幸せアイス
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……何度着てもコスプレに見える。
鏡の前でターンして、髪を整えてにっこり笑う。プリーツの線を作るぱりっとした糊も、締め慣れないネクタイの柔らかさも、びっくりするほど短いスカートも、全部可愛い、全部愛おしい。
知恵袋は偉大だった。質問を投稿して暫くしてから返ってきたのは、複数のお叱り解答だ。『推し活を怠るな』『全力で愛でろよ』『尊ぶ心が細すぎる』と、自分の寂しさに気を取られて推し活を軽んじる姿勢に己の愚かさに気付かされた。
……会おう。推し校のみんなに。上げよう。解析度。
次に多かった意見は、『キャラを攻略しろ』『推しカプを尊べ』という恋愛色のものだったけれど、人の気持ちが絡むからこれは無理そうだというのが忍足侑士との出会いから学んだ教訓だ。
……みんなまだ中学生だしね。健やかで穏やかな心身の成長を見守りたいよ。
ベストアンサーは、私の気持ちに寄り添ってくれたものにした。
『異世界転生はそんなに寂しいものなのですね。けれどそのアイスたちは、貴女の願いを叶え、貴女に幸せをもたらすものだったはず。まずはこちらの家族を頼ることから始めてはいかがでしょう。貴女にとっては他人でも、家族からすれば貴女は大切な人でしょう。人と交わり、友人や恋人を作ってはいかがでしょう。貴女にとってこの世界こそがホームになるでしょう。ようこそ、『テニスの王子様』の世界へ。この世界の我々は貴女を歓迎します。転生先に選んでくれて、ありがとう。』
今日から私、氷帝学園中等部の三年生です。
……やるぞ推し活!
外に出て暫く歩くと、駅から歩いてくる氷帝生の群れにぶつかった。つい1ヶ月前までオフィス街をスーツであるいていたのに、今朝は緑いっぱいの並木道を制服で歩いているのが改めて信じられない。
「ねえ、ライン交換しない? ね、無視しないでよ」
私のことか、と思って振り向いたら、いかにも人好きのしそうな男の子がにこにこしていた。「しないよ」と言って歩こうとする腕を掴まれて、驚く。
……え、これセクハラ。人事部に言うぞ……って違う。中学生の距離感、わからん。
自分が学生の頃が全く思い出せない。これはナンパなのか、中学生あるあるなのか。
「あ……と」
「初めて見る顔だけど、一年生じゃないよね? 外部試験受けたの? すごく可愛いけど芸能人? 部活決めた? サッカー部はマネ大歓迎だよ」
……すごいしゃべるじゃん。サッカー部ならテニプリと関係ないよね。
結構強い力で掴まれている腕を、振り解こうとしたのともう片方の腕を引かれたのが同時だった。
「悪いな。登校初日やから、構わんといてやって」
「侑士くん」
……ひぇ、さすが忍足侑士、恋愛ゲームテニスの王子様の攻略対象……中3の女の子だったら今ので絶対好きになっちゃう。
しかも効果は絶大で、男の子は「あ、そぉゆぅ」と言って校門の方へそそくさと去っていった。確かにさっきの忍足侑士はちょっと怖かった。低音ボイスなのもあるし、美形が眉を顰めるとそれだけで攻撃力が上がるのだ。
「意外やな。ああいうの軽くかわすタイプと思ったのに」
「一回会っただけで何言ってるの?」
今かわそうとしてましたけど、とまでは言わないけれど、別に助けて欲しいだなんて思ってないのは本当だ。
「おー侑士、従姉妹に会えた?」
あまりに聞き慣れた声に振り向くと、立っていたのは向日岳人だった。赤みがかった艶々の髪、大きくて少し吊りがちなキラキラした瞳、きゅっと固く結ばれたお口、そして華奢や体格。
……じ、実物かわいいいいいい!
「……あ、俺、岳人。3Dな、よろしく」
ちょっと驚かれたのは私の顔面チートのせいだ。よろしくしてくれたことと出会えたことが嬉しくて、にまにまが止まらない顔で自己紹介をした。
「へえ、苗字は『忍足』じゃないんだな」
「俺の母方の祖父母の苗字やな。お袋は嫁に出て忍足に変わったから」
「お前多分3Bだぜ。滝が、今日女子の編入性来るって言ってたからな」
……すごい。氷帝で一番露出が少ない滝萩之介の解析度が上がっちゃう……こんなの転生しなきゃありえないことだよね。
向日岳人は、漫画やアニメの印象よりずっと良い感じのお坊ちゃんな気がする。歩きながら氷帝のことを色々教えてくれるけど、青学に対して言っていたみたいな嫌味な口調は無いしにこにこよく笑う。
「そんで一番のおすすめはカフェテリアだな。跡部グループのあのレストラン系列だし、なんたってここでしか食えないケーキが、と、信号変わるぞ」
正門の前は大通りになっていて、歩行者用の信号が点滅しているところだった。「よっ」と軽い掛け声とともに、向日の体がふわりと舞い上がる。
「え?」
気がつけば、数度の着地を経て彼の姿はもう大通りの向こう側だった。何をどうやったらそんなことが出来るのかさっぱりわからない。
「え……なんで……」
「そういうヤツやからなぁ」
忍足侑士と二人、信号のこちら側に取り残されてしまった。こっちを振り向いた向日はぴょんぴょんと何度か飛び跳ねた後、颯爽と校舎の方向へ消えていってしまう。
忍足の横顔を見上げる。立ち姿も制服からチラ見えする喉仏も端正な横顔も、どこを切り取っても印象的な男だった。真っ直ぐ前を見据えてこちらには見向きもしないから、ブレザーの裾をくんと引いた。
「何?」
「探してくれていたんだ、どこに行けばいいのかわからないから、助かる」
「ああ、まあ、この間途中で放り出してもうたから」
「さっきも、庇ってくれてありがとう」
明らかに拗ねている顔で見下ろしてきた忍足の眦が少し赤い。信号が変わるのと同時に大きなため息を吐かれたけれど、群衆の一部になって二人、歩き出す。
「はぁぁ……自分みなまで言い過ぎや。かっこつかんなぁ」
心底嫌そうな顔で言うのが可愛くて思わず笑ってしまう。それを受けて、忍足も肩の力を抜く仕草をして小さく笑った。
「ちゃんと優しいしちゃんとカッコいいよ」
「だから言うなって。余計カッコ悪いわ。言っとくけどお袋や爺様たちに頼まれてるからやで」
「乙です乙です。面倒おかけします」
頼まれてるからって実際に行動するかは本人の優しさだったり真面目さだったり資質が左右すると思う。忍足の評価が急上昇で困る。あんなに落ち込んだのに。
……仲良く出来るといいな。
「ほんまにな。ああ、さっきの岳人は俺と同じテニス部や。えっらいキラキラした目で見とったけど、手ぇ出すなよ」
「出さないよ! 相手中学生だよ⁈」
「年上専門てことか? 引くわぁ」
「血を感じて」と、小さく付け加えられたのが自己申告ではないことを願いたい。
……それは兎も角いけないな、大人目線やめよ。態度に出ちゃう。
校門をくぐれば、そこからは空気が違った。可愛い石畳、複雑な模様を象ったアイアンのベンチ、木々に集まる鳥の声。
……わぁ、私本当に、もう一回学生生活送るんだ……。
「すごく綺麗な学校だね……わ、噴水。あ、あれ何?」
