続けなかった。ただ、優しく微笑んだ』
リミッタは最後の一文を打ち込んだ。
『特別編:コートの女王と二人の王子様完』
彼女は深く息を吐いた。終わった。全14話。泥臭い青春。共学の恋愛。16歳で奪われた、経験できなかった全て。
「ふう……」リミッタは椅子に背中を預けた。「スッキリしましたわ」
本当に。心の底から。彼女は自分の中にあった「渇望」を、完全にフィクションの中に吐き出した。
「明日からは、通常運転に戻りますわ」リミッタはあとがきを書いた。「最適化は、止められませんもの」
彼女はファイルを出版社に送信した。
◇
そして、窓の外を見た。宰相府の中庭。工事の終わったテニスコート。照明が美しく輝いている。あの照明を作ったのは、リアクトル。
「ありがとう」リミッタは小さく呟いた。「あなたのおかげで、わたくしは自分の願望を理解できましたわ」
そして、彼女は決意した。
「でも、これで終わり。フィクションの中で存分に生きた。だから、現実では……」
彼女はトランスの寝顔を見た。夫。パートナー。人生を共にする人。
「わたくしは、トランス様の妻。それ以上でも、それ以下でもありませんわ」
リミッタは笑った。完璧に最適化された笑顔。
その日から、彼女の地下配線室への訪問頻度は激減した。週に三度から、月に一度へ。
「最近、見ないな」リアクトルは不思議そうに呟いた。
しかし、リミッタは現れなかった。彼女は執務室で、推し活密輸ルートの最適化に没頭していた。完璧な実務家として。完璧な妻として。
◇
そして、1286年10月15日。『最適化令嬢』第1巻が発売された。
初週で30万部。評判は上々。特に、特装版の付録『カレントリア王立技術高校』が大人気だった。
「リミッタ」ソルダは感激していた。「印税が、すごい額だ。これで、ヒノノギ博士のグッズが全部買える」
「それは良かったですわ」リミッタは微笑んだ。
トランスは妻の書いた本を読んでいた。学園パロディ。リミッタとリアクトル。オームの法則バトル。逆壁ドン。DNA検査。
彼は本を閉じた。そして、深く息を吐いた。
「リミッタ」トランスは妻を見た。「この本、面白いね」
「ありがとうございますわ」リミッタは答えた。「フィクションですけれど」
「うん」トランスは笑った。「フィクションだね」
彼は立ち上がり、胃薬の瓶を取り出した。しかし、今回は飲まなかった。
「大丈夫?」リミッタが尋ねた。
「大丈夫」トランスは瓶を棚に戻した。「もう、必要ないから」
彼は理解していた。妻が何を書いたのか。妻が何を昇華したのか。そして、妻が今、どこにいるのか。
リミッタは夫を抱きしめた。「トランス様」彼女は言った。「わたくし、あなたの妻で良かったですわ」
「僕も」トランスは彼女の髪を撫でた。「君が妻で、良かった」
二人は静かに抱き合った。
そして、リミッタの脳内では、既に次のプロジェクトが動き始めていた。1288年、三帝均衡会議。そこで、彼女は最強の実務無双を見せる。
泥臭いノイズへの渇望は、フィクションの中で完全に昇華された。
だから、彼女はもう迷わない。
完璧に最適化された、最強の令嬢として。
