第三章
主人公の名前設定
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パイは静かに海を見つけてみた。日差しを受けてきらめく水面が、遠くまで続いていた。潮風が頬をやさしくなでていく──信じられないくらいに気分が良かった。
「……あの色男への怒りは、なくなったか?」
ふいに、チャンが言った。
「んー……」
パイは海を見たまま、笑って肩をすくめる。
「どっかいっちゃった。……でも、また怒るかも」
自分でもおかしくて、ふふっと笑ってしまう。本当はわかっていた。私だけに向けられていると思っていたあの優しい、少し照れたような笑顔を、他の女の子にもしていたことに寂しくなったのだ。
また同じことが起きるたびに拗ねたくなるかもしれない──そんな気がしていた。
でも今はそんな自分の感情の動きさえ、今を生きている証なのだと思えて、肯定してあげたくなった。寂しさの裏側には何があるのか……まだはっきりとはわからないけれど、成り行きに身を任せてみたい気になっていた。
(今日は来てよかったな……こんなにいい気分)
頬をなでる風の心地よさを感じて、パイは目を閉じる。
「そりゃよかった」
チャンはいつもの調子で笑った。しばらく、風の音だけが吹き抜ける時間が続いた。
「ねえ……」
パイはふとチャンの方に顔を向けると、言葉を選びながら口を開いた。
「どうして……気にかけてくれるの?」
チャンは少しだけ目を細めて、海に視線を向けたまま答えた。
「君が“若い”からさ。……俺にも、そういう時があったんだ」
風を髪に受けながら、チャンはどこか遠い記憶をたどるように語り始めた。
「若さってのは一本気なもんだ。思い詰めて、周りが見えなくなって、自分を追い込んで……大切なものを見失わせてしまう」
その横顔にパイは少し驚く。いつも明るい彼が──いまはどこか苦しげな表情をしていた。チャンはふいに数歩先の崖際へと歩き出し、海のはるか先を見つめていた。
「俺の故郷はこの海のずっと向こうにある小さな島なんだ。森と海のきれいな島で。5人きょうだいの長男だった」
「5人……にぎやかそう」
パイの言葉に、チャンは小さく笑った。けれど、それはすぐに消えてしまう。
「……ああ、騒がしかった。朝から晩まで誰かが笑っていて、喧嘩して、ふざけて──にぎやかを通り越して、うるさいくらいだったよ」
パイはふっと目を細めた。
(なんだか……わかる気がする)
きっと、きょうだいの中で誰かが泣けばなぐさめ、喧嘩すれば間に入り、落ち込んでいたら笑わせて──そうして育ってきた人なのだ。だからチャンは、こんな自分にも自然に接してくれるんだろう。なんだか、すごく納得がいった。
しかし、話は思いもよらない方へ進んでいった。
「俺が島を出たのは18の時だった。人造人間の報道がラジオで毎日流れてて……居ても立ってもいられなかった。西の都にレジスタンスがあるって聞いて、それだけで、もう飛び出してた」
彼は海の向こうに目をやったまま、静かに語り続けた。
「……その三年後だった。島は、人造人間に焼かれた。森も、海辺の小屋も……跡形もなく。生き残った人はいなかった……」
「……」
パイは、言葉を失っていた。
「島を出るとき、一番下の弟が泣いてな。あの寂しそうな顔が忘れられないんだ。またすぐ帰るよって約束した。なのに……一度も帰らなかった」
チャンの声は淡々としていたが、その奥にあるものは重かった。
「使命感ってやつに陶酔してたんだ。まるで自分がヒーローにでもなったみたいに熱に浮かされて、それを正義だと錯覚していた。……皮肉なもんだよな。『誰かを守るために』って島を出たのに、一番大切だったものを失ってるんだから」
静かに海を見つめながらチャンは続ける。彼の瞳は海のきらめきを映しているようで、そのはるか向こうにある失われた景色を見ているようだった。
パイは何も言えなかった。ただ遠くから聞こえる寄せては返す波音が、ふたりのあいだを静かに埋めていた。海は光の粒が水面を跳ねて、まぶしいほどに輝いていた。
「──って、ごめん。こんなふうに空気を重くするつもりはなかったんだ。なんとなく……一本気な君を見て昔の自分を思い出して……。……って君は俺みたいに愚かじゃないけどな。いつも痛いくらいに一生懸命だから」
「……ううん」
パイは静かに、ゆっくりと首を振った。
「話してくれて、ありがとう。聞けて……よかった」
そう言ったパイの目には、真剣な光が宿っていた。
風が吹き抜けていく。頬をなでる潮風のやさしさは、ただ心地いいだけでなく「いま自分は確かにここにいる」と教えてくれているようだった。
──その晩。
パイは帰宅すると、水差しに花束を生けて窓辺に飾った。月明かりに透ける白い花びらは夜の暗がりを照らすようにきれいだった。
パイは窓の前にある椅子に座り込むと、ただ静かに、そこにある花を長いこと見つめていた。