「図書館。蔵書数やばいし中もお洒落でお薦めやな。自習室も充実してる」
「えええ早く行ってみたい。さっき向日くんが言ってたカフェも。ね、友だちできなかったら付き合って」
「諦め前提かいな、まず努力しいや友だち作りの」
呆れたように笑われたけれど全く自信がない。杏ちゃんたちとはテニスという共通項があったしいい子たちだったから仲良くしてもらえたけど、社畜歴が長い私が今更多感なお年頃の子たちに混じれるだろうか、いや無理だ。春休みにティーン向けの雑誌も読みあさってみたけれど、適応には難かった。
その点、忍足はすごく話しやすい。元の年齢の友だちと話しているみたいな感覚だ。流石、創造神に『氷帝の月』と命名されただけあって、成人レベルで落ち着いている。
長い指で眼鏡のずれを直して、忍足は少し困ったように笑った。
「今日は随分懐くやん。春休みに会ったときはなんや喧嘩売ってきたのに」
「それについては、めっちゃ嫌そうにしてる侑士くんも悪かったと思う」
「え、気付いてたん? ははっ」
あんな露骨な態度で気付かれないと思う方がおかしい。でもだからって、私まで失礼な態度をとっていい理由にはならない。売られた喧嘩をいちいち買っていたら弊社は潰れてしまう。杏ちゃんたちと遊んでいて、気持ちが子どもの頃に戻ってしまっていたのか、若しくは。
「従姉妹ってことに甘えてたのかも。実質初めて会うようなものなのに、おかしいよね。あのときは失礼な態度をとってごめんなさい」
「もうええわ」と、大きな手をひらひらされた。実際に隣に立ってみると、178センチはかなり大きい。
「あの日は楽しみにしてた映画の封切り日やってん。初回逃して苛ついてたし、次の回に間に合わせたくてな」
……ああ、そういう理由があったんだ。私は別にあの日じゃなくても良かったのに、悪いことしちゃったな。
そう告げようとしたところ、覗き込まれて爽やかな笑顔を向けられた。眩しい、焦げる。
「従兄弟云々っちゅーのは俺もわかるわ。やっぱり血のつながりってあるんかな、付き合い浅い気がせーへん」
……この身体はさておき、本当は血の繋がりなんて無いから、単にフィーリングが合っただけだと思うよ。
屈託なく笑う顔は、アニメやゲームのスチルで見慣れているはずなのに全然違う。真っ直ぐ私だけに向けられた視線に、頭が沸きそうだ。
「あの日は俺が悪かったわ。お詫びに、『侑士』、って呼んでもええで、従姉妹ちゃん」
首を小さく傾げて、悪戯っ子みたいに笑った顔が可愛くて眩しくて可愛くて、語彙と共にオタクは死んだ。
……ひぃ……! 尊さに殺される……!
面倒見の良い侑士とは職員室の前で別れて、担任と一緒に教室へ向かう。向日の予想通り、私は三年B組だった。長い廊下をゆっくり歩きながら、懐かしい、でも私が中学生だったときとは全然異なる空気を満喫する。
D組の前を通ると、中に居た向日と目が合った。笑って手を振ったけれど目を逸らされてしまう。中三男子は難しい。仕方がないから変顔をしてやると、手を叩いて爆笑し喜んでくれた。引かれなくて良かった、中三男子ちょろ。
C組では宍戸亮や芥川慈郎の姿が見られるかなと期待したけれど、それらしいのは見当たらない。跡部景吾様がおわしますA組の中は見られないまま、B組には到着した。
「おはよう。始業式の前に編入性を紹介するよ。自己紹介して」
「よろしくお願いします」
担任に促されて、名前や趣味なんかを話す。騒めきは大きかった。「芸能人?」「この時期の編入は」「家格も見るんだ」「頭良くなきゃ」。
……私が持ってるのは顔面チートと家柄チートだけだから……勉強は期待しないで……。
春休みから必死にやり始めた効果はいかほどだろうか。来月は早速中間考査があるらしい。好奇心と警戒心がないまぜになった視線を一身に受ける中、一人の男の子と目があった。
……滝萩之介だっ……!
クラスの中で一人だけ雰囲気が違う。さらつやな髪に、舞台役者みたいな切長の目、お肌も白く光っていて、完璧な美少年だ。その瞳が弧を描くように弓形になって、折角笑ってくれたというのにうまく笑い返せたかわからない。
「席はクラス委員の小夜さんの隣に座ってください。小夜さん、色々教えてあげてくださいね」
「わかりました」
返事をしたクラス委員は、大人びた雰囲気の美少女だった。長い黒髪を肩のところで切り揃えていて、氷帝の制服がよく似合っている。
「よろしくね」
「小夜さん? よろしく」
「小夜でいいよ。分からないことがあったら何でも聞いて」
「ありがとう、頼りにさせてもらうね」
……懐かしいなぁこういう感じ。学生っぽい。
ノスタルジーに浸りかけるのを、校内放送に阻まれた。これから始業式が始まるから、全員行動へ集合するらしい。小夜は「委員会で準備があるから先に行く」と言って席を立った。感じが良い子がお隣の席でありがたい。
……氷帝って生徒数多いなぁ。テニス部だけで二百人だもんね。
色々な要素が合わさって遠巻きされてしまっているのはこれから要努力だと思うことにして、人混みに流されて何処だか分からない講堂へ向かう。
案の定、講堂は『跡部記念ホール』と名付けられたそれはそれは豪華な劇場だった。私が思い描いていた、クラスごとに一列に並んで起立したまま校長の長い訓示を聞く……という昔ながらの風景は微塵もない。ついでに、座る場所もない。腕章をつけた生徒が『奥から詰めて座ってくださーい』と声を掛けているけれど、所々空席になっているせいで待機列は渋滞している。異世界でも通路側は鉄板の人気だ。
「あらら、座り損ねちゃったね編入生さん」
「え」
振り返ると、滝萩之介が立っていた。
……そうだ、こういう声だった。滝萩之介の声はテニミュのイメージが強くて……やっぱり海堂薫と声が似てるのかな? 現実にも声が似てる人なんていっぱい居るし。
「俺は同じクラスの滝萩之介だよ。名前長いから、滝って呼んで、みんなそう呼ぶから」
「ありがとう、私も呼び捨てでいいよ。よろしくね」
……うっそだー! 私は知っている。テニス部メンバーは名前で呼ぶ子も居ることを。しかし簡単に名前を呼ばせない、それが、尊いありがとうございます!
「編入初日に立ち見席なんてナンセンスだ。俺の特等席にご案内しようか」
見れば、ポツポツと遅れて入ってくる子たちはギャラリーの一番後ろの通路に陣取りを始めている。腕章をつけた生徒たちもだ。
私が頷くのを待って、滝は踵を返し講堂を出て行ってしまう。初日から行事をサボることに後ろ髪を引かれながらも、私が選ぶ道は推し活より他にない。
滝は迷いなく庭の中を歩いて行く。会社と変わらないから違和感が無かったけれど、そういえば氷帝学園には上靴という存在が無いらしい。講堂をぐるりと回って裏手に出ると、芝生の上をぐんぐん進んでいく。そのまま林の中へ入っていこうとするから、流石に少し怖くなった。周りには人気が全くない。普通なら着いていくはずがない状況だ。
……でも今やめたら、滝のこと知らないままだ。推しが悪いことするはずない!
