最適化令嬢
第5話
『地下配線室のノイズ』
ソルフィア暦1285年秋。カレントリア王国、宰相府地下配線室。
リミッタ・サイリスタは、地下二階の配線図を片手に通路を歩いていた。結婚から三年。彼女は今やカレントリアの宰相府実務の中枢を完全に掌握し、ソルダの推し活ルートから国家予算まで最適化する「影の制御装置」として君臨していた。
「第三系統の配線、老朽化が進んでいますわね」リミッタは壁に埋め込まれた配線を見つめた。「来月の改修工事で全交換が必要です」
彼女は手帳に書き込んだ。宰相府の配線改修。予算は既に確保済み。業者も選定済み。工事は軍の技術部隊に委託する。完璧な計画だった。
その時、通路の奥から声が聞こえた。
「おい、この配線、マジで腐ってるぞ」男の声だった。「こんなの、いつショートしてもおかしくねえ」
リミッタは眉をひそめた。工事は来月のはずだ。なぜ今、誰かが地下にいるのか。彼女は声のする方へ歩いた。
配線室の奥。そこには、泥だらけの作業着を着た若い男が膝をついて配線をいじっていた。工具箱が床に開かれ、テスターが配線に接続されている。
「あなた」リミッタは静かに声をかけた。「誰の許可で、ここに?」
男が振り向いた。彼は驚いたように目を見開き、立ち上がった。「あ、すみません」彼は慌てて頭を下げた。
「雷撃第5分隊の技術兵、リアクトル・トニトルスです。事前調査の指示が出てまして」
「事前調査?」リミッタは首を傾げた。「来月の改修工事のためですか?」
「はい」リアクトルは頷いた。「配線の劣化状況を確認して、必要な部材をリストアップしろって」
リミッタは手帳を開いた。確かに、軍技術部隊への事前調査依頼は出されている。しかし、彼女が想定していたのは、もっと整然とした調査チームだった。目の前の男は、泥だらけで、工具を床に散らかし、まるでヤンキーのような雰囲気を漂わせている。
「分かりました」リミッタは言った。「では、調査を続けてください。ただし」彼女は配線図を指差した。
「この第三系統は優先度が高いので、最初に確認していただけますか?」
「第三系統?」リアクトルは配線図を覗き込んだ。「ああ、ここか。でも、優先度なら第五系統の方がやばいですよ」
リミッタの目が細まった。「第五系統?」
「ええ」リアクトルは配線を指差した。「ここ、絶縁が完全に劣化してます。負荷が上がったら、確実にショートします」
「それは」リミッタは配線図を見た。「私の計算では、第三系統の方が危険度が高いはずですが」
「計算?」リアクトルは首を傾げた。「お嬢さん、現場見ました?この配線、実際に触ってみました?」
リミッタの瞳が、僅かに揺れた。「現場、ですって?」
「ええ」リアクトルは配線に手を当てた。「理論は大事ですけど、現場はもっと大事です。ここ、触ってみてください。振動が異常に大きい」
リミッタは、配線に手を当てた。確かに、振動がある。彼女の計算では想定していなかった、微細な振動。
「この振動は」リミッタは呟いた。「負荷の不均衡による共振ですか?」
「多分そうです」リアクトルは頷いた。「配線図上では問題なくても、実際には負荷が偏ってる。だから、第五系統が先にイカれる」
リミッタは黙った。彼女の計算が、間違っていた。いや、間違っていたのではない。ただ、現場の情報が不足していただけだ。
「分かりました」リミッタは手帳に書き込んだ。「第五系統を優先します。ありがとうございます」
「いえ」リアクトルは笑った。「俺も、配線図見せてもらって助かりました。……で、お嬢さん、誰ですか?」
「リミッタ・サイリスタです」リミッタは答えた。「宰相府の実務を担当しております」
「サイリスタ?」リアクトルは驚いた。「トランス様の?」
「ええ」リミッタは頷いた。「夫ですわ」
リアクトルは少し気まずそうに笑った。「そうだったんですか。失礼しました。お嬢さん、じゃなくて、リミッタ様」
「様は不要です」リミッタは配線図に視線を戻した。「あなたの技術、確かですね。——だからこそ、理解できませんわ」