窓の外では風が低く鳴っていた。けれどその音も今はどこか遠く、夜の静けさが部屋ごと包み込み、時間の流れすら忘れさせるようだった。
「……あの色男への怒りは、なくなったか?」
ふいに、チャンが言った。
「んー……」
パイは海を見たまま、笑って肩をすくめる。
「どっかいっちゃった。……でも、また怒るかも」
自分でもおかしくて、ふふっと笑ってしまう。本当はわかっていた。私だけに向けられていると思っていたあの優しい、少し照れたような笑顔を、他の女の子にもしていたことに寂しくなったのだ。
また同じことが起きるたびに拗ねたくなるかもしれない──そんな気がしていた。
でも今はそんな自分の感情の動きさえ、今を生きている証なのだと思えて、肯定してあげたくなった。寂しさの裏側には何があるのか……まだはっきりとはわからないけれど、成り行きに身を任せてみたい気になっていた。
(今日は来てよかったな……こんなにいい気分)
頬をなでる風の心地よさを感じて、パイは目を閉じる。
「そりゃよかった」
チャンはいつもの調子で笑った。しばらく、風の音だけが吹き抜ける時間が続いた。
「ねえ……」
パイはふとチャンの方に顔を向けると、言葉を選びながら口を開いた。
「どうして……気にかけてくれるの?」
チャンは少しだけ目を細めて、海に視線を向けたまま答えた。
「君が“若い”からさ。……俺にも、そういう時があったんだ」
風を髪に受けながら、チャンはどこか遠い記憶をたどるように語り始めた。
「若さってのは一本気なもんだ。思い詰めて、周りが見えなくなって、自分を追い込んで……大切なものを見失わせてしまう」
その横顔にパイは少し驚く。いつも明るい彼が──いまはどこか苦しげな表情をしていた。チャンはふいに数歩先の崖際へと歩き出し、海のはるか先を見つめていた。
「俺の故郷はこの海のずっと向こうにある小さな島なんだ。森と海のきれいな島で。5人きょうだいの長男だった」
「5人……にぎやかそう」
パイの言葉に、チャンは小さく笑った。けれど、それはすぐに消えてしまう。
「……ああ、騒がしかった。朝から晩まで誰かが笑っていて、喧嘩して、ふざけて──にぎやかを通り越して、うるさいくらいだったよ」
パイはふっと目を細めた。
(なんだか……わかる気がする)
きっと、きょうだいの中で誰かが泣けばなぐさめ、喧嘩すれば間に入り、落ち込んでいたら笑わせて──そうして育ってきた人なのだ。だからチャンは、こんな自分にも自然に接してくれるんだろう。なんだか、すごく納得がいった。
しかし、話は思いもよらない方へ進んでいった。
「俺が島を出たのは18の時だった。人造人間の報道がラジオで毎日流れてて……居ても立ってもいられなかった。西の都にレジスタンスがあるって聞いて、それだけで、もう飛び出してた」
彼は海の向こうに目をやったまま、静かに語り続けた。
「……その三年後だった。島は、人造人間に焼かれた。森も、海辺の小屋も……跡形もなく。生き残った人はいなかった……」
「……」
パイは、言葉を失っていた。
「島を出るとき、一番下の弟が泣いてな。あの寂しそうな顔が忘れられないんだ。またすぐ帰るよって約束した。なのに……一度も帰らなかった」
チャンの声は淡々としていたが、その奥にあるものは重かった。
「使命感ってやつに陶酔してたんだ。まるで自分がヒーローにでもなったみたいに熱に浮かされて、それを正義だと錯覚していた。……皮肉なもんだよな。『誰かを守るために』って島を出たのに、一番大切だったものを失ってるんだから」
静かに海を見つめながらチャンは続ける。彼の瞳は海のきらめきを映しているようで、そのはるか向こうにある失われた景色を見ているようだった。
パイは何も言えなかった。ただ遠くから聞こえる寄せては返す波音が、ふたりのあいだを静かに埋めていた。海は光の粒が水面を跳ねて、まぶしいほどに輝いていた。
「──って、ごめん。こんなふうに空気を重くするつもりはなかったんだ。なんとなく……一本気な君を見て昔の自分を思い出して……。……って君は俺みたいに愚かじゃないけどな。いつも痛いくらいに一生懸命だから」
「……ううん」
パイは静かに、ゆっくりと首を振った。
「話してくれて、ありがとう。聞けて……よかった」
そう言ったパイの目には、真剣な光が宿っていた。
風が吹き抜けていく。頬をなでる潮風のやさしさは、ただ心地いいだけでなく「いま自分は確かにここにいる」と教えてくれているようだった。
──その晩。
パイは帰宅すると、水差しに花束を生けて窓辺に飾った。月明かりに透ける白い花びらは夜の暗がりを照らすようにきれいだった。
パイは窓の前にある椅子に座り込むと、ただ静かに、そこにある花を長いこと見つめていた。
窓の外では風が低く鳴っていた。けれどその音も今はどこか遠く、夜の静けさが部屋ごと包み込み、時間の流れすら忘れさせるようだった。