そう信じて、薄暗い林の中へ足を踏み入れる。芝生は雑草に変わり、砂利も混じり始めた。
「ここだよ、どうぞ座って」
「……わぁっ」
空を覆う木々がそこだけぽっかり空いていて、春の柔らかな日差しが落ちる場所だった。大通りにあったのと同じアイアンのベンチと、パラソルのついたテーブル、木々の間には畳まれたハンモックまであった。
「ここでサボるつもり?」
「まさか。俺は真面目な生徒だよ。生徒会長もおっかないし」
見せられたスマホの画面には、講堂のステージが映っていた。ファンファーレみたいなチャイムが鳴り響き、『これより氷帝学園前期始業式を開会します』とアナウンスが続く。
「ライブ中継……」
「氷帝アプリ。説明なかった?」
あったし入れたけれど、ろくに見ていなかった。
勧められたベンチに座ると、その隣に滝も座った。テーブルの上にスマホを置いたので大人しく見るかと思いきや、生徒指導の教師の言葉に被せて話をし始める。
「いつもはここで眠っている常習犯が居るんだけど、新学期だし流石に連れて行かれたみたいだね」
「滝は良いの?」
それって慈郎じゃんという言葉と好奇心は飲み込んだ。滝はふんわりと笑う。春の優しい光に相まって、その瞳があんまり甘やかだったから心臓がどきりとした。
「だって、君とても美しいから。跡部以来だよ、視界に入れるだけで眼福な美形」
「んん?」
「ほら、俺も美しいだろう? 綺麗なものは一箇所に集まるべきだと思うんだ、だってその方が世界のためだもの、今度跡部も紹介してあげるから、是非つるんで欲しい。相乗効果で何倍もの大衆を魅了しよう」
「んんん?」
「肌白いねえ、化粧品はどこの使ってる? シャンプーは? フレグランスは? 爪も綺麗だ、どこのお店? 今俺最強の睫毛美容液探しててさ、君は何使ってる?」
「んんんんん……」
……残念なイケメン、爆誕。
一目惚れなんだ、なんて台詞が続いてもおかしくないくらいの甘さが秒で霧散した。あのうっとりした瞳は、私では無くて自分に向けられていたものだったらしい。でも良いのだ、わかる。好きなことの話題には早口になるその習性、私にはよぉくわかる。
……跡部様も紹介してくれるっていうし、なんて有難い!
「滝が自分大好きなのはわかった。その気持ちすごくわかる。沢山語ろう」
「ああやっぱり君も君が好きだよね、俺たち良い友だちになれそうだ。なんなら付き合ってもいい」
「それは要らん」
そして、私は私じゃなくてテニプリクラスタです。
両手をがっちり繋いで握手をした。私の目を真っ直ぐに射て心から嬉しそうな顔で笑う滝だけれど、それが私の瞳に映った自分を見ているような気がしてならない。
「あは、振られちゃったからまずは美容液の話から始めようか」
スマホから『生徒会長挨拶』という声が流れてきた。跡部様の新動画を拝むチャンスだというのに、「気が散るねー」と言いながら無情にもアプリは落とされてしまった。
「え、睫毛天然なの⁈ 跡部も同じこと言ってたよ……憎い、高級自然素材ガチャの引き良すぎじゃないか……憎い……」
「滝サン、始業式終わったみたいよ」
「あれ本当だ。あっという間だったね、君と話すのすごく楽しい。ライン交換しない?」
私も楽しかった。まるで元の世界の同年代の女子会みたいだった。何故中学生が、独身貴族の社会人と同ランクの基礎化粧品を使っているのか。格差社会が改めて恐ろしい。
講堂の方から騒めきがし始めた。結局始業式は全く聞いていないし跡部様は見損ねている。
さりげない仕草で手を差し伸べられて、思わず取って立ち上がったけどこんなこと普通の友だちがするだろうか、しかも中学生だ。
……もう流石、王子様としか言いようがないね。
編入初日の昼食は、小夜と一緒にとった。今日の昼食は来るときにコンビニで買ってきたもの。氷帝には購買や食堂だけじゃなくてカフェにファストフードのフランチャイズ、サロンにレストランなんかが複数あるらしく、こんなマンモス校でもランチ難民になることはないらしい。それで経営大丈夫なのかと心配になるけれど、全ては跡部様がご入学あそばされたことが発端らしいからそれだけで全て説明がつく。
小夜の昼食は、母親の手作り弁当だった。それが、今日女の子の編入生が来るからどこでも一緒に食べられるようにという配慮らしいことに気が付いて脱帽した。
……テニプリゲームに出てくる女の子たちも結構大人びてたしな。もしかして元の世界より、みんな精神年齢が高い?
ウィンナーをフォークで刺しながら、小夜はじっと私を見る。
「あなたって大人びてるよね」
「私も今同じこと思ってた……小夜のほうがずっと落ち着いてるよ」
「今までそんなこと思ったことな、」
小夜の言葉を遮って、私たちの隣に立った女の子が「コンビニの食事なんて、添加物が沢山入ってるからママが食べさせてくれないの。羨ましい」と連れ立っている友だちと笑った。
……中学生女子にマウントを取られてしまった……。
社畜にコンビニ飯はマストどころか有難い存在だけれど、私は今十四歳になってしまったわけだし、子どもの身体を労わるように自分の身体を大切にしてあげた方がいいかもしれない。
「心配してくれてありがとう」
にっこりポジティブに返してやると、マウントに失敗した彼女たちは面白くなさそうな顔で教室を出て行った。小夜は完全に呆れ顔だ。
「人間性を損なっているわね。彼女たち知ってるのよ、あなたのお祖父様がコンビニの生みの親と言われる実業家なのも、あなたのご両親が他界されていることも」
「ほほう」
私は知らなかった、これは非常にまずい。後者については自分でつけたオプションだというのに完全に忘れていた。社畜の頃から一人暮らしだったから、一人で暮らしているのに違和感が無さすぎた。反対に、小夜然り、編入初日にパーソナルデータがだだ漏れなのには強烈な違和感だ。祖父は有名人らしいので有名税だろうか。あとでちゃんと調べておこう。
「彼女たちは危惧してるの。だって私はこんなに可愛いし賢いし家柄も良いし彼氏イケメンだけど、単独行動だったから。あなたはすごい美人だし家柄も良いでしょう? これで私とあなたが一緒に行動するようになったら、学園内のグループカーストの番付が狂うもの」
「心底どうでもいい。でも小夜とは一緒に居たいな。暇なときでいいから学園めぐり付き合ってほしい。このカフェと、図書館と、サロンの音楽会と……」
今日配られた内部生用の学園パンフレットには、楽しい情報が沢山だった。漫画の中のセレブ学園はやりたい放題してくれているので、折角転生したのだから私もそれを享受したい。
「いいよ。学内でも学外でも、付き合ってあげる」
