短い話まとめ



何度でも





 今日の部活は監督不在で、それに喜ぶ部員も少なくない。
 校内ではポロシャツにベージュのズボン、祝勝会とかのかしこまった場面でも、スーツの上着を羽織るだけ。そんな人が今日は見慣れないワイシャツにネクタイ姿で、校長と共にタクシーに乗り込むのを部員達が目撃している。自分もその一人だ。 
 マネージャーの叱咤激励の声が響くなか、黙々と、淡々と。いつもよりも集中していたかもしれない。なにも考えないように、目の前の練習に取り組んだ。 
 寮に帰っても変わらない。なにも考えないように、黙々と、淡々と。飯はいつもより食った、風呂は肩まで浸かって温まった、あとは寝るだけだ。明日は朝練がないから、少しだけゆっくり起きられる。
 
 布団に倒れこんで大の字で天井を見上げた。ポケットに手を突っ込むと、ギザギザの形の金属に触れる。先生の部屋の鍵。取り出して天井にかかげれば、キーホルダーが揺れた。
 
 部活に顔を出さず、どこに行くのかは聞かされていた。先生は今頃、お見合いの待った只中だ。断りきれなかったと話す顔は、逆に申し訳なく感じるほど沈んでいた。大人の事情とやらがあるんだろう。子供には理解できないだけで。そう納得していたつもりだった。
 見知らぬ男女が人生の伴侶を探し求め、出会う、それがお見合いだ。先生が他の誰かと出会い、そのあとは――? 
 
 次の日に朝練がない日は、少ないながらも二人の時間をつくって関係を進めてきた。好きな映画、曲、本、色、ゆっくりと知っていった。好きだと伝えればキスで応えてくれて、先生で満たされていくのが嬉しかった。
 それなのに、次の日に朝練がない今日、今。一緒にいるのは知らない誰かだ。場の空気を壊さないように笑顔で酒でも飲んでるんだろう。でも、相手がその気になったらどうするんだろうか。断りきれずに、そのまま――?

「あ゙ーっ! もうっ! 考えるなって!」
 
 勢いよく起き上がって机の引き出しを乱暴に開けた。鍵を奥の奥にしまいこんで、椅子に腰かける。頭を机に突っ伏して目をつむった。 
 帰りが遅くなるから部屋で待ってろと渡された合鍵。遅くなるって、なんでですか? 「恋人がいる」って帰ってくればいいじゃないか。そもそもはじめっから断れば良かったじゃないか。無理なことだとわかっていても、溢れ出す気持ちは止まらなかった。
 交際、結婚、妊娠、出産。大人の男と女なら、なんの問題もない。
 恋人らしく出かけることも、結婚することもできない、大人の男と子供の男。一緒にいるには問題だらけだ。
 時間をかけても年の差が縮まらないように、心の距離も埋まらないのかもしれない。大人がなにを考えているか理解できないように、先生のことも信じられないかもしれない。強い覚悟の上で一緒にいるはずが、こんなにも脆い。

「……っ、」
 
 明日、腫れた目を見てなにを思うだろう。たくさん心配したらいい、そんなことを考えるなんて、本当に子供だと思った。
 


──────────

 


 最近ではあまり着ることがないスーツは窮屈で、きつく結んだネクタイは「こうあるべき」という圧力に縛られて身動きが取れない。そんな気分だ。

 長さも幅もある長方形のテーブルに、上司の友人夫婦が座り、その隣には馴染みのない女性。テーブルを挟んで正面には自分と、隣の上司は入口に一番近い位置に腰をおろした。
 上座と下座の位置に違和感を覚えるが、それが「この場」での自分の立場を示していた。主役はひかえめに酒を飲むこの女性だ。
 入口に近い席に上司が座る理由も、求めてもいない上げ膳据え膳、据え膳食わぬは男の恥、なにも考えず主役の相手をしろとでも伝えたいのだろう。
 彼女は、まつ毛の隙間からこちらに視線を向けて、目が合えば軽く微笑んだ。整えられた指さきで箸をもち、艶のある唇に小さな一口を運ぶ。細い首はなだらかで、鎖骨にかかる髪の毛を耳にかけ、その耳たぶには小ぶりのイヤリングが輝いている。慎ましい印象の綺麗な人だ。
 