「は?」
「第五系統の危険を察知できるあなたが、なぜ第三系統の配線を、わざわざ隣の小休憩室と連動させるような『無駄な結線』をしているのですか?」リミッタは目を細めた。「ショートさせる気ですの?」
リアクトルの肩が、ビクッと跳ねた。「そ、それは……」彼は視線を泳がせた。
「現場の負荷を分散させるための、あえての余裕ですよ!カッチカチの理論通りに繋ぐと、いざって時に焼き切れるんだよ!繋がりゃいいんです!」
リミッタは目を細めた。明らかに苦しい言い訳だ。だが、その泥だらけの手で工具を握り直し、強引に配線を繋ぐ彼の粗雑な手つきから——なぜか、視線が離せなかった。
(この無秩序な手法。計算外の動き。……でも、回路は確かに生きている)
(この人は……私の設計を、現場で実装できる『電流』だ)
「……分かりましたわ」リミッタは微かな心の揺らぎを、持ち前の論理で奥底へ押し込んだ。「では、その非効率な調査を続けてください。報告書は、私のところへ」
「了解です」リアクトルは安堵したように頷いた。
リミッタは配線室を出た。廊下を歩きながら、彼女は内心で呟いた。「リアクトル・トニトルス……あの技術兵、只者ではありませんわね」
そして、通路の少し離れた物陰では、トランス・サイリスタが腹部を押さえてうずくまっていた。
(なんだあの状況……僕の妻が、見知らぬヤンキー技術兵とバチバチやり合いながら、妙に息が合っている……!僕の胃壁がショートする!)
しかし、トランスの胃痛はこれでは終わらなかった。わずか数日後、この泥臭い技術兵がサンダーランスの暴走事故で緊急搬送され、軍の生体ID照合によって「ソルダ宰相とDNAが99.99%一致する」という衝撃の事実が発覚することになるのだから。
◇
数日後。宰相府執務室。
トランスは、書類を前に頭を抱えていた。「リミッタ、伯父上がまた無茶を言ってきた」彼は溜息をついた。
「今度はヒノノギ氏の『研究室の換気扇の音』を録音して送れ、だって」
「換気扇の音?」リミッタは眉をひそめた。「それは、推し活の範疇を超えていますわね」
「だろう?」トランスは疲れた顔で笑った。「でも、伯父上は本気だ」
リミッタは手帳を開いた。「では、最適化案を考えます」彼女は淡々と書き込んだ。
「換気扇の音、ソルフィア工科大学の建物配置図から特定可能です。諜報員に依頼すれば」
その時、執務室のドアがノックされた。
「どうぞ」トランスが答えた。
ドアが開き、ソルダが入ってきた。彼の顔は、珍しく青ざめていた。
「伯父上?」トランスは驚いた。「どうなさったんですか?」
「トランス、リミッタ」ソルダは静かに言った。「少し、話がある」
二人は顔を見合わせた。ソルダがこんな表情をするのは、稀だった。
「先ほど……ヴォルティス陛下から、直接通信があった」ソルダは椅子に崩れ落ちるように座った。「軍病院から、生体IDの自動照合データが上がってきたそうだ」
「軍病院?」トランスは首を傾げた。
「雷撃第5分隊の技術兵、リアクトル・トニトルスが、サンダーランスの事故で緊急搬送された」ソルダは両手で顔を覆った。「彼が身を挺して暴走を止めたそうだ。命に別状はないが……血液検査が行われた」
リミッタの手が、止まった。
「その結果」ソルダは震える手で眼鏡を外した。「彼のDNAが、私と99.99%一致した」
執務室が、静まり返った。
トランスは、立ち上がった。「伯父上、それは」
「私の、息子だ」ソルダは静かに言った。「19年間……隠し子として、存在していた」
リミッタは、静かにタブレットを操作した。軍の生体IDシステムに接続し、データを確認する。確かに、リアクトル・トニトルスのDNAは、ソルダ・サイリスタと99.99%一致していた。
「母親は?」トランスは尋ねた。
「エミッタ・ファリテーナ」ソルダは答えた。「1266年、私がまだ若かった頃の……彼女には、すまないことをした」
ソルダは深く項垂れた。「私が配備を推進した兵器で、私が19年間知らなかった息子が傷ついた……父親として、いや、宰相としてあるまじきことだ……」