胸がきゅんとした。小夜が笑った顔があまりにも可愛かったせいだ。こんなに可愛いし性格まで良いのだからもしかしたらテニプリキャラの彼女かもしれないと思ったけれど、彼氏はバスケ部らしい。
「ねえ、スマホあなたのじゃない?」
「あ、本当だ。かけてくる人なんて滅多無いから……」
「そんなこと態々教えてくれなくてもいい」と言われたけれど事実だ。画面には『忍足侑士』の表示。これを登録した日の変に膨らんだキラキラした気持ちはないけれど、それが無くなった分の安心感は確かに存在している。
「はい、私」
『自分始業式おったか?』
「スマホで聴いてはいたよ」
『編入初日からサボタージュとは自由やなぁ』
間延びしたような低い声色に少しだけ責めているような音を見つけて、滝の厚意だというのはやめておいた。折角出来た友人を売るような真似はしないのだ。
……侑士の声、改めてやばい。耳元で囁くのテロだよエロテロリスト。
しかも聞き慣れた楽曲やゲームと違って、次にどんな言葉が来るのか予想もできない。
『本題な、今夜夕飯、一緒に食おうてうちの両親がな。自分の編入祝いと俺の進級祝いとか』
「今夜? 予定はないけど」
急だね、という呑み込んだ言葉は読まれてしまった。侑士曰く、忍足家の両親はこの春から仙台で暮らしているらしい。お姉さんは同時期に北海道の大学へ進学していて、東京の家には侑士だけが残っている。
「お父さんお医者さんだったよね?」
『おー、医局の言いなりや。俺は医者になったら絶対開業する』
「いいな開業医。私もやりたい」
『そこはお嫁さんになりたいって言うとこと違う? 嘘でも』
ご両親は夕方の新幹線で来て、夜に蜻蛉返りするらしい。大人の忙しさ、融通が効かないしがらみの多さ、年々落ちてくる体力なんかを知っている私は内心咽び泣いた。
……一人暮らし始めさせた息子が心配だろうに、折角の一家団欒に私まで混ぜてくれるなんて……良い人たちだなぁ。
「侑士のご両親は優しいんだね。是非お邪魔させてもらうよ」
『そんな誉めそやすほどのもんやない。自分にとっても叔父叔母やねんから頼ったらええんやないの。今日の七時にモナリザって店、わかるか。自分ちの近くのブックカフェの隣』
「うちの近くにブックカフェなんてあった? わかんないけど検索して行くよ」
『わかりにくいけどな。古民家改造したフレンチレストランで、看板も出てへんし』
変に迷って、折角仙台からお見えになるご両親をお待たせしたくない。その点、スマホより頼りになる道標が電話の先にいる。
「今日部活あるの?」
『え、秘密』
「滝ぃ、今日テニス部何時から何時まで?」
ちょっと離れた席でスマホをいじっていた滝から、三時から六時までと言質をとった。今日は始業式だから下校も早いのだ。
「かの有名なテニス部の練習を見学したいと思ってたんだ。レストラン、一緒に行こうよ」
『自分、ぐいぐい来るなぁ』
……え、今つまり『おばちゃん』って言った? せめて『お姉さん』にしといて。
帰り際のホームルームが終わると、小夜は年相応に嬉しそうな笑顔で廊下へ駆け出して行った。男子バスのマネージャーをやっているんだそうで、部活帰りの彼氏との帰宅デートが今一番の楽しみだとか。
……青春かよ! 羨ましい。若者よ末長く幸せに。
爆ぜろなんて言わない、友だちだから。
さっと鞄に筆記用具や書類を詰め込んで、喧騒の廊下を歩く。新入生への部活見学案内のアナウンスが流れる中、中庭の枝垂れ桜がさやさやとピンクの風を魅せている。
……本当に、異世界だ。
小夜や滝から離れてしまえば、私はまたいつもの誰も知らない私に戻ってしまう。今日の食事会で新しく人との繋がりを作ることは、この世界との新しい接点になるはずだ。帰り道を急ごう。
学園から家までは徒歩で通える距離なのがとても助かる。幸せアイスのステータスチョイスは抜群だ。
「ただいまー」
家事代行さんはついさっきまで居たのか、玄関をあけるとお料理の良い香りがした。まだ1ヶ月程度しか住んでいない我が家なのに、学園から帰ってくるとこの静かさや匂いがどうにも落ち着く。
クローゼットの中で、お食事の服装を散々悩む。ブルーのワンピースが一番きちんと見える気がして、髪を整えたりしていたらあっという間に五時間近になっていた。推し活と実生活の両立は難しい。
……前は制服じゃないと学内入れないって言われたけど、学生証一応持ってこ。あ、手土産がない……いいのか中学生なら? 中学生久しぶりすぎて初心者同然だから……。
また来た道を学園へと急ぐ。後ろから黄色い声とバタバタした感じが近づいて来て、「走ろっ跡部様に早く会いたいよ」「忍足くんが試合してるって」なんて口にしながら、女の子たちが私を追い越して走っていった。氷帝の制服の子も居れば、全く違う制服や私服の子、中には青学の制服を着ている子もいる。
門の所には守衛さんが二人居て通行を止められた。
「テニス部の見学? 写真入りの身分証と、ここに名前と電話番号を書いていってね。ああ、学園の生徒さんなら学生証をここにかざしてくれればいいから」
特に難なく入れてしまった。前を急ぐ女の子たちの後をこそこそついていくと、もうここまで黄色い悲鳴が聞こえてくる。
「きゃー! 跡部様! 跡部さまぁ!」
「長太郎くーん! こっち向いて!」
「宍戸くん! 頑張ってぇ!」
……これ知ってる……ドリライとか、チームパーティとか……え、すごくない? 通常運転であのノリで騒がれてるの? こんな持て囃されてどんな大人になるの? アイドルなの?
もちろん規模は違うけれど、数十人の女の子たちがギャラリーから黄色い声援とハートを投げつけている光景に唖然とした。気後れしてしまって、ギャラリーの特等席から少し離れた場所に座った。こんなことなら、オペラグラスを持ってくればよかった、いやそれも怖いか。
あそこでサーブを打とうとしてる長身は侑士だ。眼鏡がきらきら光るしわかりやすい。同じコートに入ってるのは向日。こちらも一人だけ動きがずば抜けて多いから遠くからもよくわかる。その隣のコートでシングルスをしているのは滝。
……相手は……うわぁ……鳳長太郎だ……すごい……感動……顔はよく見えないけど本当に背、大きなぁ。
他のメンバーを早く見つけたくて、慌てて周囲に視線を走らせる。
……あ! あそこのベンチでふんぞり返って部員になにか言ってるの絶対に跡部様だよ! 後ろは樺地だもん大きい‼︎ あのポニテは宍戸だ! 玉出ししてるマッシュボブは日吉だ……すごい……。
何度同じアイスを買っても絶対に出てこないあの幸せアイスに言いたい。
……推しが生きてる‼︎ 私今、幸せ!
