短い話まとめ



可愛いひと




 授業の合間の休み時間、廊下ですれ違った女子達の会話が耳にはいった。

「さっきゴローちゃんシュークリーム食べてて髭にクリームつけてたぁ」
「可愛い〜」

 恋人の名前と、男を表す言葉として似つかわしくない「可愛い」という単語に、つい眉間に皺を寄せた。気軽に恋人の名前を呼ばれ、まして可愛いと言われているなんて、素知らぬ顔は出来なかった。
 教師として、監督として、恋人として。一度たりとも可愛いなんて思ったことがない。むしろ何をしても様になる、それほど魅力的な大人の男だ。
 ふと恋人としての姿を思い出し、緩む口元を手で隠したが見られていたようだ。隣にいた一之倉が不可解な面持ちで見上げてくるが、それもそのはずで、眉間に皺を寄せたかと思えばにやける姿は、気でも触れたかと思うだろう。
 誤魔化すように咳払いをして、可愛いって何だ?と一之倉に聞いてみた。

「さあ? でも俺もよく言われる」
「一之倉が可愛いなんて誰が言うんだよ」
「クラスの女子。何でも可愛いって言えばいいと思ってんじゃない? 松本も可愛いよ」

 一之倉は興味無く言い放った。
 髭にクリームがつく事の何が可愛いのか。一之倉も別に可愛いくないし、ましてや俺なんて。子供や動物を可愛いと感じるのは理解できるが、女子の考えることは理解できない。自分のなかで、そんな考えに落ち着いた。


 最近の好きなものを聞かれたら、迷わずに梅こんぶ茶と答えると思う。
 この部屋にはじめて訪れた時に飲んだのが最初だが、味は全くしなかった。それほど緊張して、会話もうまくできなかった。困ったように笑った顔は今でも覚えてる。
 隣に座り笑いあえる。そんな穏やかで至福のときを過ごせるようになったのは、相手が先生だからだ。俺のつまらない話にも優しく微笑んで聞いてくれる、大人だからだ。例えば俺が同級生と付き合っていたら、その日のうちにヘマをして、きっと振られてる。
普段二人の時に仕事をすることはないが、今日はそうも言えない状況なんだろう。同じ空間で同じ時間を過ごしてはいるが、俺ではなく、何かの資料を見て難しい顔をしている。
 それでも来るなとは言われない。「かまってやれないがいいか?」と申し訳なさそうな顔をされては、ベッドに寄りかかり大人しく過ごすしかない。来ない方がいいのは百も承知だが、少しでも一緒にいたいと欲が勝ってしまう。
 残り十五分で帰らなければいけないが、本当にかまってもらえないと少し残念に思うなんて、呆れるほど子供みたいだ。今日は仕方がない、と心の中で言い聞かせた。

「そろそろ帰りますね」

 せめて邪魔しないよう小声で伝えると、先生は時計をちらっと見てから、やっぱり申し訳なさそうな顔で俺を見る。
 居間を出たら短い廊下があって、すぐに玄関がある。そのドアを開けたら、また数日は来られない。早く帰らないと、そう思っているのに、普段は一瞬の距離をゆっくり歩いてしまう。それでもあっという間に玄関に到着してしまった。

「せっかく来たのにすまん」

 申し訳なさそうな、様子を伺うような、そんな顔を見たい訳じゃない。

「俺が来たかっただけなんで、気にしないでください」
 いつものように笑って欲しくて、精一杯明るく言った。
 先生の手が俺の肩にのせられ、優しく一撫でした後に首筋に触れた。欲しかった温もりは思ったよりも冷たいが、返ってそれが心地いい。先生の手の甲に手のひらを重ねて、やっと、触れることができた。
 今の俺のしまりのない顔を一之倉が見たら呆れるだろう。あいていた方の手でせめて口元を隠すが、先生のもう片方の手で退けられた。間抜け面を見られてしまったが、いつもの笑顔が見られたから良しとしよう。

「可愛いな」

 先生は確かにそう言った。

 その後はあまり覚えていない。驚いて咄嗟に「可愛くないです」と普段より大きな声が出てしまったことは覚えている。
 可愛いとは何なのか。子供は可愛い、動物は可愛い、一之倉は可愛くない、もちろん俺も可愛いわけがない。
 思想を囚われ、何をするにも「可愛い」を探すようになってしまった。しかし日常にあるのは学校、部活、寮。男だらけの中で可愛いは見つかるはずもない。数少ない女子達の話に耳をすませると、何にでも可愛いと言っている。まるで呪文だ。先生からすれば、俺はまだまだ子供って事なんだろう。その結論にたどり着いた。

 先生の部屋に訪れるまでの数日間、可愛い探しを続けて分かったのは、女子の判定が甘すぎること。一之倉が可愛いと言われているのも本当で、どこに可愛らしさを見出しているのか聞いても「えー? 可愛いじゃん」としか返ってこなかった。


 いつものように手を洗い、いつものように隣に座る。何をするでもなくテレビのニュースを流し見る。この間とは違い顔を寄せれば息遣い、においや体温、全てが分かるほどの距離にいる。触れる腕からじんわりと優しい熱が広がっていく。
 髭はあれど幼くみえる降ろされた前髪も、手足を伸ばしてあくびをする、そのくだけた雰囲気も、二人だけの時にしかみられない。だらりとベッドに体をあずけて、眠いのか、先生のまぶたが徐々に閉じていく。

「眠そうですね」
「んー。少しな」
「寝た方がいいですよ。俺帰ります」
「まだ帰るなよ」

 とろんとした目で俺を見る。
 そんな先生を、可愛いと、ふと思った。

 何をしても様になるような大人の男と、触れるだけで顔に出てしまうような子供。
 そう思っていたが、実は大人だとか子供だとかは関係なくて。自分だけに向けられる笑顔に癒されて、隙だらけで無防備な姿を守りたい。大切にしたくて、恋しくて、愛おしい。可愛いと思うには申し分ない理由があった。
 いたずら好きの子供のように、片側の口角を上げて頬をつまんでくる恋人を、今までどんな気持ちで見ていたのか思い出せない。

「よく伸びるなぁ」

 目を細めて笑うその姿が可愛くてたまらない。
 次もし可愛いと言われたら、素直に嬉しいと伝えられるだろうか。それとも可愛いと伝えたら、どんな表情をみせてくれるだろうか。
 きっと今の顔を一之倉が見たら、やはり「間抜け面さらすな」と呆れるだろう。

 結局、女子が言う「可愛い」の判定基準は理解しがたいが、先生が髭にクリームをつけている姿を見かけたら、今後は同意するしかなさそうだ。




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「先生、髭にクリーム付いてますよ」
「ああ⋯⋯よく付くんだ」
「⋯⋯可愛い」
「何だって?」
「先生って可愛いですよね」




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「⋯⋯甘い」
「お前の方が可愛いよ」





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