短い話まとめ


とんこつ味のキミが好き

  



 恋人の部屋に来るのは一週間ぶりだった。浮き立つ気持ちを落ち着けたくて、試合前と同じように小さく息を吐く。
 程よい緊張感を残したままインターホンを鳴らし、耳をそばだてると、ドアを隔てた向こうから足音が近づいてくる。この音がするといつも、映画の幕が上がる前みたいな気分だった。恋人同士の甘いひとときを描いた作品は、誰にも観られることなく今日もひっそりと上映される……こんな馬鹿げたことを考えてしまうほど、この関係にのめり込んでいた。 

 幕代わりのドアが開かれ、出迎えてくれたお相手役は歯ブラシをくわえていた。風呂はまだのようで、学校で会ったときと同じ格好のままだ。
 先生は中に入るよう手ぶりで促し、オレの明日刈る予定の頭を雑に撫でてから洗面所に消えた。
 くっついていきたい欲を堪えて居間に行くと、ストーブはついているが少し肌寒い。めずらしい、と思った。いつもなら暑すぎるくらいに部屋を暖めて待っていてくれるから。
 手を洗うため向かった台所。シンクに食器が浸け置きされている。先生を待つあいだ勝手にお湯を沸かしつつ、いつもより散らかった部屋を眺めた。寝て起きたままのベッドに部屋着のスウェットが投げ出されていて、テーブルの上は雑誌や指導書が所狭しと置かれている。普段は奥の間に片付けられている洗濯物も窓際に干されたままだった。一緒にいないとき、こうして少し雑な生活をする恋人を思い浮かべるとつい頬がゆるむ。

 やかんの音が沸騰したことを知らせ、ティーバッグを入れておいた青いマグカップにお湯を注いだ。この紫陽花みたいな色に澄んだ緑色が広がっていくのが綺麗で、緑茶のときにはコレ、と決めていた。
 先生が戻ってきて隣に立つと、戸棚から自分の分のマグカップを取り出した。内側が白い紺色のカップは、使い込まれて少し茶渋で汚れている。

「すまん、寒いだろ」
「いや……そんなに。帰り遅かったんですか?」
「早かったよ。ちょっと友達と飯行ってたんだ」 
「その友達って、ワゴン車乗ってますか?」
 
 来る途中のことだ。正面から明かりが近づいてきて慌てて電柱の裏に隠れると、一台の車が走り去って行った。
 こうして先生の家に通うようになってから、時間が時間であるがゆえ車や人が通ることは今までなくて。そもそもこの先は突き当たりに神社があるだけで、こんな時間に誰が……そう疑問に感じながら、息を殺してやり過ごした。

「ああ、すれ違ったか?」
「はい。でも隠れてたから、たぶん……大丈夫」
「そうか」

 先生の手が伸びてきて、うなじに触れた。いつも通りだ。微笑みながら感触を楽しんで、そのまま引き寄せれてキスをする。……はずだった。引き寄せられるまではいつも通りだった。
 あ、くる。そう思って目を伏せると、キスされたのは口ではなくてこめかみだった。
 手が離れうなじから体温が逃げていく。その手は、紫陽花みたいなカップから紺色のカップに小さな袋を移して、紐を操る。ティーバッグが揺らされて、緑色がお湯に滲む。

「新しいの使わないんですか」
「ん、飲めればいい」

 少し眠そうな横顔。はじめのうちは感情が読めない無表情に、怒っているのかと、なにかしただろうかと不安になったこともある。
 
「眠そうですね」
「ばれたか」
 
 目尻にシワを作って先生が笑った。眠いだけだとわかってからは、羽根布団で包むみたいに抱きしめて、腕の中で寝息を聞かせて欲しいと思うようになった。それと同時に、一緒に眠ることができたら幸せだろうな、とも思う。 

 テーブルの雑誌やらを床に追いやり、ふたつのカップの居場所を作りながら、先生は「散らかってるな」と笑う眉をさらに下げた。へたりきった絨毯に座り、お茶を飲んでもテレビを見ても、意識は常にとなりにあった。
 くっつくか、くっつかないかの距離がもどかしい。
 
「なに食べたんですか?」
「駅前に最近ラーメン屋できたの知ってるか? 遅くまでやってるからって、ほら。あいつと」

 友人に誘われ一緒に食事に行ったことや、その友人との昔話。棚に飾られた写真を指さして楽しそうに話す表情は、その古い写真に写る恋人の面影がある。
 たくさん聞いて、たくさん話した。なかでも今の学校生活が昔とどれほど違うかで盛り上がり、溢れるように笑いあった。そのうちにふたりの距離はなくなっていて、お互いに笑いの余韻を残しつつ、まだ微かに湯気の立つお茶で口を湿らせる。
 
