最適化令嬢



第16話
『観測という名の自己欺瞞』

ソルフィア暦1285年、冬。

リミッタは地下配線室への訪問頻度を、週に一度から週に三度へと変更した。理由は明確だった。「配線工事の進捗管理は、宰相府全体の業務効率に直結しますわ」彼女はトランスにそう説明した。

「そうだね」トランスは笑顔で頷いた。そして執務室の引き出しから、新しい胃薬の箱を取り出した。

配線室の扉を開けると、リアクトルはいつも通り作業着姿で配線盤と格闘していた。「よう、令嬢」彼は振り返らずに言った。「また見学か」

「見学ではありませんわ。データ記録ですの」リミッタはタブレットを構えた。「あなたの作業効率を定量化し、最適化プランを策定する必要がありますから」

「へえ」リアクトルは工具を置いて彼女を見た。「で、そのタブレット、さっきから画面消えてるけど」

リミッタは慌ててタブレットを見た。確かに、スリープモードになっている。彼女は咳払いをした。「……バッテリーの問題ですわ」

「充電しとけよ」リアクトルは笑った。からかうような笑みだった。

リミッタは頬が熱くなるのを感じた。彼女は完璧主義者だった。こんな初歩的なミスをするはずがない。それなのに、リアクトルの前に来ると、なぜか思考が僅かに乱れる。

「次回は気をつけますわ」彼女は冷静を装って言った。「ところで、この配線の経路設定ですけれど、もう少し効率的なルートが存在しませんこと?」

「令嬢の言う効率ってのは、机上の空論だ」リアクトルは配線図を広げた。「現場には『壁』がある。『柱』がある。『予算』がある。理論通りにいかねえのが、現実ってやつだ」

「理論を無視した現場主義など」リミッタは反論しようとした。しかし、リアクトルの泥だらけの指が配線図をなぞる様子を見て、言葉を失った。

その指先は、粗雑なようでいて、驚くほど的確だった。壁の厚さ、柱の位置、既存配線との干渉。全てを瞬時に計算し、最短ルートを見つけ出している。理論ではない。経験と直感。泥臭い現場感覚。

「完璧に最適化された系には、外乱が必要」あの言葉が、また脳裏をよぎった。「この泥臭い過電流に……」

リミッタは目を閉じた。違う。これは単なるデータ収集。業務の一環。それ以上の何でもない。

「令嬢」リアクトルの声が近くで響いた。「大丈夫か。顔、赤いぞ」

リミッタは目を開けた。リアクトルが心配そうに彼女を覗き込んでいた。距離が近い。琥珀色の瞳。油の匂い。

「問題ありませんわ」彼女は一歩下がった。「では、本日のデータ収集はこれで終了ですわ」

「おう」リアクトルは首を傾げた。「何も記録してねえけどな」

リミッタは答えず、配線室を出た。



1286年、早春。

宰相府の中庭に新しいテニスコートが建設されることになった。照明設備の配線工事が必要だった。当然、リアクトルが担当することになった。

リミッタは中庭のベンチに座り、タブレットを開いていた。画面には推し活密輸ルートの最適化プランが表示されている。しかし、彼女の視線は、工事現場で働くリアクトルに向いていた。