けれども三十分もたつと、今夜の食事会が気になりはじめた。最低限のマナーはわかる。語先後礼と最敬礼は親族にも適用できただろうか、もっと可愛げがあった方が好かれるかだろうか。この世界で初めて『親族』という存在に会うのは少し緊張する。
……侑士も一応そうだけど、目上の方とはまた違うんだよなぁ。……そんな不安な私には、コレ。
榊文庫から出ている新書、「サルでもわかるマナー本」。悪意しかないタイトルだけど、榊文庫、跡部社の両出版社は最近私の愛読書だ。もとの世界にはあるはずのないこの2社が今の日本の二大出版社で、私の知らない本を出しまくっているのがとても面白い。ちなみに跡部系と榊系は他にも未知のアミューズメント施設や美術館、リゾート地なんかも展開していて、そこを周り倒すのが今の夢だ。
予め用意しておいたブルーの布製のブックカバーをこっそりとかけて、六時までの残りを付け焼き刃を打つタイムにすることにした。テニスボールの軽快な音と女の子たちの声援は止む気配がない。
鏡の前でターンして、髪を整えてにっこり笑う。プリーツの線を作るぱりっとした糊も、締め慣れないネクタイの柔らかさも、びっくりするほど短いスカートも、全部可愛い、全部愛おしい。
知恵袋は偉大だった。質問を投稿して暫くしてから返ってきたのは、複数のお叱り解答だ。『推し活を怠るな』『全力で愛でろよ』『尊ぶ心が細すぎる』と、自分の寂しさに気を取られて推し活を軽んじる姿勢に己の愚かさに気付かされた。
……会おう。推し校のみんなに。上げよう。解析度。
次に多かった意見は、『キャラを攻略しろ』『推しカプを尊べ』という恋愛色のものだったけれど、人の気持ちが絡むからこれは無理そうだというのが忍足侑士との出会いから学んだ教訓だ。
……みんなまだ中学生だしね。健やかで穏やかな心身の成長を見守りたいよ。
ベストアンサーは、私の気持ちに寄り添ってくれたものにした。
『異世界転生はそんなに寂しいものなのですね。けれどそのアイスたちは、貴女の願いを叶え、貴女に幸せをもたらすものだったはず。まずはこちらの家族を頼ることから始めてはいかがでしょう。貴女にとっては他人でも、家族からすれば貴女は大切な人でしょう。人と交わり、友人や恋人を作ってはいかがでしょう。貴女にとってこの世界こそがホームになるでしょう。ようこそ、『テニスの王子様』の世界へ。この世界の我々は貴女を歓迎します。転生先に選んでくれて、ありがとう。』
今日から私、氷帝学園中等部の三年生です。
……やるぞ推し活!
外に出て暫く歩くと、駅から歩いてくる氷帝生の群れにぶつかった。つい1ヶ月前までオフィス街をスーツであるいていたのに、今朝は緑いっぱいの並木道を制服で歩いているのが改めて信じられない。
「ねえ、ライン交換しない? ね、無視しないでよ」
私のことか、と思って振り向いたら、いかにも人好きのしそうな男の子がにこにこしていた。「しないよ」と言って歩こうとする腕を掴まれて、驚く。
……え、これセクハラ。人事部に言うぞ……って違う。中学生の距離感、わからん。
自分が学生の頃が全く思い出せない。これはナンパなのか、中学生あるあるなのか。
「あ……と」
「初めて見る顔だけど、一年生じゃないよね? 外部試験受けたの? すごく可愛いけど芸能人? 部活決めた? サッカー部はマネ大歓迎だよ」
……すごいしゃべるじゃん。サッカー部ならテニプリと関係ないよね。
結構強い力で掴まれている腕を、振り解こうとしたのともう片方の腕を引かれたのが同時だった。
「悪いな。登校初日やから、構わんといてやって」
「侑士くん」
……ひぇ、さすが忍足侑士、恋愛ゲームテニスの王子様の攻略対象……中3の女の子だったら今ので絶対好きになっちゃう。
しかも効果は絶大で、男の子は「あ、そぉゆぅ」と言って校門の方へそそくさと去っていった。確かにさっきの忍足侑士はちょっと怖かった。低音ボイスなのもあるし、美形が眉を顰めるとそれだけで攻撃力が上がるのだ。
「意外やな。ああいうの軽くかわすタイプと思ったのに」
「一回会っただけで何言ってるの?」
今かわそうとしてましたけど、とまでは言わないけれど、別に助けて欲しいだなんて思ってないのは本当だ。
「おー侑士、従姉妹に会えた?」
あまりに聞き慣れた声に振り向くと、立っていたのは向日岳人だった。赤みがかった艶々の髪、大きくて少し吊りがちなキラキラした瞳、きゅっと固く結ばれたお口、そして華奢や体格。
……じ、実物かわいいいいいい!
「……あ、俺、岳人。3Dな、よろしく」
ちょっと驚かれたのは私の顔面チートのせいだ。よろしくしてくれたことと出会えたことが嬉しくて、にまにまが止まらない顔で自己紹介をした。
「へえ、苗字は『忍足』じゃないんだな」
「俺の母方の祖父母の苗字やな。お袋は嫁に出て忍足に変わったから」
「お前多分3Bだぜ。滝が、今日女子の編入性来るって言ってたからな」
……すごい。氷帝で一番露出が少ない滝萩之介の解析度が上がっちゃう……こんなの転生しなきゃありえないことだよね。
向日岳人は、漫画やアニメの印象よりずっと良い感じのお坊ちゃんな気がする。歩きながら氷帝のことを色々教えてくれるけど、青学に対して言っていたみたいな嫌味な口調は無いしにこにこよく笑う。
「そんで一番のおすすめはカフェテリアだな。跡部グループのあのレストラン系列だし、なんたってここでしか食えないケーキが、と、信号変わるぞ」
正門の前は大通りになっていて、歩行者用の信号が点滅しているところだった。「よっ」と軽い掛け声とともに、向日の体がふわりと舞い上がる。
「え?」
気がつけば、数度の着地を経て彼の姿はもう大通りの向こう側だった。何をどうやったらそんなことが出来るのかさっぱりわからない。
「え……なんで……」
「そういうヤツやからなぁ」
忍足侑士と二人、信号のこちら側に取り残されてしまった。こっちを振り向いた向日はぴょんぴょんと何度か飛び跳ねた後、颯爽と校舎の方向へ消えていってしまう。
忍足の横顔を見上げる。立ち姿も制服からチラ見えする喉仏も端正な横顔も、どこを切り取っても印象的な男だった。真っ直ぐ前を見据えてこちらには見向きもしないから、ブレザーの裾をくんと引いた。
「何?」
「探してくれていたんだ、どこに行けばいいのかわからないから、助かる」
「ああ、まあ、この間途中で放り出してもうたから」
「さっきも、庇ってくれてありがとう」
明らかに拗ねている顔で見下ろしてきた忍足の眦が少し赤い。信号が変わるのと同時に大きなため息を吐かれたけれど、群衆の一部になって二人、歩き出す。
「はぁぁ……自分みなまで言い過ぎや。かっこつかんなぁ」
心底嫌そうな顔で言うのが可愛くて思わず笑ってしまう。それを受けて、忍足も肩の力を抜く仕草をして小さく笑った。
「ちゃんと優しいしちゃんとカッコいいよ」
「だから言うなって。余計カッコ悪いわ。言っとくけどお袋や爺様たちに頼まれてるからやで」
「乙です乙です。面倒おかけします」
頼まれてるからって実際に行動するかは本人の優しさだったり真面目さだったり資質が左右すると思う。忍足の評価が急上昇で困る。あんなに落ち込んだのに。
……仲良く出来るといいな。
「ほんまにな。ああ、さっきの岳人は俺と同じテニス部や。えっらいキラキラした目で見とったけど、手ぇ出すなよ」
「出さないよ! 相手中学生だよ⁈」
「年上専門てことか? 引くわぁ」