 上司達は酒を楽しんで雑に場を盛り上げたあと、「じゃ、あとは若いおふたりで」とお決まりの言葉を残し帰って行った。 
 さりげなく腕時計を確認すると、予想より時間がまわっていて思わず溜息が出そうになった。
 部屋では松本が待っている。上司達の相手で遅くなるからと渡した合鍵を、使わせることなく迎えてやりたかった。夜は冷え込む日が増えたこの時期、寒い思いをして待っていないだろうか。

 取り残されてからそう経っていないが、上司への義理は果たしただろう。そう思い彼女に解散を申し出ると、微笑みを浮かべていた顔が凍りついたのがわかった。
 大きく深呼吸をして、グラスに半分以上残っていた酒を一気に飲み干していく。豪快に喉を鳴らして飲むさまは、先ほどまでの慎ましい姿よりも親しみが持てそうだった。
 空になったグラスを持ったまま口をきつく結び、訴えかけるような瞳で見つめてくる。知り合ったばかりの彼女がなにを言いたいのかはわからない。

「……私じゃ駄目ですか?」
 
 消え入りそうな声だった。先ほどまでの飲みっぷりとは打って変わって、まるでか弱い少女のようだ。

「高校生のころ、憧れていたんです。もちろん面識なんてないです……堂本さんがバスケする姿がかっこよくて、練習や試合、よく見に行っていました。だから今日はすごく嬉しくて……」
 
 大変ありがたい話だが、正直早く帰りたいと思っていた。この先どれだけの出会いがあろうと結婚はしない。感謝と謝罪で頭を下げている間も、松本のことばかり考えていた。
 最低だとわかっていながら、彼女を置いて店を後にする。後日上司からうんざりするほど非難されることも承知の上だ。
 
 
 数年前に店を閉めた駄菓子屋の前でタクシーを降りた。その建物の二階にある部屋を見上げると、窓の明かりが消えている。
 時計を確認しながら急いで階段をのぼり玄関を開けると、ある筈のスニーカーがない。
 冷静さは失わないように、辺りを見回しながら松本の住む寮まで歩いた。ベランダ側にまわり遠目に見れば、部屋の明かりがついていた。
 まさか来る途中になにかあったのかと思ったが――杞憂に終わったようで胸を撫で下ろす。松本の意思で来なかったのなら、どうもこうもないだろう。

 朝練がない前日は、少ない時間を大切に、少しでも気持ちが伝わるように過ごしてきた。松本が年齢差を口にするたび、関係ないと伝えてきたつもりだった。
 断れなかったこの縁談話、「大人って大変ですね」なんて笑っていたから、気にしていないとばかり思っていた。そんなはずがないのに、大人の都合で振り回し寂しい思いをさせてしまった。
 大きく溜息をつくと、首に巻かれたネクタイが息苦しく感じる。すぐに外して解放されたいが、「こうあるべき」が分かる大人になってしまった今、身動きが取れずにいる。
 きつく抱きしめて好きだと伝えたい。
 いや、会えたとしても、酒の匂いを漂わせながら抱きしめられるはずがない。会えなくてよかったんだ。
 体の力が抜けていき、体の重さが重力に耐えられずその場にしゃがみこむ。それからしばらくは動くことができなかった。
 


──────────

 


 寮から歩いて十五分。今までは感じなかった木の揺れる音や、点滅する消えかけの街路灯に意識が向いた。暗闇に誘うような、引き込まれるような気がして、自然と足早になる。
 古い建物の二階が先生の家だ。外階段をのぼり、少し震える指でインターホンを押した。
 今までならすぐに足音が聞こえて出迎えてくれていたのに、反応がない。もう一度押すべきか、それともポケットに忍ばせてきた合鍵を使うべきか。ポケットのなかに手を突っ込み、鍵についたキーホルダーを触りながら考える。 
 革でできたキーホルダーはバスケットボールをモチーフに作られていて、高校時代、仲間とインターハイ前に作ったものらしい。使わなくなっても大切に取っておいたこれを合鍵に付けてくれた時は、自分も大切にしてもらっている気になって嬉しかった。
 
