短い話まとめ

大人になるなよ


⚠マネージャーと思われるメガネ男子が登場します。「木村」くんと名前をつけているのでご注意ください。


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 熱気の余韻に包まれた体育館から外に出ると、朝から屋根を打ちつけていた雨は止んでいた。雨つぶが空気中の汚れを吸い取ってくれたおかげか、見上げた空が一層眩しく、建物を取り囲む緑がより青く感じる。
 昨日から出向いていた遠征先での試合は今日の午前ですべて終わり、残すは夕方までの自由時間のみ。繁華街の端に位置する滞在先のホテルへ戻るバスの中では、各々どこに行くか、なにを食べるかなど話しあっている。
 たった数時間だとしても、普段バスケばかりのオレ達にとっては貴重な機会だ。県予選優勝後すぐの遠征で練習試合も全勝、天気も晴れとなれば気分よく楽しめるだろう。明るい雰囲気の車内には弾んだ声が重なっていた。
 
 部屋に荷物を置き、行動をともにする予定の一之倉とロビーに行くと、監督である堂本先生とマネージャーの木村が話しているのが目についた。
 先生は半袖のポロシャツにスラックスと普段通りの格好だが、小脇に黒のセカンドバッグを抱えている。申し訳なさそうな顔をして両手をあわせ、木村に謝る素振りをしてから玄関のほうへ歩いていった。
 
「呼び止めて悪い。先生どこ行ったんだ?」
 
 見慣れた後ろ姿が遠ざかるのを見送りながら、早足で横を通り過ぎようとしていた木村に声をかけた。呼び止めたら悪いと思ったが、聞かずにはいられなかった。
 
「先生なら買い物だって言ってたぞ」 
「へぇ」

 珍しい、と思った。先生は遠征先でも部屋にこもり、相手チームの研究や、試合を振り返り改善点を探ったりしていることが多く、出歩く姿は見たことがなかった。 
  
「そうなら早く言ってほしいよな。今日も監禁されると思って予定立ててなかったんだぜ」
 
 木村はメガネの両端を片手で持ち上げながら言い放った。声は棘混じり、瞳にはあからさまに機嫌の悪さが滲んでいる。
「監禁」という強い言葉。自分のことではなくても、棘が胸に刺さったような気がした。
 しかし、ちくりと言ってやりたい気持ちも理解できた。マネージャーである木村と、ここにはいないが主将を務める深津は、こうした遠征の自由時間でも先生と一緒になって部屋にいることが常だった。はじめから自由時間があると知っていたら、几帳面な性格のこいつのことだ。きっと綿密な計画を立てていたに違いない。

「お、じゃあ一緒にまわろうぜ。深津も誘ってさ」
 メガネの奥の不機嫌な様子を気にせず、一之倉は木村の肩に腕をまわした。
「そうだな。部屋にいるはずだから呼んでくる」
「オッケー待ってる」
   
 めんどくさいから寝てると言った深津を連れ出し、秋田よりも栄えた繁華街を四人で観て回った。
 昼時ということもありどこの店も混みあっていて、仕方なしに店内が油で覆われたような中華料理店で昼食を取ったり、夜なら賑わいをみせるであろう昭和を感じさせる裏路地を歩いてみたりと、前日に決めていた予定をまったく無視した行動だったが楽しかった。
 さまざまなにおいが雨上がりの空気に漂うなか、軽やかなコーヒーの香りが鼻をかすめ、ふと恋人の顔が頭に浮かぶ。
 あの人がよく飲むのは、もっと甘くて苦い香りがする。香りの違いを意識するようになったのは、自分は飲まないその香りで先生を思い出すようになったからだ。
 先生は、百貨店にでも行ったのだろうか。買い替え時だと言っていた髭剃り用のブラシか、普段使いのベルトも欲しいと言っていたし、もしくは大型書店でタイトルに惹かれた本を手に取って、また部屋のすみに積み上げるつもりなのかもしれない。
 もっと話しておけばよかったと、今更ながら悔やむ気持ちが押し寄せる。遠征前に自由時間をどう過ごすか聞かれたが、こちらからは聞こうともしなかった。それよりも、次にふたりで会えるまで期間が空くからと言い訳をして、話もそこそこに触れあうことに夢中だった。
 たとえば先生とだったら。どう過ごしていただろうか。
 美味いとは言えない炒飯を平らげて、口直しと言って甘いものを食べ歩いたりするかもしれない。裏路地の狭い通路に建ち並ぶ店舗看板を見ながら、自分だったらどんな店名にするか考えたり、もしかしたら、オレが大人になったら一緒に酒でも飲みに来ようと約束するかもしれない。