「血を感じて」と、小さく付け加えられたのが自己申告ではないことを願いたい。
……それは兎も角いけないな、大人目線やめよ。態度に出ちゃう。
校門をくぐれば、そこからは空気が違った。可愛い石畳、複雑な模様を象ったアイアンのベンチ、木々に集まる鳥の声。
……わぁ、私本当に、もう一回学生生活送るんだ……。
「すごく綺麗な学校だね……わ、噴水。あ、あれ何?」
「図書館。蔵書数やばいし中もお洒落でお薦めやな。自習室も充実してる」
「えええ早く行ってみたい。さっき向日くんが言ってたカフェも。ね、友だちできなかったら付き合って」
「諦め前提かいな、まず努力しいや友だち作りの」
呆れたように笑われたけれど全く自信がない。杏ちゃんたちとはテニスという共通項があったしいい子たちだったから仲良くしてもらえたけど、社畜歴が長い私が今更多感なお年頃の子たちに混じれるだろうか、いや無理だ。春休みにティーン向けの雑誌も読みあさってみたけれど、適応には難かった。
その点、忍足はすごく話しやすい。元の年齢の友だちと話しているみたいな感覚だ。流石、創造神に『氷帝の月』と命名されただけあって、成人レベルで落ち着いている。
長い指で眼鏡のずれを直して、忍足は少し困ったように笑った。
「今日は随分懐くやん。春休みに会ったときはなんや喧嘩売ってきたのに」
「それについては、めっちゃ嫌そうにしてる侑士くんも悪かったと思う」
「え、気付いてたん? ははっ」
あんな露骨な態度で気付かれないと思う方がおかしい。でもだからって、私まで失礼な態度をとっていい理由にはならない。売られた喧嘩をいちいち買っていたら弊社は潰れてしまう。杏ちゃんたちと遊んでいて、気持ちが子どもの頃に戻ってしまっていたのか、若しくは。
「従姉妹ってことに甘えてたのかも。実質初めて会うようなものなのに、おかしいよね。あのときは失礼な態度をとってごめんなさい」
「もうええわ」と、大きな手をひらひらされた。実際に隣に立ってみると、178センチはかなり大きい。
「あの日は楽しみにしてた映画の封切り日やってん。初回逃して苛ついてたし、次の回に間に合わせたくてな」
……ああ、そういう理由があったんだ。私は別にあの日じゃなくても良かったのに、悪いことしちゃったな。
そう告げようとしたところ、覗き込まれて爽やかな笑顔を向けられた。眩しい、焦げる。
「従兄弟云々っちゅーのは俺もわかるわ。やっぱり血のつながりってあるんかな、付き合い浅い気がせーへん」
……この身体はさておき、本当は血の繋がりなんて無いから、単にフィーリングが合っただけだと思うよ。
屈託なく笑う顔は、アニメやゲームのスチルで見慣れているはずなのに全然違う。真っ直ぐ私だけに向けられた視線に、頭が沸きそうだ。
「あの日は俺が悪かったわ。お詫びに、『侑士』、って呼んでもええで、従姉妹ちゃん」
首を小さく傾げて、悪戯っ子みたいに笑った顔が可愛くて眩しくて可愛くて、語彙と共にオタクは死んだ。
……ひぃ……! 尊さに殺される……!
面倒見の良い侑士とは職員室の前で別れて、担任と一緒に教室へ向かう。向日の予想通り、私は三年B組だった。長い廊下をゆっくり歩きながら、懐かしい、でも私が中学生だったときとは全然異なる空気を満喫する。
D組の前を通ると、中に居た向日と目が合った。笑って手を振ったけれど目を逸らされてしまう。中三男子は難しい。仕方がないから変顔をしてやると、手を叩いて爆笑し喜んでくれた。引かれなくて良かった、中三男子ちょろ。
C組では宍戸亮や芥川慈郎の姿が見られるかなと期待したけれど、それらしいのは見当たらない。跡部景吾様がおわしますA組の中は見られないまま、B組には到着した。
「おはよう。始業式の前に編入性を紹介するよ。自己紹介して」
「よろしくお願いします」
担任に促されて、名前や趣味なんかを話す。騒めきは大きかった。「芸能人?」「この時期の編入は」「家格も見るんだ」「頭良くなきゃ」。
……私が持ってるのは顔面チートと家柄チートだけだから……勉強は期待しないで……。
春休みから必死にやり始めた効果はいかほどだろうか。来月は早速中間考査があるらしい。好奇心と警戒心がないまぜになった視線を一身に受ける中、一人の男の子と目があった。
……滝萩之介だっ……!
クラスの中で一人だけ雰囲気が違う。さらつやな髪に、舞台役者みたいな切長の目、お肌も白く光っていて、完璧な美少年だ。その瞳が弧を描くように弓形になって、折角笑ってくれたというのにうまく笑い返せたかわからない。
「席はクラス委員の小夜さんの隣に座ってください。小夜さん、色々教えてあげてくださいね」
「わかりました」
返事をしたクラス委員は、大人びた雰囲気の美少女だった。長い黒髪を肩のところで切り揃えていて、氷帝の制服がよく似合っている。
「よろしくね」
「小夜さん? よろしく」
「小夜でいいよ。分からないことがあったら何でも聞いて」
「ありがとう、頼りにさせてもらうね」
……懐かしいなぁこういう感じ。学生っぽい。
ノスタルジーに浸りかけるのを、校内放送に阻まれた。これから始業式が始まるから、全員行動へ集合するらしい。小夜は「委員会で準備があるから先に行く」と言って席を立った。感じが良い子がお隣の席でありがたい。
……氷帝って生徒数多いなぁ。テニス部だけで二百人だもんね。
色々な要素が合わさって遠巻きされてしまっているのはこれから要努力だと思うことにして、人混みに流されて何処だか分からない講堂へ向かう。
案の定、講堂は『跡部記念ホール』と名付けられたそれはそれは豪華な劇場だった。私が思い描いていた、クラスごとに一列に並んで起立したまま校長の長い訓示を聞く……という昔ながらの風景は微塵もない。ついでに、座る場所もない。腕章をつけた生徒が『奥から詰めて座ってくださーい』と声を掛けているけれど、所々空席になっているせいで待機列は渋滞している。異世界でも通路側は鉄板の人気だ。
「あらら、座り損ねちゃったね編入生さん」
「え」
振り返ると、滝萩之介が立っていた。
……そうだ、こういう声だった。滝萩之介の声はテニミュのイメージが強くて……やっぱり海堂薫と声が似てるのかな? 現実にも声が似てる人なんていっぱい居るし。
「俺は同じクラスの滝萩之介だよ。名前長いから、滝って呼んで、みんなそう呼ぶから」
「ありがとう、私も呼び捨てでいいよ。よろしくね」
……うっそだー! 私は知っている。テニス部メンバーは名前で呼ぶ子も居ることを。しかし簡単に名前を呼ばせない、それが、尊いありがとうございます!
「編入初日に立ち見席なんてナンセンスだ。俺の特等席にご案内しようか」
見れば、ポツポツと遅れて入ってくる子たちはギャラリーの一番後ろの通路に陣取りを始めている。腕章をつけた生徒たちもだ。
私が頷くのを待って、滝は踵を返し講堂を出て行ってしまう。初日から行事をサボることに後ろ髪を引かれながらも、私が選ぶ道は推し活より他にない。
滝は迷いなく庭の中を歩いて行く。会社と変わらないから違和感が無かったけれど、そういえば氷帝学園には上靴という存在が無いらしい。講堂をぐるりと回って裏手に出ると、芝生の上をぐんぐん進んでいく。そのまま林の中へ入っていこうとするから、流石に少し怖くなった。周りには人気が全くない。普通なら着いていくはずがない状況だ。
……でも今やめたら、滝のこと知らないままだ。推しが悪いことするはずない!
