短い話まとめ


共犯者





 先生の部屋は、暑さに弱く寒さにも弱い。
 葉の色が赤や黄色に変化していくこの季節、朝晩は冷えこむ日が多くなり今も暖房をつけているが、寒冷地に適した機能をもつ煙突式の石油ストーブは、そこまで広くない室内をすぐに暑くしてしまう。設定温度を下げようかとも思ったが、シャワー中の部屋の主が風呂から上がったときに、万が一寒がってはいけないと触らずにいた。
 ベッドに寄りかかり伸びをすると、んーっと喉から声が出る。手持ち無沙汰で、テーブルに置いてあった新聞や雑誌のなかから地域情報誌を選び目を通すが、ぽかぽかとした空気と小さい活字が眠気を誘い、まぶたが重くなってくる。
 洗面所で音がするから、もうすぐ戻ってくるはずだ。はやくはやく……そう唱えながらも堪えられず目をつぶると、現実感が薄れ体が浮かんでいるような、ふわふわとした感じがした。
 
「待たせてわるい。って寝てるのか?」
 ――ああ、やっときた。まどろみのなかで聞く恋人の声は格別だ。

「起きてますよぉ」
 完全にだらけた姿勢のまま目も開けずに答えると、気配が近づいてきて小さく笑う声がした。
 風呂上がりのにおいをさせた先生が、ベッドと、そこに体をあずけきったオレの間に割りこんでくる。

「もっと前いけるか」
「んん、ちょっと……なんすか」
「ほら、ずれろって」
 グイグイと押され強制的に起こされて、無理やり腰をおろした先生に後ろから抱きしめられる体勢になった。
 もとよりこの部屋は暖まり過ぎている。さらに、隙間なく密着したことで腕が触れて肌がしっとり張りついて、服で隠れた部分はじんわりと新たな熱を生み出している。

「狭いっすよ。隣座ればいいのに」
 文句を言いながらわざと体重を後ろにかけると、先生も負けじと後ろから思いきり腕に力を込めてきた。

「いたたたた、痛い痛い」 
「淋しいこと言うなよ。それ見てたのか?」
「ふふ、はい」
 膝から床に滑りおちた地域情報誌を手に取り、真ん中辺りに載っていた特集記事の頁を開いてみせる。

「この人、オレ知ってるんですよ」
 そう言って、『全国を制した若き指導者に訊く。』山王工業高校バスケットボール部監督・堂本五郎、と書かれた文字の隣の写真を指さした。

「ほう。確かに見たことある顔だな」
「この人はですね、オレの好きな人です」
 そう言って、でかでかと誌面に載っている先生の髭に指をあて、実際の髭とは違うツルツルの髭を撫でる。悔しいけどかっこいいな、好きだな、と顔がにやけた。

「お前は……」
 先生が深いため息をついて、はっと我に返った。
 なんて恥ずかしいことをしているのだろうか。なんとかごませないかと思ったが、髭だけじゃ飽き足らず誌面越しに頬や頭も存分に撫でたあとで、もう手遅れだった。寝ぼけてるのか、目を覚ませ! と自分を殴りたい気分になった。

「あー、はは……すげー恥ずかしい」
 ぱっと手を引っ込めようとしたが、先生の手に捕まった。人差し指をきゅっと握られて、先生の指の腹が、何回も爪の先端をなぞる。
 先生は何も言わずに、オレの指で遊んだ。できれば、笑うでも呆れるでもいいから何か言ってほしい。できれば、オレを恥ずかしいままにしないでほしい。

「なんか、言ってくださいよ……」
「うん」
 いつもより低い声だった。
 ああ、これは――そう思ったと同時に、うなじに突然こそばゆい感触がして、肩が軽く跳ねた。

「あの、ちょっと」
 身をよじって逃げようとするオレに対して先生は、少しずつ場所を変えて髭と口を汗ばむうなじに押しつける。

「汗かいてるな」
 濡れた舌が這った。ぶわっと一気に体温が上がったような気がした。恥ずかしい、熱い、熱い。

「……しようか」
「え」
 時間を見ようと視線を壁にやったが、頬を掴まれ後ろを向かされ、結局何時なのかはわからないままだった。先生に火がついた理由もわからないままで、はじめっから最高潮のときのようなキスをされた。口を塞がれ鼻で必死に息をする。先生の鼻息や口から洩れるささやきが熱くて、言葉とも呼べないような、くぐもった声で応えるのがやっとだった。時間を忘れて、舌が絡まるのと同じように脚を絡め、手を重ね、想いも身体も重ねあわせた。