 立ちすくんでいるとバタバタと慌ただしい音が近付いてきて、勢いよく玄関が開けられた。乾燥した空気に混ざり、ふわりと嗅ぎ慣れた香りがした。先生の部屋のにおいだ。
 目の前の、数時間ぶりに会う先生が驚いたような顔をしている。それもそのはずだ。先週、先々週と理由も伝えず来なかったんだから。
 裸足のまま玄関の床に立つ姿は、さっきの慌ただしい音と相まって、いかに慌てていたのか想像できた。ここに着くまでの不気味な感覚がすとんと抜け落ちる。
 どんな顔をしていいのか分からなくて俯くと、ポケットに入れていた方の腕を引っ張られ、鍵がコンクリートの地面に音を立てた。
 
「……もう来ないかと思った」
 
 痛いほど力強く抱き締められた。
 少し見上げながら言う姿は、子供がはぐれた親を見つけた時の顔みたいだ。喉がつまって言葉を返せない。

「会いたかった」
「……オレもです」

 抱き締め返したいのに、きつく回された腕がそうさせてくれなかった。

「ちょっと痛い、です」
「……すまん。あがってくれ」
「はい……」

 部屋を見回して、なにも変わらない様子にそれだけで安心できた。大丈夫、なにも変わらない。そう何度も心の中で繰り返す。
 足を洗い終え戻ってきた先生は、いつもの隣ではなく、向かい合うように座った。それが普段とは違うことを意味していて、途端に空気が重く感じる。

「すまん」

 先に切り出したのは先生だった。二人の時には見たことがない、真剣な顔だった。

「松本の気持ちを考えたら、あの話は何であれ受けるべきじゃなかった。二人の関係やお前に甘えてしまって……傷付けて本当にすまない」

 大人の事情を納得したつもりになって送り出したのはこっちの方だ。前々から縁談話を持ちかけられては、のらりくらりと誤魔化していたのを知っていたのに、見慣れない格好で校長とタクシーで走り去る姿は、離れていってしまうようで寂しかった。
 もし相手が綺麗な人で、もし話が弾んでしまったら?この部屋に帰って来なかったら?合鍵を返せと言われたら? 最悪の成り行きばかり想像して勝手に疑って、そんなの耐えられないと子供みたいに拗ねたのはこっちの方だ。
 逃げ出したのに、結局、会いたい気持ちに抗えず会いに来てしまった。好き勝手する子供だ。

「謝らないでください……謝るのはオレの方で、すみません……ほんとガキで、オレ、なにから伝えたらいいかっ、す、みません」
「会えない間に、本当はこのまま離れていった方がいいと思ったんだ。だから」
「いやだっ! オレっ、先生とずっと、一緒にいたいっ……」

 喉の奥が痛い。鼻がつまる。うまく言葉にもできない。上を向いて、泣かないようにするだけで精一杯だった。

「松本……こっち見なさい」
 
 固く握った拳に手が重ねられ、恐る恐る頭を下げると、先生も泣きそうな顔だった。眉毛も髭も歪ませて、まるで子供みたいだった。
 その顔を見たら堪えられなかった。行き場のなかった涙はぼたぼたと流れ落ちて、着ていたパーカーにシミを作っていく。
 先生の手が何度も涙をぬぐって、涙の冷たさが手の温かさで上書きされる。

「考えていたんだ。一緒にいても辛いばかりで、今ならまだ、なかったことにできるんじゃないかと……それでも、離してやれない……どうしようもないほどお前が好きなんだ」

 鼻がつまって口を開けるしかなくて、涙でぐちゃぐちゃできっと情けない顔をしている。
 でも先生も泣いていて、もう色んなことがどうでもよかった。大人だとか子供だとか、好きならなんだっていいじゃないか。
 髭に伝う涙に触れると冷たくて、温めるように先生の頬を両手で包んだ。
 
「好きです。ずっと一緒にいてください」

 何のひねりもない、思い出に残るような愛の言葉ではない。そのかわり何度でも伝えたい。
 
「ああ、お前のせいで一生独身だ。責任もって一緒にいろよ」
  
 これから不安になることが何度あっても、そのたびに弱さを見せて歩み寄りたい。覚悟なんかなくても、存在が当たり前になっている日がくると信じて――そしたらきっと、ずっと隣で笑っていられるはずだ。



──────────




「……しょっぱいな」
「先生、たりない……」
「続きは鼻かんでからな」






 

 
 
3/15ページ