そう信じて、薄暗い林の中へ足を踏み入れる。芝生は雑草に変わり、砂利も混じり始めた。
「ここだよ、どうぞ座って」
「……わぁっ」
空を覆う木々がそこだけぽっかり空いていて、春の柔らかな日差しが落ちる場所だった。大通りにあったのと同じアイアンのベンチと、パラソルのついたテーブル、木々の間には畳まれたハンモックまであった。
「ここでサボるつもり?」
「まさか。俺は真面目な生徒だよ。生徒会長もおっかないし」
見せられたスマホの画面には、講堂のステージが映っていた。ファンファーレみたいなチャイムが鳴り響き、『これより氷帝学園前期始業式を開会します』とアナウンスが続く。
「ライブ中継……」
「氷帝アプリ。説明なかった?」
あったし入れたけれど、ろくに見ていなかった。
勧められたベンチに座ると、その隣に滝も座った。テーブルの上にスマホを置いたので大人しく見るかと思いきや、生徒指導の教師の言葉に被せて話をし始める。
「いつもはここで眠っている常習犯が居るんだけど、新学期だし流石に連れて行かれたみたいだね」
「滝は良いの?」
それって慈郎じゃんという言葉と好奇心は飲み込んだ。滝はふんわりと笑う。春の優しい光に相まって、その瞳があんまり甘やかだったから心臓がどきりとした。
「だって、君とても美しいから。跡部以来だよ、視界に入れるだけで眼福な美形」
「んん?」
「ほら、俺も美しいだろう? 綺麗なものは一箇所に集まるべきだと思うんだ、だってその方が世界のためだもの、今度跡部も紹介してあげるから、是非つるんで欲しい。相乗効果で何倍もの大衆を魅了しよう」
「んんん?」
「肌白いねえ、化粧品はどこの使ってる? シャンプーは? フレグランスは? 爪も綺麗だ、どこのお店? 今俺最強の睫毛美容液探しててさ、君は何使ってる?」
「んんんんん……」
……残念なイケメン、爆誕。
一目惚れなんだ、なんて台詞が続いてもおかしくないくらいの甘さが秒で霧散した。あのうっとりした瞳は、私では無くて自分に向けられていたものだったらしい。でも良いのだ、わかる。好きなことの話題には早口になるその習性、私にはよぉくわかる。
……跡部様も紹介してくれるっていうし、なんて有難い!
「滝が自分大好きなのはわかった。その気持ちすごくわかる。沢山語ろう」
「ああやっぱり君も君が好きだよね、俺たち良い友だちになれそうだ。なんなら付き合ってもいい」
「それは要らん」
そして、私は私じゃなくてテニプリクラスタです。
両手をがっちり繋いで握手をした。私の目を真っ直ぐに射て心から嬉しそうな顔で笑う滝だけれど、それが私の瞳に映った自分を見ているような気がしてならない。
「あは、振られちゃったからまずは美容液の話から始めようか」
スマホから『生徒会長挨拶』という声が流れてきた。跡部様の新動画を拝むチャンスだというのに、「気が散るねー」と言いながら無情にもアプリは落とされてしまった。
「え、睫毛天然なの⁈ 跡部も同じこと言ってたよ……憎い、高級自然素材ガチャの引き良すぎじゃないか……憎い……」
「滝サン、始業式終わったみたいよ」
「あれ本当だ。あっという間だったね、君と話すのすごく楽しい。ライン交換しない?」
私も楽しかった。まるで元の世界の同年代の女子会みたいだった。何故中学生が、独身貴族の社会人と同ランクの基礎化粧品を使っているのか。格差社会が改めて恐ろしい。
講堂の方から騒めきがし始めた。結局始業式は全く聞いていないし跡部様は見損ねている。
さりげない仕草で手を差し伸べられて、思わず取って立ち上がったけどこんなこと普通の友だちがするだろうか、しかも中学生だ。
……もう流石、王子様としか言いようがないね。
編入初日の昼食は、小夜と一緒にとった。今日の昼食は来るときにコンビニで買ってきたもの。氷帝には購買や食堂だけじゃなくてカフェにファストフードのフランチャイズ、サロンにレストランなんかが複数あるらしく、こんなマンモス校でもランチ難民になることはないらしい。それで経営大丈夫なのかと心配になるけれど、全ては跡部様がご入学あそばされたことが発端らしいからそれだけで全て説明がつく。
小夜の昼食は、母親の手作り弁当だった。それが、今日女の子の編入生が来るからどこでも一緒に食べられるようにという配慮らしいことに気が付いて脱帽した。
……テニプリゲームに出てくる女の子たちも結構大人びてたしな。もしかして元の世界より、みんな精神年齢が高い?
ウィンナーをフォークで刺しながら、小夜はじっと私を見る。
「あなたって大人びてるよね」
「私も今同じこと思ってた……小夜のほうがずっと落ち着いてるよ」
「今までそんなこと思ったことな、」
小夜の言葉を遮って、私たちの隣に立った女の子が「コンビニの食事なんて、添加物が沢山入ってるからママが食べさせてくれないの。羨ましい」と連れ立っている友だちと笑った。
……中学生女子にマウントを取られてしまった……。
社畜にコンビニ飯はマストどころか有難い存在だけれど、私は今十四歳になってしまったわけだし、子どもの身体を労わるように自分の身体を大切にしてあげた方がいいかもしれない。
「心配してくれてありがとう」
にっこりポジティブに返してやると、マウントに失敗した彼女たちは面白くなさそうな顔で教室を出て行った。小夜は完全に呆れ顔だ。
「人間性を損なっているわね。彼女たち知ってるのよ、あなたのお祖父様がコンビニの生みの親と言われる実業家なのも、あなたのご両親が他界されていることも」
「ほほう」
私は知らなかった、これは非常にまずい。後者については自分でつけたオプションだというのに完全に忘れていた。社畜の頃から一人暮らしだったから、一人で暮らしているのに違和感が無さすぎた。反対に、小夜然り、編入初日にパーソナルデータがだだ漏れなのには強烈な違和感だ。祖父は有名人らしいので有名税だろうか。あとでちゃんと調べておこう。
「彼女たちは危惧してるの。だって私はこんなに可愛いし賢いし家柄も良いし彼氏イケメンだけど、単独行動だったから。あなたはすごい美人だし家柄も良いでしょう? これで私とあなたが一緒に行動するようになったら、学園内のグループカーストの番付が狂うもの」
「心底どうでもいい。でも小夜とは一緒に居たいな。暇なときでいいから学園めぐり付き合ってほしい。このカフェと、図書館と、サロンの音楽会と……」
今日配られた内部生用の学園パンフレットには、楽しい情報が沢山だった。漫画の中のセレブ学園はやりたい放題してくれているので、折角転生したのだから私もそれを享受したい。
「いいよ。学内でも学外でも、付き合ってあげる」
胸がきゅんとした。小夜が笑った顔があまりにも可愛かったせいだ。こんなに可愛いし性格まで良いのだからもしかしたらテニプリキャラの彼女かもしれないと思ったけれど、彼氏はバスケ部らしい。
「ねえ、スマホあなたのじゃない?」
「あ、本当だ。かけてくる人なんて滅多無いから……」
「そんなこと態々教えてくれなくてもいい」と言われたけれど事実だ。画面には『忍足侑士』の表示。これを登録した日の変に膨らんだキラキラした気持ちはないけれど、それが無くなった分の安心感は確かに存在している。