   ◇




「松本! 起きろっ」
 慌てたような先生の声で、何事かと飛び上がるように身を起こした。オレも先生も、ふたりとも素っ裸だった。

「ぁー……オレ寝ちまったんすね、帰ります」
 喉が乾燥していて、声がかすれた。

「松本」
 先生がカーテンを開け放つと、月が出ているはずの空は薄明るく、夜訪れるときには真っ暗な闇にしか見えない空き地が奥の方まで見渡せた。

「朝だ」
「あ、あさ……?」 
 そんなはずは――と枕元の目覚まし時計に目をやると、あろうことかデジタル表示の数字は早朝を知らせていた。

「急いで準備しなさい」
 トランクスだけ履いた先生が、オレの脱ぎ散らかした下着や服を集めて寄越して、洗面所に消えた。何かの間違いじゃないかと改めて時計を確認するが、やはり朝の五時になるところだった。
 まだ頭が追いついてこないのに、心臓は皮膚を破って飛びだしてくるんじゃないかと思うほど激しく暴れだす。
 まるで自分の体じゃないみたいなぎこちない動きで服を着ながら、明けたつもりのない夜を振り返った。のぼせあがる行為や、先生の果てた顔までは覚えている。そこからは思い出せなかった。きっと終わってすぐにふたりで寝ちまったんだろう。しかも朝までぐっすりと。
 はっきり理解すると、寒くもない部屋なのに鳥肌が立ち背筋が凍った。帰らないと。帰らないとまずい。立て、動け、と指令を出すのに、体がいうことをきいてくれない。
 そこに相変わらずトランクスだけの先生が、手に濡れたタオルを持って戻ってきた。

「先生……」
「すまん、俺が悪い」
 ベッドに座るオレの前にしゃがんだ先生は、今までにない真剣な顔で言った。大丈夫だから、とも言った。
 先生はお湯で濡らしたタオルでオレの顔と首を拭いて、次に手のひらを拭いた。こんなときでも手つきは優しい。拭きあげた手をタオルで包まれると、湿った温かさと先生の優しさにほっとした。
「大丈夫だから」先生はもう一度、そう言った。 
 先生のところに連絡がきてないことを考えると、きっと大事にはなっていない。それでも何かあったときの対応を確認しあった。
 ふたりで口裏をあわせる行為は、まるで共謀して罪を犯しているようだった。もし問い詰められたとしても、本当のことを言うつもりはない。しかし嘘をつかなければいけない状況に、心が張り裂けそうな気もしたし、萎んでいくような気もした。
 玄関を出る前に、お互い骨が軋むんじゃないかと思うほどの抱擁をした。オレの心臓も先生の心臓も荒ぶっていて、大丈夫だからと言い聞かせるようにお互い痛いくらいに力を入れていた。肌の柔らかさやにおいを、先生のすべてを心に刻む。大丈夫、きっと大丈夫。

「いけるか?」
 恐いくらい鋭い眼差しの先生を見つめ、オレは無言でうなずいた。 





 人の気配に警戒しながらも何食わぬ顔で道を行く。
 先生の家が見えなくなってからは、足を踏みこみ地面を蹴って腕を振り、オレしかいない街を駆けぬけた。
 息があがって汗が吹きだし、脚が重くなってくる。呼吸が荒い、心臓が痛い。それでも止まることはしなかった。止まってしまったら、もう進めない気がした。
 バスケが好きだ。家族も仲間も、下宿先のおばちゃんも皆みんな大切だ。
 そんな人達に偽るしかできない自分が大嫌いだ。嘘ついてごめん。それでも先生が好きなんだ。
 大丈夫だと言った先生は、きっとすべてを失っても守ってくれるだろう。
 早く大人になりたいと言うくせに、甘えてばかりの自分が大嫌いだ。先生。オレのせいでごめんなさい。それでもそばにいさせてください。先生。好きです、先生。
 
 無我夢中で風をかき分けひたすら走ると景色が開けて、低木に囲まれた川に出た。 穏やかな川の流れにつられるように、走るスピードをおとしていく。
 どれだけ経ったんだろう。薄明るかった空は、いつの間にか秋晴れの爽やかな青色が視界いっぱいに広がっていた。どこまでも続く青さも、澄んだ空気も、どれもこれも今のオレには似合わない。なんだか泣き出してしまいたい気持ちになったが、ぐっと顔に力を入れる。
 泣く資格なんかない。大丈夫、ひとりじゃない。
 真っ直ぐ続く遊歩道を歩き進めていくと、遠くの正面から見知った顔が走ってきた。一之倉だ。歩きのオレに、ぐんぐんと近づいてくる。

「おはよ。もう走ってたんだ? すげー汗だく」
 基本が控えめな切れ長の目を見開いて、一之倉が言った。

「ああ。早くに起きちまってな、もう帰るところだ。時間わかるか?」
「もうすぐ六時になるよ」
「やべぇな。朝飯食いっぱぐれちまう」

 わざとらしく驚いた顔をしてみせたら「もう帰んな」と一之倉が可笑しそうに笑うから、少し胸が痛んだ。
 じゃあ。おう、またあとで。そう言いあって、何食わぬ顔でオレの来た道を行く一之倉の遠くなる背中を見送った。オレも前を向き、ゆったりと走りだす。
 
 大切な人を守るためなら、すべて背負って生きていく。先生となら、どこまでも進んでいける気がした。



 

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