最適化令嬢
第15話
『最適化された系の臨界点』
ソルフィア暦1285年、秋。カレントリア王国宰相府の地下配線室は、いつも通り静寂に満ちていた。
リミッタ・エラスタンス・ソレラントは、白いブラウスとグレーのスカート姿で石段を下りながら、手元のタブレットに視線を落としていた。19歳。結婚3年目。宰相府の裏帳簿を完璧に掌握する実務の女王。彼女の人生は、無駄のない最適化された回路そのものだった。
「月間推し活密輸予算、300万ソルム。関税回避率87%。完璧ですわ」彼女は満足げに呟いた。
地下配線室の扉を開けると、微かに焦げた匂いが鼻をついた。照明が半分消えている。リミッタは眉をひそめた。「また漏電ですの?」
「おう、悪い。今直してるとこだ」低い声が奥から響いた。
リミッタは足を止めた。配線盤の前に、見たことのない若い兵士がしゃがみ込んでいた。泥だらけの軍用つなぎ。油で汚れた手。ヤンキーのような粗雑な雰囲気。しかしその指先は、驚くほど正確に配線を繋ぎ直していた。
「あなたは」リミッタは冷静に尋ねた。「誰ですの」
「リアクトル。技術兵」彼は振り返らずに答えた。「宰相府の配線工事、今日から俺が担当する」
リミッタはタブレットを開いた。確かに、配線室担当技術兵の交代記録がある。リアクトル・ファリテーナ。19歳。電磁過負荷制御の専門家。
「そう」彼女は言った。「では伺いますわ。その配線の繋ぎ方、オームの法則を無視していませんこと?」
リアクトルは初めて彼女を見た。琥珀色の瞳。傷だらけの顔。そして、僅かに笑った。「お嬢さん、オームの法則なんて現場じゃ二の次だ。大事なのは、確実に電流を流すこと」
「二の次」リミッタは眉を上げた。「V=IRという基本中の基本を、二の次と仰いますの」
「理論は理論。現場は現場」リアクトルは工具を置いて立ち上がった。背が高い。リミッタより頭一つ分。「お嬢さんは計算だけしてりゃいいんだよ。泥臭い作業は、俺らがやる」
リミッタの中で、何かが軋んだ。
完璧に最適化された系。無駄のない回路。計算され尽くした人生。その全てが、目の前の泥だらけの技術兵によって、僅かに乱されようとしていた。
「完全に最適化された系は、やがて停滞する」物理学の教科書で読んだ一節が、不意に脳裏をよぎった。「外乱が必要……ノイズが……」
彼女は彼の泥だらけの指先を見た。油と汗。粗雑で、不完全で、理論を無視した現場感覚。この泥臭い過電流に、少し……。
リミッタは目を閉じた。深呼吸。タブレットを抱きしめる。
「……何を考えているのかしら、わたくし」彼女は小さく呟いた。
「あ?」リアクトルが怪訝そうに尋ねた。
「いいえ」リミッタは完璧な笑顔を作った。「何でもありませんわ。では、配線工事の進捗レポートを毎週金曜日17時に提出してください。フォーマットは後ほどメールで送りますわ」
「……マジかよ」リアクトルは呆れた顔をした。「レポートって、お前、俺は技術兵であって事務員じゃねえぞ」
「規則ですわ」リミッタは踵を返した。「では」
彼女は地下配線室を出た。階段を上りながら、自分の心臓が普段より速く打っているのを感じた。手が僅かに震えている。
「論理的ではありませんわ」彼女は自分に言い聞かせた。「わたくしは既婚者。トランス様の妻。サイリスタ家の嫁。推し活密輸ルートの最適化という重要な任務がある。泥だらけの技術兵など、データの一つに過ぎませんわ」
しかし、彼女の脳は既に、リアクトルの琥珀色の瞳と泥だらけの指先を記録していた。
◇
その夜、宰相府の執務室で、トランス・サイリスタは胃薬の瓶を取り出した。
「トランス様」リミッタが書類を整理しながら尋ねた。「胃の調子が悪いんですの?」
「いや」トランスは曖昧に笑った。「ちょっとね」
彼は言えなかった。昼間、地下配線室の前を通りかかった時、妻とリアクトルが向かい合って話している姿を見てしまったことを。あの二人の間に流れていた、妙な緊張感を。
「最近、配線工事の担当が変わったらしいね」トランスは何気なく言った。
「ええ」リミッタは平然と答えた。「リアクトル・ファリテーナという技術兵ですわ。粗雑で理論を軽視する困った人材ですけれど」
「そう」トランスは胃薬を噛み砕いた。苦い。
リミッタは夫の様子に気づかなかった。彼女の脳内では、既に配線室の照明計画と、リアクトルの作業効率の最適化プランが並行処理されていた。
ただのデータ。ただの作業員。それ以上でも、それ以下でもない。
彼女はそう自分に言い聞かせた。
◇
しかし、その夜、ベッドに入ってからも、リミッタは泥だらけの指先と琥珀色の瞳を思い出していた。完璧に最適化された系に、小さなノイズが混入した瞬間を。
「外乱……」彼女は暗闇の中で呟いた。「不要ですわ」
けれど、彼女の心臓は、まだ普段より速く打っていた。