「お茶どうですか」
「薄いよ。交換するか?」
「え、嫌ですなに言ってんですか」
「恋人の淹れたお茶はうまいぞ」
  
 そう言ってこちらに向けられた顔を、意味ありげな顔で見つめた。よく可愛いと言われる表情で。こんな、口をとがらせ拗ねたような顔は先生にしか見せないし、これを可愛いと言うのも、先生だけだ。
 平日の夜なんて時間が限られている。そろそろ、そういう時間じゃないだろうか。

 瞳に込めた意味を察したのか、少し硬い指先にうなじを撫でられる。そう、「いつも通り」のやり直しだ。
 首から広がる手のひらの温度に、いつも通りゆっくりと胸は高鳴っていく。引き寄せられ、ふんわりと抱きしめられると香る先生のにおい。
 ああ、くる。やっと――そう思って目を伏せると、頬に髭と唇の感触がした。……頬に? 頬?

「え」
 
 もどかしい距離はなくなった。それなのにこんなにももどかしい。
 なぜキスしようとしないのか……それならばこちらからキスをしようと顔をずらすと、逃げるように避けられた。まさか避けられるとは思っていなかったから、調子外れな声が出てしまった。

「せ、先生……?」
「ラーメン食べたから」
「知ってますけど」
「だから今日は、しない。」
 
 とんでもないことを言い放った。口に手を添える姿は上品な貴婦人みたいで、そんな恋人に唖然とするしかなかった。ラーメンを食べたからなんなんだ。口を隠す手を掴むが、びくともしない。

「いやいやなにを……」
「匂い……気になるだろ」
 
 そんなことで今までお預けをくらっていたのかと、思わず鼻で笑ってしまった。両手でもって引き剥がそうとすると、対抗するように先生も両手で口を覆う。
 限られた時間に繰り広げられる無意味な戦いは、誰かに見られたら何をしているのかと思われるだろう。

「ちょっといい加減……」
「おいやめろ」 
 
 かたくなな態度に腹が立ち、あえてわかるほどの大きなため息をついた。立ち上がり、テーブルにマグカップを残したままドアに向かう。片づける気にもならなかった。
 いつも通りなら、居間のドアを開ける前にキスをして、玄関を出るまえにもキスをする。名残惜しくて何度も唇を押しつけて、何度も押しつけられる。そんなキスだ。
 振り向くと先生は座ったままで、動く気配すらない。
 
「オレ、帰りますよ」
「気をつけて帰れよ」

 ああ、最悪だ。先生は、もっと最悪だ。
 今日のこの時間をどれほど待ち望んでいたのか、わかっているはずなのに。
 ひらひらと手を振って、見送る気もないようだ。その表情がなんだか勝ち誇ったように見えて更に腹が立ち、ドアノブに手をかける。部屋はすっかり暖かいのにドアノブのステンレスは冷たくて、手のひらから熱が吸い取られていくみたいだ。

 ここを出たら帰るしかない。二人で会えるまで、また数日は会えるが会えない、もどかしい気持ちで過ごさなければいけない。
 顔だけ向いて目をやると、ベッドにもたれかかり口をつぐむ先生と視線がぶつかった。
 まるで我慢比べをしているような、意地の張りあいをしているような、お互い視線をそらさない時間。耐えられなくなり前を向いて、ドアノブを握る手に力を込める。

 ただ一緒にいたいだけなのに。なぜこんなことになっているんだろう。なぜ引き留めてくれないんだろう。後ろから抱きしめて、ひと言「ごめん」と言ってくれれば、なんでも許してしまうのに。
 聞こえるかわからないほどの小さな声だったと思う。

「……キスしたい」
「おいで」
 
 ゆっくり近づいて、先生のあぐらの上にまたがった。我慢比べでも意地の張りあいでもなく、見つめあう。頬を包まれ、顔が近づき、鼻先同士が触れた。もどかしいのに、今はそれさえ恋しく思う。
 目を伏せると髭に撫でられ、キスをした。今度こそ唇に。触れるか触れないか、そんなのを繰り返し、下唇をやわく噛んだ。

「舌は入れるなよ」
「お茶交換してあげるんで、駄目ですか」
「だめ」
 
 こっちが折れたのに意地っ張りだと思ったが、また言いあっている暇はない。上映時間は後わずか、幕が下りるまで甘いひとときを、ひっそりと。

 



 
 
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