短い話まとめ

 
気まずいふたり




 就業時間をとうに過ぎ、家の方面にむかう地下鉄に乗り込んだ。
 人のまばらな車内の空いているところに腰かけ、やっと帰れると一息つくが、正直家に帰るのも気が進まない。


 マンションまでの帰り道、回り道などはしないが、足取りは重い。
 オートロックを通り抜けエレベーターで九階のボタンを押す。少し長い待ち時間、左腕の腕時計に視線を落としため息が出た。
 エレベーターを降りて、もらい物の牛革で作られたキーホルダーを付けた鍵を鞄から取り出し、角にある部屋に歩を進め玄関前で足を止める。

 経年変化を経て濃い茶色になり端が毛羽立ったキーホルダーは、もう二十年以上前に作られたものだ。チェーンが外れても取り替えて、鍵が変わっても取り付けて、肌身離さず持ち歩いている大事なものだ。その鍵を数秒眺めてから、鍵を差し込む。

 玄関を開けると左に寄せて揃えられた靴が一足、その隣に玄関用のサンダルがあり、廊下の先のリビングには灯りがついている。
 灯りがついている事につい唇を結んでしまったが「よし」と一度深呼吸して、鍵をトレーに置き上着を掛けて、洗面所で手を洗いリビングのドアを開けた。


 ドアに背を向けたソファーに座り、録画したバスケの試合を見ている後ろ姿。テーブルには戦術など書かれたノートや資料が置いてある。
 声をかける前に振り返り、「おかえり、遅かったな」と言ってこちらを見ている恋人と目を合わせることに気が引けて、「ただいま」と目を向けず返事をして足早に自室に向かった。

 家着を用意しリビングを通って洗面所に行くが、恋人はテレビに体を向けたまま、何も言わず振り返ることもない。
 その事に安心する気持ちと、自己嫌悪が頭の中を通り過ぎていく。



 長く付き合っていると外での苛立ちを向けないよう気を付けていても、つい雑に接してしまう時がある。
 一方だけなら、なだめて済むが、二人とも余裕がないと些細な事でも言い合いになって気まずい空気が続く事もあり、まさに、今。
 新年度でお互い忙しくて、お互い余裕がなかった。

 きっかけは昨日。今日と同じように残業していた。メールで夕飯は食べるのか連絡がきて、内容を見るには見たが夕飯どころではなかったせいか、返信を後回しにして結局返信することなく帰宅した。
 恋人の冗談混じりの文句に苛立ち言い返して、夜寝る時、普段一緒のはずのベッドに恋人は来なかった。
 朝が早い恋人は普段、俺の頬を撫でて、「行ってくる」と声を掛けてから出掛けるが、今日は一言もなく家を出た。

 自分が発端の喧嘩だが、次の日にまで持ち越すとは大人気ない、ベッドで謝ろうと思っていたのに。それならば、こちらだってと意地になり、昨日と同じく夕飯は食べるのか聞くメールに返信しなかった。
 そんな理由で今日は帰って顔を合わせるのが憂鬱で、また言い合いになるかもしれない、ならばいっその事寝てくれていた方が。そう思っていたが、恋人はこちらを見て声をかけて、歩み寄ろうとしていたのに。それを逃げた俺はただの意気地無しだ。


 頭を洗いながら、空の浴槽を見て「最近入ってないな」と思う。
 最近は湯船に浸かるどころかシャワーを浴びる事すら面倒に感じて、リビングでぐずぐず過ごしていると恋人に「さっさと入ってこい」とたしなめられる事もあった。

 壁に取り付けられた棚には二種類のシャンプーとボディソープ、洗顔料がラベルのむきを揃えて並んでいる。
 シャンプーはお互い別のもので、恋人のシャンプーは誕生日のプレゼントと一緒に「これからは意識していかないと」と冗談で渡した育毛効果のあるものだ。「お前もいつか使う時がくるんだからな」と笑いあったのを覚えている。
 ボディソープも洗顔料も、はじめはそれぞれ使っていたものを置いてあったが、どちらかの中身が無くなると買い足す事はなく、今では同じものを使っている。
 頭からシャワーを浴びて、手のひらを流れ落ちる湯を見ていると、心の葛藤も流れ落ちていく気がした。


 リビングへ戻ると恋人はソファーに座りテーブルを片付けている。手を止めて、振り返らずに「飯は食ったか?」と聞かれ、食べた事を伝えると「そうか」とつぶやいて片付けを再開させた。
 何と声をかけようかと考えながら水を飲もうと冷蔵庫を開けると、二人分の生麺と切り終えた食材が入っていて、一瞬頭が真っ白になった。

  声をかける前に、片付けを終えた恋人は玄関に向かい、サンダルを雑に履いて鍵を持った。
 慌てて追いかけ、ドアノブに手をかけた恋人の右腕を強く掴んだ。
「ちょっと待って! どこ行くんですかっ」
「何も食べてないからコンビニ行ってくるよ、何か買ってくるか?」
 そう話す恋人の顔は微笑んでいるが、物寂しい顔にみえる。

 昨日も今日も、メールの返信はしていない。昨日の恋人は、俺が帰った時すでに食べていて、今日はまだ食べていない。
 先日、出先で無性に冷やし中華が食べたくなったが夏でもないこの時期に、冷やし中華を提供する店がなく我慢して油そばを食べた話をしたら、恋人は笑いながら聞いていた。

「ごめんなさい。本当に。行かないで⋯⋯」

 それしか言葉が出なかった。
 掴んだ腕を離したら、きっと行ってしまう。もう帰ってこない気がして、さらに強く掴んだ。

「⋯⋯痛いよ。手、離せ」
 強く握る自分の手に、そっと左手を重ねる恋人は変わらず微笑んでいて。
「嫌です、絶対離しません。」
「仕方ないなあ。お前が作れよ」
恋人は、ごめんなさいと謝る俺の顔を見て笑い、サンダルを脱いだ。


 大盛りの冷やし中華を食べる恋人は、作りすぎだと文句を言いながらも箸を進める。
 その姿を見て愛しさと、最近忙しくて感じていなかった安らぎを感じ、この穏やかな時間を大切にしたいと心から思った。


「明日は早く帰るんで、一緒に風呂入りたいです」
「そういえば最近はいってなかったな」
 その後は⋯⋯と言おうとしたが気恥ずかしくて視線を流した。それを見透かす恋人は「久しぶりに頑張るか」と言って、キスをした。

 ずっと、この穏やかな愛を恋人と。





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