リミッタは、データを見つめた。リアクトル・トニトルス。年齢19歳。雷撃第5分隊所属。技術兵として、優秀な成績。そして、ソルダの息子。
「つまり」リミッタは静かに言った。「リアクトルさんは、トランス様の従兄弟ですわね」
トランスは、呆然としていた。「従兄弟?」
「ええ」リミッタは頷いた。「ソルダ伯父様の息子なのですから、トランス様の従兄弟です」彼女は目を細めた。
「そして、私にとっては『義理の従弟』ということになりますわね」
トランスは、椅子に座り込んだ。「まさか」彼は呟いた。
「あのヤンキー技術兵が、僕の従兄弟だったなんて」
「ヤンキー技術兵?」ソルダは首を上げた。
「ああ」トランスは頷いた。「先日、配線の事前調査に来た……」
リミッタは、静かに微笑んだ。「優秀な技術兵ですわ」彼女は言った。
「私の計算の穴を、現場感覚で指摘できる唯一の『電流』です」
トランスは、リミッタを見た。彼女の瞳に、僅かな光が宿っているのを見て、彼は内心で呟いた。
(リミッタが……誰かを、こんな風に評価するなんて)
胃が、キリキリと痛んだ。
◇
その夜。リミッタは、執務室の隣の仮眠室で一人、手帳を開いていた。
「リアクトル・トニトルス」彼女は名前を書いた。「義理の従弟。現場の『電流』」
彼女は、数日前の配線室での出来事を思い出した。泥だらけの作業着。配線に手を当てる姿。そして、理論ではなく、現場で判断する眼差し。
(あの人は)リミッタは思った。(私にはない、何かを持っている)
彼女は手帳を閉じた。そして、窓の外を見つめた。
「共学」リミッタは呟いた。「もしも、私が普通の高校に通っていたら」
彼女は首を振った。「いいえ。無駄な仮定ですわ」彼女は立ち上がった。「私は、最適化を司る者。感情に流される余裕はありません」
しかし、彼女の心の奥で、小さなノイズが鳴り響いていた。
(でも)
(もしも)
リミッタは深呼吸をした。そして、机の上の書類を見つめた。
「ならば」彼女は静かに呟いた。「この感情を、安全に処理する方法を考えましょう」
彼女は新しいノートを開いた。そして、タイトルを書いた。
『カレントリア王立技術高校パロディ特典小冊子・企画案』
リミッタの瞳が、静かに輝いた。
「史実では存在しなかった、共学の青春」彼女は呟いた。「ラノベの中でなら、完璧に昇華できますわ」
彼女はペンを取り、書き始めた。登場人物。リミッタ(転校生のお嬢様)、リアクトル(ヤンキー技術兵)、トランス(生徒会長)。設定。カレントリア王立技術高校。学園祭。VとIのオームの法則バトル。壁ドン。血縁発覚。
リミッタの手が、止まらなかった。
◇
翌朝。執務室。
トランスが出勤すると、リミッタが既に机に向かっていた。彼女の前には、大量のノートが積まれている。
「リミッタ?」トランスは驚いた。「徹夜したのか?」
「ええ」リミッタは涼しい顔で答えた。「新しいプロジェクトを思いつきまして」
「新しいプロジェクト?」
「ラノベです」リミッタは微笑んだ。「『最適化令嬢』シリーズの特装版小冊子。学園パロディを執筆します」
トランスは呆気に取られた。「学園パロディ?」
「ええ」リミッタは頷いた。「史実では存在しなかった、共学の青春を描きます」彼女は目を細めた。「そして、その印税はソルダ伯父様の推し活資金に回します。一石二鳥ですわ」
トランスは、リミッタの瞳を見た。そこには、いつもの冷徹さと、僅かな光が混ざっていた。
「リミッタ」トランスは静かに言った。「君、楽しそうだな」
「楽しい?」リミッタは首を傾げた。「いいえ、これは実務です」
「そうか」トランスは笑った。「なら、頑張ってくれ」
リミッタは頷いた。そして、再びペンを取った。
窓の外、カレントリアの秋空は澄んでいた。リミッタの心の奥で鳴り響いていた小さなノイズは、今、ラノベという形で昇華され始めていた。
そして、彼女はまだ知らなかった。この小冊子が、数年後、シェライト王に特大のブーメランとして返ってくることを。
