Take me down
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「……やっぱりいないか、」
小さく呟いた言葉は、ざわざわとした喧騒の中へと溶け込んでいった
帰路を急ぐ人々が行き交う街の大通り その通りを外れて、薄暗い路地裏へと続く脇道がある
日がすっかりと暮れた時間帯と重なって、夜闇が広がるそこを私は目を細めながら覗いていた
以前ここを通った時に私は不運にも事故に遭った 落とし穴に落ちたのだ
これを誰かに話すと何の冗談かと毎回笑われる__けれど、事実なのだからしょうがない
私は本当にこの路地裏で、誰が作ったとも知れない落とし穴に見事、引っ掛かったのだ
とにかくその時は不運にもほどがあると思って自分でも絶望はした しかし、それを帳消しにするほどの幸運も通りかかった
不幸中の幸い、偶然通りかかったらしい謎の青年に助けられた私は無事に生還して、何事もなかったかのように日常を過ごしている
落とし穴にはまり、名も知らない青年に助けられて早数週間経った、現在
仕事帰りのこの道を通る度に、あの時助けてくれた彼を思い出しては姿を無意識に捜していた
(もう一度、ちゃんとお礼を言いたかったんだけどな……)
その時は色々と取り乱していたせいもあって、一応お礼は言ったと思うけれど、私は彼とまともに目も合わせられなかった
ただ、時折ちらちらと盗み見た彼の横顔は鮮明に覚えていた
冷たそうな光りを宿した碧眼の中に、こちらを気遣うような気配を滲ませた視線が未だに忘れられない
出来ればもう一度会って、改めてお礼を言いたかった
けれどどこの誰だかも知らない人物を、何の手掛かりもなく見つけ出すのは容易な事ではなかった
「ああもう、名前ぐらいちゃんと聞いておけばよかった……」
何度目か分からないぼやきをぶつぶつと零しつつ、あの路地裏に目を向けた
今見れば、よくこんな暗い道を通ろうとしたもんだなとあの日の自分の軽率な行動に呆れる しかし、ここを通って落とし穴にはまる事がなければ彼と出会う事も一生なかっただろう
そう思った瞬間、胸にざわりとしたものが過ぎった あの日以降、穴があった場所に近付く事はなかったけれど 今日は少しだけ近付いてみようか
もしかしたら彼がいるかもしれない でも、あの時よりもずっと暗くなった路地裏に果たして踏み込んでいいものだろうか
また何か危険な目にでも遭ったりしたら、今度こそ誰の助けもなくひとり残されて悲惨な事態になるかもしれない__それでも、
「……よし、」
意を決して、私は路地裏へと続く細い道に一歩足を踏み入れた
ほとんど廃墟と化したビルの狭間にある薄暗い道は、奥に行くにつれてひやりとした空気が漂っている
大通りの喧騒から引き離された静寂の中に、自身の靴音がこつりと響いた
思いのほか大きく鳴ったその音に怯んだ私は、後ろを振り返る 大丈夫、まだ引き返せばすぐに人通りの多い道へ出られる
だから大丈夫、と言い聞かせながら更に奥へと進んで行った
「……あれ?」
いざ穴のあった場所まで辿り着くと、そこにあるはずの穴はなぜか綺麗さっぱり無くなっていた
確か、この辺りにあったはずなのに 私はキョロキョロと辺りを見回す
しかし視界に広がるのは平らなコンクリートの道と、その道を狭める建物の外壁だけだった
人がはまるほどの大きさの穴など、最初からどこにも存在していなかったようなありさまだった
「……もう少し先だったかな」
口にして、まだ続く路地裏の暗い通りを覗く もう少しだけ先に行ってみようか
思いながら、更に奥へ進もうとした瞬間だった
「__おい、この先に一体何の用だ」
背に掛かった声にはっとして、振り返る 振り返った先には、ずっと捜していた人物の佇む姿があった
「あっ……! え、えっと、あの、」
彼の姿を捉えた私は慌てて踵を返し、彼へと近付いた が、近寄る一歩手前で踏み止まる あの時と同じ、冷たい美貌の中に浮かぶ怪訝そうな表情
その威圧感に見事に負けた私は、会えて嬉しいはずの気持ちが身内でぽきりと折れてしまった
真っ先にお礼の言葉を言わなければと思うのに、中々口から言葉が出てこない 一気に自分の顔が強張るのが分かった
そんな私を一瞥して彼は大きく息を吐いた後、感情の起伏が窺えない声を落とす
「何か、まだこの路地裏に用でもあるのか」
「え、えっと、……いや、そういう訳じゃないんですけど」
「だったら、無闇に足を踏み入れるな 一体なんのつもりでこんなところをうろついているんだ この辺りは女がひとりで徘徊していい場所ではない」
言うと、彼は一瞬の内に私との距離を詰めてがしりと腕を掴んだ そのまま彼に誘導され、来た道を戻る
高い位置にある横顔は暗闇でも分かるほど端整につくり込まれていて、それでいてとても表情は冷たかった