「このTシャツを松本にプレゼントするピョン」
「いいじゃん。オレも金出すわ」
「じゃあ俺も」
 
 最後に立ち寄った土産物屋でのことだ。Tシャツにはこの地を拠点に名を馳せた武将の名言が書かれていて、私服としては着られそうもない。

「嬉しいけど、嬉しくねぇな」
 
 今までなら断固拒否するところだったが、先生の部屋のタンスに眠る数多くのご当地Tシャツを思い出し、ありがたく受け取った。ああ見えて、おもしろいものや楽しいことが好きな人だから、次会うときに着て見せるのも悪くないと思った。
 恋しくなって辺りを見渡すが当然いるはずもなく、結局見かけることも話すこともないまま、遠征は終わった。


 
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 ふたたびバスケばかりの日々に戻って数日が経った。じめっとした暑さに加えて雨が降る日も多く、冴えない気分が続いていた。
 部活のときは集中できたが、それ以外はどんなときも、身体の中に熱がこもっているような感覚が抜けなかった。このひとりではどうにもできない熱は、たまに目があったときの見透かしたような先生の視線でかき回され、腹の底で渦を巻く。
 部屋で悶々とカレンダーを睨む毎日が続いたが、会いたいのに会えない、会っているのに会えない、そんな歯がゆい思いは今日で終わりだ。明日は一日中そばにいられる。思う存分くっついていられる。
 それなのに下宿を抜け出した。明日が待ち遠しいあまり、どうしても、一目だけでも会いたくて限界だった。きっと呆れた顔をされるだろうが、そんな顔も早く見せて欲しかった。
 外に出ると、月も見えず星も見えない冴えない空で、今にも雨が降りそうだった。早く会いたいと気が急いで、雲が広がる明るい夜に汗ばむ身体を走らせた。先生の家に着くころには雨がぱらぱら降り出していて、外灯に照らされ無数の雫がきらめいていた。
 
「突然ですみません」 
「来るかもなぁって思ってたよ」
 
 遠征から帰ってはじめて訪れた先生の部屋は、なにも変わっていなかった。家具の位置はもちろんのこと、部屋のすみに積まれた雑誌や本もそのままだ。それでも懐かしさを感じたのは、それほどこのときを待ちわびていたからだ。
 使い終わったバスタオルを手に持ち、風呂を済ませたばかりだと話す先生は上半身裸で、恵みの雨に降られたようにみずみずしかった。年齢よりも幼く見せる前髪から水滴が落ちて肩を濡らした。
 
「濡れてるぞ」

 バスタオルで頭を包まれる。湿ったタオル越しに久しぶりの手のひらの感触と、視線の先には、風呂上がりの素肌。

「ばか。そんな見るな」
「先生も濡れてる」
「ああ、急いであがったから……」

 お前がいつ来てもいいように――見交わした瞳がそう言っている気がした。きっと間違ってはいない。気持ちが通じていることで嬉しさが胸の奥に広がる。

「あー、麦茶飲むか?」
「飲みます、自分でやります」
「ん」

 気恥しい空気が落ち着かなくて、空気をかき回すようにふたりで動き出す。
 先生が脱衣場に行っているうちに、冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注ぐ。グラスになみなみの麦茶を一気に飲み干すと、馴染んだ味にほっとして肩の力がすとんと抜けた。 
 戻ってきた先生は上下とも灰色のスウェット姿で、立ったまま壁にもたれて腰紐と格闘している。紐を結び直したくても固結びになっているようで、渋い表情だ。いつものようにベッドとテーブルの間に座りその様子を見ていると、先生がはっとしたように顔を上げた。
 
「松本、引き出し開けてみろ」
「引き出し?」
 
 先生の視線は、テーブルに向けられている。テーブルには引き出しがついていて、中はテレビのリモコンやメモ帳、ボールペンなどの置き場になっている。たまに学校から持ち帰った個包装のお菓子が入っているときもある。
 彫り込まれた取っ手を引くと、見慣れないはがきサイズの箱があった。濃紺の包装紙に包まれていて、銀色の細いリボンが縦に巻かれている。
「なんだこれ」が最初の感想だった。リボンに挟まれた名刺のようなカードに〈誕生日おめでとう〉と先生の字で書かれていなければ、先生がもらったのかと勘違いしそうなほど、高級感溢れる箱からは大人な印象を受けた。シンプルで洗練された包みに、さらりと添えられた大人の字。制服とジャージ姿が基本のオレには、どう頑張っても似合いそうもない。

「……お、オレにですか」
 箱に視線を捉えられたまま聞いた。
「他に誰がいるんだ」
 苦笑いの後に優しい声がした。
「明日だろ。いや……もう今日だな」
「あ……」

 先生が隣に腰かけて、その動作で風が巻き起こり頬をかすめた。壁にかけられた時計を見ると、短針も長針も十二を指していて、つまりは、そうだ。
 
「誕生日おめでとう」

 十八回目の生まれた日。会えた喜びですっかり頭から抜けていたが、そうだ、誕生日。去年は事前に欲しい物を聞かれ、先生の昔の写真が欲しいと即答した。そうじゃなくて、と言われたがオレが譲らなくて、呆れられたのを覚えてる。無駄だと思ったんだろう。今年はなにも聞かれなかった。