「はい、私」
『自分始業式おったか?』
「スマホで聴いてはいたよ」
『編入初日からサボタージュとは自由やなぁ』
間延びしたような低い声色に少しだけ責めているような音を見つけて、滝の厚意だというのはやめておいた。折角出来た友人を売るような真似はしないのだ。
……侑士の声、改めてやばい。耳元で囁くのテロだよエロテロリスト。
しかも聞き慣れた楽曲やゲームと違って、次にどんな言葉が来るのか予想もできない。
『本題な、今夜夕飯、一緒に食おうてうちの両親がな。自分の編入祝いと俺の進級祝いとか』
「今夜? 予定はないけど」
急だね、という呑み込んだ言葉は読まれてしまった。侑士曰く、忍足家の両親はこの春から仙台で暮らしているらしい。お姉さんは同時期に北海道の大学へ進学していて、東京の家には侑士だけが残っている。
「お父さんお医者さんだったよね?」
『おー、医局の言いなりや。俺は医者になったら絶対開業する』
「いいな開業医。私もやりたい」
『そこはお嫁さんになりたいって言うとこと違う? 嘘でも』
ご両親は夕方の新幹線で来て、夜に蜻蛉返りするらしい。大人の忙しさ、融通が効かないしがらみの多さ、年々落ちてくる体力なんかを知っている私は内心咽び泣いた。
……一人暮らし始めさせた息子が心配だろうに、折角の一家団欒に私まで混ぜてくれるなんて……良い人たちだなぁ。
「侑士のご両親は優しいんだね。是非お邪魔させてもらうよ」
『そんな誉めそやすほどのもんやない。自分にとっても叔父叔母やねんから頼ったらええんやないの。今日の七時にモナリザって店、わかるか。自分ちの近くのブックカフェの隣』
「うちの近くにブックカフェなんてあった? わかんないけど検索して行くよ」
『わかりにくいけどな。古民家改造したフレンチレストランで、看板も出てへんし』
変に迷って、折角仙台からお見えになるご両親をお待たせしたくない。その点、スマホより頼りになる道標が電話の先にいる。
「今日部活あるの?」
『え、秘密』
「滝ぃ、今日テニス部何時から何時まで?」
ちょっと離れた席でスマホをいじっていた滝から、三時から六時までと言質をとった。今日は始業式だから下校も早いのだ。
「かの有名なテニス部の練習を見学したいと思ってたんだ。レストラン、一緒に行こうよ」
『自分、ぐいぐい来るなぁ』
……え、今つまり『おばちゃん』って言った? せめて『お姉さん』にしといて。
帰り際のホームルームが終わると、小夜は年相応に嬉しそうな笑顔で廊下へ駆け出して行った。男子バスのマネージャーをやっているんだそうで、部活帰りの彼氏との帰宅デートが今一番の楽しみだとか。
……青春かよ! 羨ましい。若者よ末長く幸せに。
爆ぜろなんて言わない、友だちだから。
さっと鞄に筆記用具や書類を詰め込んで、喧騒の廊下を歩く。新入生への部活見学案内のアナウンスが流れる中、中庭の枝垂れ桜がさやさやとピンクの風を魅せている。
……本当に、異世界だ。
小夜や滝から離れてしまえば、私はまたいつもの誰も知らない私に戻ってしまう。今日の食事会で新しく人との繋がりを作ることは、この世界との新しい接点になるはずだ。帰り道を急ごう。
学園から家までは徒歩で通える距離なのがとても助かる。幸せアイスのステータスチョイスは抜群だ。
「ただいまー」
家事代行さんはついさっきまで居たのか、玄関をあけるとお料理の良い香りがした。まだ1ヶ月程度しか住んでいない我が家なのに、学園から帰ってくるとこの静かさや匂いがどうにも落ち着く。
クローゼットの中で、お食事の服装を散々悩む。ブルーのワンピースが一番きちんと見える気がして、髪を整えたりしていたらあっという間に五時間近になっていた。推し活と実生活の両立は難しい。
……前は制服じゃないと学内入れないって言われたけど、学生証一応持ってこ。あ、手土産がない……いいのか中学生なら? 中学生久しぶりすぎて初心者同然だから……。
また来た道を学園へと急ぐ。後ろから黄色い声とバタバタした感じが近づいて来て、「走ろっ跡部様に早く会いたいよ」「忍足くんが試合してるって」なんて口にしながら、女の子たちが私を追い越して走っていった。氷帝の制服の子も居れば、全く違う制服や私服の子、中には青学の制服を着ている子もいる。
門の所には守衛さんが二人居て通行を止められた。
「テニス部の見学? 写真入りの身分証と、ここに名前と電話番号を書いていってね。ああ、学園の生徒さんなら学生証をここにかざしてくれればいいから」
特に難なく入れてしまった。前を急ぐ女の子たちの後をこそこそついていくと、もうここまで黄色い悲鳴が聞こえてくる。
「きゃー! 跡部様! 跡部さまぁ!」
「長太郎くーん! こっち向いて!」
「宍戸くん! 頑張ってぇ!」
……これ知ってる……ドリライとか、チームパーティとか……え、すごくない? 通常運転であのノリで騒がれてるの? こんな持て囃されてどんな大人になるの? アイドルなの?
もちろん規模は違うけれど、数十人の女の子たちがギャラリーから黄色い声援とハートを投げつけている光景に唖然とした。気後れしてしまって、ギャラリーの特等席から少し離れた場所に座った。こんなことなら、オペラグラスを持ってくればよかった、いやそれも怖いか。
あそこでサーブを打とうとしてる長身は侑士だ。眼鏡がきらきら光るしわかりやすい。同じコートに入ってるのは向日。こちらも一人だけ動きがずば抜けて多いから遠くからもよくわかる。その隣のコートでシングルスをしているのは滝。
……相手は……うわぁ……鳳長太郎だ……すごい……感動……顔はよく見えないけど本当に背、大きなぁ。
他のメンバーを早く見つけたくて、慌てて周囲に視線を走らせる。
……あ! あそこのベンチでふんぞり返って部員になにか言ってるの絶対に跡部様だよ! 後ろは樺地だもん大きい‼︎ あのポニテは宍戸だ! 玉出ししてるマッシュボブは日吉だ……すごい……。
何度同じアイスを買っても絶対に出てこないあの幸せアイスに言いたい。
……推しが生きてる‼︎ 私今、幸せ!
けれども三十分もたつと、今夜の食事会が気になりはじめた。最低限のマナーはわかる。語先後礼と最敬礼は親族にも適用できただろうか、もっと可愛げがあった方が好かれるかだろうか。この世界で初めて『親族』という存在に会うのは少し緊張する。
……侑士も一応そうだけど、目上の方とはまた違うんだよなぁ。……そんな不安な私には、コレ。
榊文庫から出ている新書、「サルでもわかるマナー本」。悪意しかないタイトルだけど、榊文庫、跡部社の両出版社は最近私の愛読書だ。もとの世界にはあるはずのないこの2社が今の日本の二大出版社で、私の知らない本を出しまくっているのがとても面白い。ちなみに跡部系と榊系は他にも未知のアミューズメント施設や美術館、リゾート地なんかも展開していて、そこを周り倒すのが今の夢だ。
予め用意しておいたブルーの布製のブックカバーをこっそりとかけて、六時までの残りを付け焼き刃を打つタイムにすることにした。テニスボールの軽快な音と女の子たちの声援は止む気配がない。