けれど彼の言動には、所々こちらを気遣う言葉が混じっている 掴まれた腕から、少しだけ熱い彼の体温が伝わる
「……すみません、ずっとあなたを捜していたんです ど、どうしても、助けてくれた時のお礼をもう一度ちゃんと言いたくて」
震えて掠れそうな声を搾り出す
本当に、ありがとうございましたと頭を下げてそう告げれば、彼はぴたりとその場で立ち止まり、僅かに目を見開いた
「……礼なら、その時にも聞いた」
「そう、なんですけど 私かなりパニックになっていましたし……あ、というか私の事、覚えていてくれたんですね」
「数週間前の出来事を忘れるほど耄碌しているように見えるか」
「で、ですよね すみません」
「……」
まずい、お礼を言うという当初の目的は達成出来たけれど、どうにも彼の機嫌を損ねがちな自分の言動にまたもやパニックを起こしそうになる
せめて菓子折りでも持っておくべきだったかと変な方向に頭を捻らせていると、頭上から重い溜め息が零れた
溜め息を聞き取った瞬間、反射的にびくりと肩が揺れる
「あ、ほ、ほんとにすみません、勝手に捜したりなんかして それでまた迷惑をかけてしまって……」
「いや、違う 別に気分を害した訳ではない……とにかくそう簡単に謝らないでくれ」
「え、いやでも、」
「俺に礼を言う筋合いはない 謝る必要もない……本来謝らなければならないのは、俺の方だ」
「え?」
彼の言葉に顔を上げれば、視線がかち合う 銀箔に縁取られた目の奥に垣間見えた、複雑そうな色
しかしそれはすぐに逸らされ、元の青色へと戻った 口を開きかけた私に、何でもないと彼は首を振る
「……もう、足はいいのか」
「えっ、あ、はい 全然平気です、見ての通りすっかり治りましたから」
「そうか」
言って、今度は僅かに安堵したような色が浮かんだ彼の瞳に、思わず視線が釘付けになった
表情の変化がほとんどない代わりなのか 彼の心中はその碧眼によく反映されているみたいだった
「とにかく今後一切、暗い路地には踏み込まない事だ 例えそこが近道になろうとも、そこに捜しものがあったとしてもだ」
「は、はい」
「分かったなら、さっさと抜けるぞ」
言って、再び歩きはじめようとする彼 しかし今度は腕を掴まれる事はなかった
素通りしてしまった彼の手から、先を行こうとする背中へと視線が移る
「あ、あの!」
思わず、その青い背中に引き止めるような声をかけてしまった
ぴたりと歩みを止めた彼が、不審そうにこちらを振り返る
「こ、今度改めてお礼をさせて貰えませんか、その、」
今日のお礼も含めて、と弱々しく、しかしはっきりとそう言い切って、私は目の前の人物をまっすぐ見つめる
突拍子のない私の言葉に彼は意外にも目を丸くしたが、こちらを一瞥すると予想通り眉を潜めた
その仕草を見て、緊張と後悔が押し寄せるも発言を撤回する事なく、鋭い視線に自分も視線を返す
今までの人生の中でおそらく、一番大胆な行動を取っている自覚はある そしてそんな自分に自分で死ぬほど驚いている
けれど、ここでもしこのままさよならをしてしまえば今度一切、彼との接点はなくなる
それがなぜだかとても惜しくて、寂しいと感じてしまった
少しでも関わりをまだ持っていたい、目の前の彼を可能なら、もう少しだけ知りたい
あまり人と関わる事を良しとはしなさそうな人物だというのは、もう充分に分かっている
けれど、一縷の望みがあるならと引き留めてみた
やはり彼は怪訝そうな顔で、しばらく何も口を開く事もなくこちらを見つめていた
少しだけ後悔に負けて顔を伏せようとした瞬間、彼は徐に一歩近づいてくる
「礼はいい、前回の件も今回も 本を正せばすべては俺が原因だ」
言って、彼は手元に何か手帳のような物を取り出すと、目の前でさらさらとペンを走らせる
そして文字を綴ったページをそのまま破り、手帳から引き離した
緊張したまま彼の挙動を見守っていると唐突にまた腕を掴まれ、それに驚く間もなく彼は私へ静かな声を落とす
「……だが、俺を誘ったその度胸は買おう」
「……へっ」
言われた言葉がよく理解出来ずに間抜けな声を上げると、掴まれていた腕が放される
不意に、手の中にある違和感に気付いて視線を手元へと下げた いつの間に握らされていたのか、私の手の中には一枚の紙切れが
「危険を承知でまたここを通りたいのなら、その前に俺を呼べ 付き添いぐらいなら請け負ってやる」
「え、えっとこれは……」
「但し路地裏にではなく俺自身に用があるのなら、その時は……ここではない場所で呼び出してくれ」
握らされた紙切れには彼の連絡先だと思われる番号と、綺麗な字で『Vergil』と綴ってあった
2021/8/14 修正
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