短い話まとめ


ふにふに







 部活がない休日は、恋人と長く過ごせる特別な時間だ。休日によく外出しているオレに、一之倉がどこに出かけているのか聞いてきたことがあった。そんなときに、朝から通うには遠いけれど、帰るにはそう遠くない実家に「呼び出されてる」と説明したことがある。実家には大型犬がいて、長距離散歩に付きあえるのは自分だけだと話すと、一之倉はさほど興味のない返事をしていた。

 今日もまた「呼び出されて」朝食を終えてすぐに下宿を出た。駆け出しそうになるが、慎重に、誰にも見つからないように恋人の家に向かった。以前は朝早くから押しかけるのが気恥ずかしかったものの、慣れてしまえば欲が勝ち、なんのためらいもなくインターホンを鳴らすようになった。今では「早いな」と眉尻を下げて笑う顔も楽しみのひとつになっていて、十五分の距離がもどかしくてつい早足になる。
 見慣れた古い建物の二階を見上げるとカーテンが閉まっていて、こうして稀にある恋人が寝過ごす日は、さらに楽しみが増える。心のなかでだけにやけたが、もしかしたら顔に出ていたかもしれない。ポケットに入った牛革のキーホルダーがついた鍵を指先でいじりながら、音をたてないよう階段をのぼった。
 
「おじゃまします……」
 
 声にならないほどの声を出し、玄関の左側を歩く。右側は踏むと軋んだ音がして、前回は恋人が起きてしまった。忍びの気分で息を潜め薄暗い部屋にはいると、ベッドから寝息が聞こえる。そろそろと近づいて、恋人の顔を見ようとのぞき込んだ。その瞬間だった。
 
「?! っう、わ!!」
 
 布団から出ていた手に勢いよく体を引き寄せられ、思わず間抜けな声が出た。胸元に顔を埋めるように倒れ込み抱きしめられると、息苦しさと恋人のにおいで頭がクラクラしそうだ。
 
「こーら、なにしようとした?」
「……寝顔見ようとしただけです」
「そんなもの見なくていいよ」
 
 そんなもの、が大好きなんです。 
 朝を一緒に迎えることのない自分は、あまり見ることができないから。困らせるのをわかっているから言わないけれど、普段は大人な先生の、緊張が解けて幼く感じる寝顔を見るたびに、距離が近くなったように感じて安心できた。
 言わないかわりに、胸元に顔を押しつけて、思い切り鼻で息を吸い込んだ。隙あらば襲いかかってくる、感傷というものに負けないように、大好きなにおいを堪能した。ふ、と息を吐くような笑いが聞こえ、刈ったばかりのザリザリとした頭にあたたかなものが触れた。ぽんぽんと優しく触れる手は、まるで子供をあやすようで、もしかしたら呆れているのかもしれない。それでも、こんなに優しく接してもらえるなら案外悪くないと思った。
 
「満足したか?」
 
 声の方に視線をむけると、薄暗いなかでもこちらを見つめる瞳と目があった。何も言わずに見つめると、大げさに溜息をついたがその表情は柔らかい。口を少し尖らせてみれば、「我儘だな」と頭を浮かせて額にキスをしてくれた。もっと欲しくて、体を起こして顔を近づけると頬を包まれ、まぶた、鼻、頬と唇が降りてくる。
 触れるたびに髭がくすぐったくて心地いい。
 
「あ」
「ん? どうした?」
「髭に白髪」
 
 カーテンの隙間から漏れる光で、ほんの一瞬髭が照らされた。何の気なしに言葉にすると、柔らかい表情はみるみるうちに訝しげな顔にかわっていく。眉間にシワを寄せて、疑いの目を向けてきた恋人は、唇に触れることなく俺を押し退け洗面所に行ってしまった。
 後を追いかけると目を細め鏡をまじまじと見ていて、そんなに気になるものなのかと思いながら横から手を洗った。
 
「……剃るか」
「えっ」
 
 顔を上げたときはすでに、普段から髭を整えるために用意されているハサミを手に持っていた。「あっち行ってろ」と足蹴にされ、渋々居間で待つこと約十分。少しでも長く一緒にいたくて、わずかな時間すら惜しいのに。言わなきゃよかったとベッドに突っ伏した。

「悪い、待たせたな」
 
 子供らしく文句を言って思い切り甘えてやる、そう考えながら振り向くと、整った顔立ちの男が立っていた。戻ってきた恋人はまるで別人に見えて、こんなにも変わるのかと思わずにはいられなかった。 
 監督としての威厳を保つための髭は、その役割をいかんなく発揮していたようだ。幼さを残しつつ歳を重ねたこの人物は、誰が見ても良い男と言うしかないほどで。髭で渋みを増していたが、それがなくなると実年齢よりも若く見えて、爽やかさすら感じてしまう。過去の写真や映像で髭のない姿も見たことはあったが、いざ目の前にあると戸惑ってしまう。
 
「口あいてるぞ」
「え? あ……はい……」
「……変か?」
「変……じゃ、ない、です……」
 
 何だか直視できなくて、先生の足の指をじっと見つめるしかできなかった。中指が一番長いんだな、そんな、今でなくても良いような発見をして、それが段々と近づいてくる。ベッドと先生に挟まれ、腰に手を回された。知っているはずのぬくもりが今日はやけに熱く感じて、恐る恐る視線をあげると、知らないようで知っている顔があった。
 髭でわかりにくかった上唇の形が今でははっきりと分かる。悪戯好きの子供みたいな瞳が、からかいたくてうずうずしている。そう言っているように感じた。耳に息を吹きかけられて、思わず体が強ばった。睨みつけるが、俺に覆いかぶさるようにしゃがみ込んだ先生は楽しそうに口角を上げている。
 
「どうかしたか?」
「……髭、剃れなんて言ってないです」
「この歳で白髪混じりなんてかっこ悪いだろ」
 
 頭にもあるか?なんて言いながら目を細めて笑う先生は、自分がどれだけ良い男かわかってないんだろうか。明日には皆が知ることになるだろう。誰かがなにかを言うたびに不貞腐れる自分がやすやすと想像できて、憂鬱な気分になる。せっかくの時間を無駄にしたくないのに。言わなきゃよかった、本当に。
 
「松本」
「……はい」
「キスしていいか?」
 
 返事をするまえに唇を塞がれた。
 髭がない分柔らかくて混じり気のない感触に、なにも考えられなくなりそうだった。深く唇を重ねてもくすぐったさはなくて、そのかわりに背筋がぞわぞわするような、ひたすら甘いキスだった。
 
「――っ、はぁ、先生……好きです」
 
 返事と言わんばかりにうなじを吸われ、跡が残るまえに離された。腰に回されていた腕はいつの間にか太ももを優しく撫でている。
 
「髭は? ある方がいいか?」
 
 そんなのどっちだって構わない。早く、もっと。
 唇が重なって、離れるたびに好きだと吐息混じりに伝えあい、舌を絡めるたびに見つめあった。  
 いつも勝手に落ち込んで、そのたびに気持ちを拾いあげてくれる恋人には一生勝てそうもない。それでも、恋人との時間が続くなら、それも案外悪くないと目を閉じた。
 
 


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