「ありがとうございます。すげー立派な、いや違うなえっと、ありがとうございます……」 

 どう伝えたらいいだろうか。目をあわすのがなんだか恥ずかしいのもあって、視線が宙をさまよった。
 数多ある商品から自分を思い浮かべてこれだと決めて、購入場所によっては包装紙やリボンの種類も選んだり、メッセージカードはどんな気持ちで書いたんだろうか。
 恐る恐る、引き出しから箱を取り出した。思いのほか軽くて、そっと撫でるとなめらかに指が滑る。
 どうすればいいだろう、と思った。こんなに好きで、どうすればいいだろう。特別な人からの贈り物が、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。

「松本」
「……はい」
「松本、こっち見なさい」
「はい……」

 もう少し待ってくれれば、もう少しマシな顔をできるはずだが、この情けない顔を見て笑ってくれるなら、それもまぁいいかと思った。
 観念して落ち着いた声のするほうへ顔を向けると、先生は優しく微笑んでいる。よく知ったこの表情は、好きだとか大切だとかの気持ちが込められている。しっとり甘い眼差しは、いつも全身とろけてしまうんじゃないかと思うほどだ。
 それなのに、今日の先生の瞳には甘さの中に寂しさも滲んでいて、戸惑った。なんでそんな顔をするんだろうか。

「おめでとう」
「っ……ありがとうございます、嬉しくて、すみませんうまく言えなくて」
「わかってるよ、大丈夫」
 
 もう一度、わかってる。と先生は言った。その声は、トタン屋根に響く雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声だった。
 気づかないうちに詰めていた息を吐き、夜空みたいな濃紺に包まれたプレゼントをきつく握りしめた。なにを「わかってる」んだろう。それがオレにはわからなくて、歳が近づいたのに、遠く離れてしまったような気がした。よくわからない感情で胸が締めつけられる。

「…………す」

 ひりひりと焼けるようにのどが痛み出し、うまく言葉が出てこない。

「ん?」
「……好きです」
「なんだ、いきなり」 
「オレはやく大人になります。だから、」

 必死で絞り出した言葉は、言い終わる前に先生の唇で遮られた。手からプレゼントを抜き取られ、頬から耳にかけて両手で包まれる。
 久しぶりの髭と唇の感触は、オレの口から離れると顔中に降り注ぐ。まぶたにちくちくと刺さる毛に思わず「いてっ」と声が出た。それにも構わず、先生は何度も位置を変えてキスをしてくる。

「ちょっと、せんッ、せ」
「俺も好きだよ」
  
 薄い皮膚があわさったまま伝えられた。触れるほど近いまつ毛の奥の瞳に、もう寂しさはなかった。甘さだけを残した眼差しに、頭から足の先までとろけていく。
 吐息を飲み込み、吸いついて、表面同士が濡れていく。湿ったにおいをさせた自分とは違って、先生からは清潔な香りがした。

「……すみません、オレ雨くさいっすね」
「ん、いいよ」

 そう言って、先生は笑いながら大げさに息を吸い込んだ。首に顔を寄せすんすんとにおいを確かめられて、否が応でも腹の底にこもった熱の温度が上がる。

「松本のにおいがする」
「っ、汗もかいたから! ちょっと離れます!」

 肩を押して逃れようにも腰に回された先生の腕は力強くて、さらには熱い呼吸が首に吹きかかり、抵抗しようにも力が入らなかった。形だけの抵抗をしていた両手を毛羽立つ背中に回すと、久しぶりのぬくもりに癒され、同時に気持ちが昂った。

「なんだ。もう降参か」
「ほんと……ずるい」

 見つめあったまま唇を触れあわせ、それを繰り返しているうちに、息が荒くなるほどキスにかわった。下心をはらむキスは水分を含み、だんだんと激しさを増していく。
 きっと気持ちは一緒だと都合よく思い巡らせ、先生の腹に手を伸ばした。舌を絡めながら、手探りで紐をほどこうと腹の周りをまさぐり、結び直された紐を引く。

「こら、なーにやってんだ」
「少しだけ」
「時間考えろ」
「ほんのちょっと」
「朝になったら来るんだろ」

 だから帰ったほうがいい――そんなことはわかってる。しかしこのまま帰れるはずがない。
 息もできないほどのキスで言葉を封じ、強引に紐を引いた。蝶結びがほどけ、ゆるくなった隙間に手を差し入れる。こんどは先生が抵抗するが、気にせず耳や頬に口づける。もうなにを言っても止まらないと感じたのか、先生は小さくため息をつき、抵抗をやめた。雨のにおいに風呂上がりの香りが重なって、吐息も唾液も、すべてが混ざる。
 どこにも行かないから、どこにも行かないで欲しい。すべて伝えるから、すべて伝えて欲しい。言葉で伝わらないなら、触れあって伝えたい。
 黒く忍び寄る感情は雨に流れてしまえばいい。身体の熱をさらに熱くさせながら、そう思った。  
 
 



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