彼は脚立に登り、照明器具を取り付けていた。汗が額を伝う。つなぎの袖をまくった腕は、傷だらけだった。

「わたくしは、何を見ているのかしら」リミッタは小さく呟いた。

16歳。政略結婚。ゼルフィアからカレントリアへ。女子高への転入。共学で同級生と過ごす青春は、彼女から奪われた。

もし、あの時。もし、普通の高校生活を送っていたら。もし、泥だらけの同級生と配線室で言い合いをしたり、工事現場で一緒に作業をしたりする、そんな青春があったら。

「ありえませんわ」リミッタは自分に言い聞かせた。「わたくしは既婚者。トランス様の妻。これは……」

「リミッタ様」声が背後から聞こえた。振り返ると、トランスが立っていた。

「トランス様」リミッタは慌ててタブレットを閉じた。「どうなさいましたの」

「いや、君がここにいるって聞いたから」トランスは彼女の隣に座った。「工事の監督?」

「ええ」リミッタは頷いた。「照明設備は宰相府の業務効率に影響しますから」

「そうだね」トランスは工事現場を見た。リアクトルが脚立から降りて、何かを確認している。「リアクトル君、優秀だね。伯父さんも褒めてた」

「そうですわね」リミッタは平静を装った。「技術的には、確かに有能ですわ」

トランスは妻の横顔を見た。彼女の視線が、僅かにリアクトルを追っている。彼は胸が痛んだ。

「リミッタ」トランスは静かに言った。「君、最近疲れてない?」

「いいえ」リミッタは首を振った。「わたくしは完璧に最適化されていますわ」

「そう」トランスは立ち上がった。「無理しないでね。僕、執務室に戻るから」

彼は去った。リミッタは夫の背中を見送った。罪悪感が胸を締め付けた。

「わたくしは、何も悪いことはしていませんわ」彼女は自分に言い聞かせた。「ただ、データを記録しているだけ。業務の一環。それ以上の何でもない」

しかし、彼女の心臓は、またリアクトルを見るたびに速く打った。



1286年、初夏。

配線室の定期メンテナンスの日だった。リミッタは「業務効率の確認」という名目で、またも配線室を訪れた。

リアクトルは配線盤のカバーを外していた。「令嬢、また来たのか」彼は笑った。「もう週五回ペースだな」

「記録の精度を上げるには、サンプル数が必要ですわ」リミッタは反論した。

「そうかよ」リアクトルは工具箱から何かを取り出した。「なあ、令嬢。お前、本当にデータ取りに来てんのか?」

リミッタは息を呑んだ。「どういう意味ですの」

「いや」リアクトルは首を振った。「お前のタブレット、いつも画面消えてるからさ。もしかして、俺と話すのが楽しいのかと思って」

「楽しい」リミッタは反射的に否定した。「そんなわけありませんわ。わたくしは既婚者ですのよ」

「知ってるよ」リアクトルは呆れた顔をした。「サイリスタ家の奥さんだろ。別に変な意味で言ったんじゃねえよ。ただ、お前、なんか息苦しそうだなって思っただけだ」

「息苦しい」リミッタは繰り返した。

「ああ」リアクトルは配線を繋ぎながら言った。「完璧すぎんだよ、お前。完璧な奥さん、完璧な実務家、完璧な最適化。でも、人間って、そんなに完璧にできてねえだろ」

リミッタは黙った。彼の言葉が、胸に刺さった。

「まあ、俺には関係ねえけどな」リアクトルは作業を続けた。「令嬢の人生は、令嬢が決めることだ」

リミッタは配線室を出た。廊下で立ち止まり、壁に手をついた。

「わたくしは、何を求めているのかしら」彼女は呟いた。

完璧な最適化。無駄のない回路。16歳で奪われた青春への渇望。既婚者としての罪悪感。泥だらけの技術兵への、説明できない引力。

「これは……エラーですわ」リミッタは目を閉じた。「システムエラー。最適化の失敗」

しかし、エラーを修正する方法が、彼女には分からなかった。



その夜、執務室で、トランスは三本目の胃薬を噛み砕いた。

「トランス様」リミッタが書類を整理しながら言った。「胃薬の消費量が増えていますわ。医師の診察を受けるべきでは」

「大丈夫」トランスは笑った。「ただのストレスだから」

「ストレス」リミッタは心配そうに夫を見た。「何か、わたくしにできることは」

トランスは妻を見た。彼女は本当に心配してくれている。それは分かる。しかし、彼が抱えているストレスの原因は、妻自身が気づいていない場所にあった。

「ありがとう」トランスは優しく言った。「でも、大丈夫。リミッタが元気でいてくれれば、それで十分だよ」

リミッタは微笑んだ。完璧な妻の笑顔。

しかし、その笑顔の裏で、彼女の心は静かに軋んでいた。


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